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国鉄1977年から1982年にかけて新製した一般形気動車キハ40形キハ47形キハ48形のグループを総称した名称である。なお、あくまで便宜的・趣味的に用いられたものであり、正式の系列名ではない。

概要

1950年代に新製された初期標準形気動車(キハ10系キハ20系など)の老朽化に伴う置換を主目的として開発され、全国各地に投入された。

基本性能

客室設備の改善(でも冷房装置は当初デフォルトで非搭載)や重装備化を図った割に、エンジンやミッションが本線向けのキハ66系を基準とする、高速向けの設定で製造されており、勾配区間や曲線の多い支線区の低速運用には見合わない仕様であった。

それだけでなく、搭載するディーゼル機関が信頼性重視のためデチューンされて出力的に見合うものでなかったため、「重い・弱い・遅い」の三拍子揃った低性能車としての評価が定着してしまった。要求性能の設定ミスと言えよう。非冷房なことも相まって、本形式が導入された先の鉄道管理局長が「時代にそぐわない仕様」だとガッカリしたという話もあるらしい。本当の意味での支線用車両は、軽量車体・高トルクエンジンのキハ37形キハ38形や、レールバスキハ31形キハ32形以降に持ち越される事となる。

人口密度の高い本州以南の平坦線区では駅間が通常長くても7km程度、大抵は3~4km台であり、10kmを超すようなところは山岳線区の急勾配区間というのが相場である。そのため、登場当初の性能では加速し切れないまま次の駅が来てしまう。例外的に北海道の長距離平坦路線では平坦かつ駅間が長いため、高速運用に耐えられたが、裏を返せば札幌市近辺以外のローカル線人口が平野部でも希薄ということである。要求性能の設定ミスと言えよう。本当の意味での支線用車両は、軽量車体・高トルクエンジンのキハ37形キハ38形以後に持ち越される事となる。

国鉄分割民営化に伴い継承したJR各社でディーゼル機関の換装等を行ってはいるものの、車両そのものの重さという根本的問題の解決には至っていない。北海道及び寒地向けで用意された大径心皿インダイレクトマウント台車装備の場合、割と簡易な改造により推進軸を追加できたため、2軸駆動台車へ改造することで450PS以上への高出力化(大抵は急勾配対策)が可能であったが、本州以南で大多数を占めるDT22系台車装備車の場合、揺れ枕を大改造したDT25相当形式(キハ60系の台車)にするか、キハ143形のようにボルスタレス台車に履き替えない限り2軸駆動化は不可能で(実際かような改造はなされていない)、粘着力の制限からエンジン換装車両も殆どは350PS程度に抑えられ、重さを帳消しにするほどの大出力化はできていない。

とはいえ、その「重さ」はイコール「頑丈さ」の裏返しとも言え、現に経年30年を超える車両が大多数になった2011年4月時点でも製造された全888両中796両が残存していた。さらにJR化後には転配によって同じ国鉄形で同僚でもあったキハ58系等の置き換えに使われたり、JR北海道では日高本線で軽快気動車キハ130形に置き換えられるもそのキハ130形が北海道(しかも沿岸路線)の環境に耐えられず、皮肉にもかつて日高から追い出されたはずのキハ40形がキハ130形の置き換えに使われるなど、いかにキハ40系が丈夫に出来ているかを窺わせる。しかし、さすがに東日本大震災では2両が大破するなど被害が出ており、また同地震では廃車され保存されていた車両1両も津波に流され解体となっている。

外観・内観

塗装は新製当初から朱色5号の単色塗装で、所謂「首都圏色」であった。JR東日本やJR東海が旧気動車一般色に塗り替えたキハ40形を登場させたが、当然キハ40形の一般色はこれが初となった。また、JR東日本では国鉄急行色に塗り替えた車両も出現した。他にも、JR各社によって様々なバリエーションがある。

観光列車向け改造車

JR北海道JR東日本JR西日本JR四国JR九州では観光列車用に改造された車両がある。特にJR九州では2004年に改造された車両が日豊本線肥薩線南部を走る観光特急「はやとの風」に充てられた。窓の開くワンマン装備付きで最高時速95km/hでコイルばね台車の特急用車両というある意味大変な代物である。JR四国の「伊予灘ものがたり」はグリーン車扱いとなるため、形式が「キロ47」に変更された(JR東日本でも「キロ40」「キロ48」という形式が存在したが、現在は「キハ」に再び格下げされている)。JR九州に新たに登場した「或る列車」は豪華スイーツ列車というコンセプトのため、食堂車とグリーン車の合造車であることを示す「キロシ47」などという珍形式を名乗る事となった

そして、終焉へ

長らく唯一のJR旅客6社共通の形式となっていたキハ40系であるが、製造から約40年を迎えて次第に補修部品の枯渇に悩ませられるようになると、次々と退役していった。

  1. JR東海では2016年(平成28年)3月26日改正を前に全てミャンマー国鉄行きに。
  2. JR東日本ではGV-E400系EV-E801系の登場によって、男鹿線五能線等のキハ40系が2021年3月改正までに引退したことにより、現在営業運転に使われるのはジョイフルトレインのみとなった。
  3. JR北海道では2012年10月27日をもってキハ48形が定期運用から撤退(一部はミャンマー国鉄へ譲渡)。キハ40形もDECMOの増備が進んだため2025年3月をもって定期運行を廃止する。なお、観光列車用に改造された車両についてはその後も残る予定。
  4. JR九州ではBEC819系YC1系の登場によって一部の線区では撤退したものの、現在は停滞中で、むしろ新幹線開業に伴い新たに運行開始した路線すらある。
  5. JR四国では2025年度からハイブリッドローカル車両の導入を表明しており、元の保有数が少ないこともあり早期の引退が見込まれる。
  6. JR西日本では、経営移管の確実な氷見線城端線を除いて引き続き第一線で活躍していく予定である。
  7. 第三セクター鉄道や私鉄の小湊鐵道へ数両が移籍。またミャンマー国鉄などへの譲渡も発生している。

改造による派生形式

※前述の「キロ」「キロシ」も含む。

改造・観光列車

移籍車両

  • 会津鉄道:JR東日本を余剰となったキハ40形を譲受し、AT-400形401号「風覧望」へ改造した。
  • 道南いさりび鉄道:キハ40形9両が第三セクター移管に際し移籍。うち2両はイベント対応車「ながまれ号」へ改装。当初ながまれ号を除く車両は全て北海道色で運行されていたが、2016年7月から2019年3月にかけて全車両が発足後に塗装されたオリジナルの塗装となった。
  • 錦川鉄道:JR烏山線で活躍していたキハ40 1009号車を譲受し、2017年9月より団体臨時列車として運行中。塗装は烏山線時代のままで、JRロゴも残っている。
  • 小湊鉄道:まずJR只見線で活躍していたキハ40 2021・2026号車を2020年5月に譲受し2021年運行開始。また五能線などで使われていたキハ40 1006・2018・2019号車も追加譲受している。番号は1から振り直された。
    • 余談だが、小湊へ譲渡されたキハ40形は、同社オリジナルの在来車キハ200形よりも車齢が若い(特に初期型のキハ201・202とは18年の車齢差がある)。
    • 北条鉄道五能線で活躍していたキハ40 535号車を2022年2月にJR東日本から譲受。同年3月から運行開始。塗装は五能線時代そのままである。

    海外への譲渡車

    • ミャンマー国鉄:JR四国で使用されていたキハ47形を皮切りに、JR北海道、JR東日本、JR東海で使用された本形式を多数譲受して使用している。
    • タイ国鉄:JR東日本新潟支社で使用していた本形式を譲受したものの、諸般の事情から港で陸揚げされたまま放置されている模様。

    創作作品での仕様

    鉄道員

    1999年公開の映画『鉄道員』の撮影用車両。原作小説で登場するキハ12や類似の車両が既に全廃されていたため、JR北海道のキハ40 764号車をキハ10系初期型風に改造して使用した。ヘッドライトの1灯化や側窓のバス窓化により印象を変え、車番はキハ12の製造数に追番した「キハ12 23」と表記した。

    映画公開後は観光列車に充てられ、舞台となった根室本線の他、急行「礼文」のリバイバル運転として宗谷本線稚内駅まで足を延ばしたこともある。しかし、運転台のパノラミックウインドウを埋めたことで視界が狭まったため乗務員からの評判は悪かったようである。また改造によって車体の劣化が進んだ上に集客力の低下が重なり2005年に廃車された。現在は同作の舞台となった根室本線幾寅駅(富良野駅新得駅間が廃止された2024年4月1日に廃駅)にカットモデルが保存されている。

    君の名は。

    糸守町高山本線が通っている設定のため、三葉が上京するシーンで旧一般気動車色のキハ40に乗車するシーン、瀧が糸守を探し出した際、彗星災害に巻き込まれ大きくひしゃげて放置された2両のキハ40(旧一般気動車色と首都圏色各1両)と、都合3台登場するが、これはJR東海所属車両には存在しなかった仕様をしている。

    丸みを帯びた窓と空調装置(放熱器のみ屋上に上がったセパレート形)はJR西日本の延命工事車が近く、ラッシュ時対応の3列シートなど(三葉が着席した座席が一人がけである)車内内装はJR東日本キハ110系100番代が近い。

    なお、東海所属車は窓は下段固定となっていたが留め錠を封印しただけで西日本車のような窓そのものの取替は行っておらず、また空調は使用条件(都市部の運用がほぼなく、車体下での放熱で支障ない)から放熱器を屋根に上げなかったため屋上外観は非冷房時代のまま、座席も4列を最後まで維持した。色も旧一般気動車色は復刻されたものがあるが、首都圏色はなされなかった(旧気動車色復刻車以外は全て最後までアイボリー+湘南色帯の東海色であった)。但しいずれも汎用の部品や塗料で構成されており、全く再現できないわけではない。

    災害廃車は幸運にも実際の美濃太田車には出なかったものの、2004年の台風災害で高山線北部は線路流出により長期運休となった事があり(キハ40系引退後の2018年の西日本豪雨でも再度被災し2箇所分断、北部は数ヶ月以上の不通となっていた)、その際2台のキハ48が長期間留置されている。

    旧キハ40系

    実は一般に知られる「キハ40系」という形式は二代目で、1977年以前に初代が存在していた。

    オハ61系客車を気動車に改造したものがそれで、両運転台車キハ40、片運転台車キハ45、エンジンを搭載しない制御気動車キクハ45、付随気動車キサハ45の4形式が改造によって誕生した。1966年には、キハ40形・キハ45形が、新造される近郊形気動車に形式名を譲るため、それぞれキハ08形キハ09形(2代目)に形式を改められている。

    当時の北海道では気動車が慢性的に不足しており、これらの客車改造車は輸送力増強の手段として期待された。しかし、さほど軽量ではない客車にエンジンを搭載したことで車重がかさみ、走行性能は良くなかった。また座席背もたれを板張りからモケット張りに改造されている車両もあったが、種車の仕様を継承した座席間隔は狭く、内装も客車時代の内装をペンキで塗り潰したかニス塗りのままの半鋼製で、新造された気動車に比して見劣りした。

    もとより軽量化よりも牽引時の強度を重視した客車の鋼体は、必ずしも気動車に向くものとはいえず、実際キハ22形等と比べ6t程度もの重量増となったため、加速・登坂・制動性能などへの影響は避けられなかった。

    実際の運用にも制約を受け、多くの場合はキハ21形やキハ22形など、より軽量で性能に余裕のある一般型気動車と併結運用することで非力さを補うことが多かった。苗穂配置車は、定山渓鐡道線(現・じょうてつ)の札幌駅乗り入れ列車との併結運用など、限られた運用に充てられていた。釧路配置車はその非力さ故に、急峻な狩勝峠越えでは9600形蒸気機関車を補機として連結する必要があったという。

    結果としては扱いにくい失敗作と言わざるを得ない状況で、大量増備には至らず、いずれも1971年までに除籍された。

    今日「キハ40」と呼称される形式の番号が101~で付番されているのは、この初代キハ40との混同を避けるためとされるが、登場時点で当該車はすべて廃車のため実務上特段の問題もなく、意図は不明である。

    なお客車を気動車化した存在としては、後に50系客車→キハ33(JR西日本)、キハ141系(JR北海道)があり、キハ141系はこのコンセプトの車両としては初めて成功したと言える存在である。

    キハ08 3は京都府の加悦鉄道に譲渡され、トイレの撤去等の改造を施行された上で1974年から使用された。加悦鉄道は1985年に廃止されたが、キハ08 3はその後も解体されずに保管され、現在も京都府与謝野町の「加悦SL広場」において静態保存されている。

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