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鉄道車両の形式の一つで、国鉄が設計・新製した特急形気動車。


概略編集

正式名称は「181系気動車」。在来車との混成を考えない為、新性能電車に準じた形式が新たに起こされた。気動車では初めて「系列」が正式に採用された。

したがって本来「キハ」はつかないのが正式だが、慣例的なものや、181系電車との区別から、一般に「キハ181系」と称される。

既に増備を終えていたキハ80系のコンセプトを踏まえつつ、新たに500PS級の大出力エンジンを搭載し、中央本線土讃線と言った急峻な山岳路線用の特急車両として投入する事を目的として開発された。


開発前史編集

 キハ181系の開発が始まった1960年代の国鉄の特急型気動車は、1960年から製造されたキハ80系が運用に就いており、電車と遜色ない特急サービスを提供しており旅客からも好評であった。


しかし一方で、以下のような問題があった。

  • 搭載されていたディーゼル機関DMH17H型の基本設計は戦前の物であり陳腐化は否めず、過給器もなく非力(1基180PS)だった為、基本的に1両に機関を2基搭載する必要があった。しかし先頭車など一部車両は艤装と床下スペースの制約で1基しか搭載できない。それゆえ編成全体の出力が不足気味、かつ予備燃焼室式という旧式な機構ゆえ無駄な発熱が多く、過熱火災防止のため変速段使用時におけるフルスロットルの連続使用は5分以内と言う制約が有った。また中央西線など、1965年頃で特急の需要が見込めるにもかかわらず急行以下しか走っていなかった線区は、特急型キハ80系ではキハ58系(車両ほぼ全てを2機関キハ58・キロ58で固めた編成)よりむしろ鈍足になるため、走らせたくとも走らせられなかった場所である。
  • キハ80系列の走行機器は最高速度100km/hを前提とした設計だったが、後にキハ181系と同時にデビューする583系485系は最高速度120km/hで設計されており、主要幹線の最高速度の引き上げが確定路線の中で、キハ80系は早晩に電化区間におけるダイヤ編成の足枷になる。

国鉄は元々キハ80系の為に試作車ともいえるキハ60系にて専用の大出力機関と変速機を開発していたが失敗(※1)、結局DMH17系を2基搭載する設計に変えたという過去が有った。だが国鉄は新性能電車と同等の走行性能を持つ気動車の制作の為に再び大出力機関の新設計を決断。1966年に試作車を完成させる。これがキハ90系である。この時キハ90系に搭載された機関は300PS級のDMF15HZA、キハ91系に搭載された機関が500PS級のDML30HSAであり、比較検討の結果出力に余裕があり、かつ搭載も1基で済み床下機器の搭載スペースを広く取れる後者が採用。1968年中央本線中央西線)の特急しなの」で運用を開始した。


……文章を読めばお分かりいただけるかと思うが、試作機ともいえるキハ90系の運用開始と、それをフィードバックしたキハ181系の運用開始までは僅かに2年しか離れていない。これは後に「ヨンサントオ」と言われる1968年10月の白紙ダイヤ改正に間に合わせる為に、キハ80系の車体構造とキハ90系の走行機器を組み合わせる形で完成を急いだ為だが、この時キハ90系の夏場での走行試験は決して十分とは言えなかった(※2)。

半ば見切り発車的に設計が始まったこの事が、後にキハ181系に暗い影を落とすことになる


車体・主要機器編集

機関編集

本系列のディーゼル機関は試作車であるキハ91系のデータを基に開発され、さらに各部に改修が加えられたDML30HSCを1基搭載している(食堂車であるキサシ180は搭載無し)。定格出力は500PS、変速段使用時には最大590PS発揮可能という、当時の国鉄の気動車用の機関としては破格の出力を誇るものである。

発電用のエンジンはキハ90系に搭載された機関をデチューンし発電用とした物(DMF15HS-G)を搭載している。

液体変速機編集

キハ60系の開発時に失敗した変速機(変速1段・直結2段)の再設計を諦め、やはりキハ91系で試験を行っていたDW4系(変速1段・直結1段)をそのまま採用。大馬力のエンジン出力による空転を避けるため、他の形式の気動車と特性が異なり、起動~低速時のトルク増幅作用が小さい代わりに中速~高速度におけるトルク低下が抑えられている。また液体変速機の変直切り替えは時速85km/hで自動で行われる。後述するが、この変速機がキハ181系のアキレス腱となった。

ブレーキ編集

機関ブレーキ併用CLE電磁自動空気ブレーキを採用。空気圧動作による自動空気ブレーキに電磁中継弁を併設した、キハ80系やキハ58系長大編成対応車で採用されたDAEブレーキと原理は同一で互換性もあるが、ブレーキ弁を摩耗部品がなく信頼性と整備性を高めたダイアフラム式のKU弁に変更している。電磁中継弁は増圧ブレーキ対応で営業120km/h走行を可能にしている。ブレーキ弁はセルフラップ式となりSELD電磁直通ブレーキ同様操作角度によってブレーキの強弱がつくようになった。

冷却系編集

機関の冷却に用いるラジエーターは自然通風式を採用。キハ180では屋根上一杯にラジエーターの放熱素子を並べ、運転台付きのキハ181では自重の関係から自然通風式を採用できなかったため、室内に設置されたラジエーターを屋根上のファンで冷却を行う方式にした。

台車編集

台車はキハ91系で試作された二軸駆動のものを量産化したものが採用されている。また、量産車ではディスクブレーキが採用された。

今日の第三セクター軽快気動車の二軸駆動台車のような、ボルスタレスまたはインダイレクトマウント台車のそれと異なり、台車にはセンターピン自体が存在しない。台車中心部に推進軸を貫通させるためで、代わりに台車の外側からリンクにより擬似的に台車中心部を固定する機構(仮想心皿:EF62ED75などのそれと同原理)が装備されている。

制御系編集

運転台は国鉄の車両としてはめずらしくマスコン・ブレーキ共に横軸式の主幹制御器(今で言うところの横軸ツインレバー式)が採用されている。また先頭でも述べた通り、キハ181系は既存の気動車との併結を一切考慮していないが、キハ90系とは信号回路が同一なので混結・併結が可能。

車体編集

全長はキハ80系固有の21.0mから新世代気動車基準の21.3mに伸びている。スタイリングはキハ82系を踏襲しながらも、尾灯とタイフォンが同一のライトケースに纏められている。また、ライトケース自体も角ばった形に変わっている。

車内設備編集

キハ80系をおおむね踏襲しているが、空調はキハ80系に装備されたAU12系(いわゆるキノコ型)から気動車用に新設計されたAU13系(AU13S)に変わり、冷却能力がアップしている。この型のクーラーは絶縁対策が施され、後に14系485系にも使われている。なお、国鉄末期からJR化後にかけてリクライニングシートへの取り換え等のアコモデーション改良が行われた。


各型式編集

新製車編集

キハ181形編集

先頭車。全49両が製造された。機器室が有る関係上、定員確保のため便所・洗面所の設置は無し。また、行先表示器も設置されていない。

キハ180形編集

中間車。全79両が製造された。こちらには便所・洗面所・行先表示器全てが設置されている。

キロ180形(・100番台)編集

グリーン車。基本番台は13両、100番台は4両製造された。便所が2か所(1か所は洋式)になっているほか、車掌室が設けられている。100番台は四国特急用で、洋式便所を設けず代わりに車内販売準備室としている。

キサシ180形編集

食堂車。全13両が製造された。車内レイアウトは583系食堂車(サシ581形)に準じ、また唯一走行用エンジンを搭載していない。そして、キハ181系列で最も不遇


改造車編集

ここでは番台が新たに起こされた物を記す。

キハ181形100番台編集

特急の短編成化に伴う先頭車不足を補うため、キハ180形をベースに先頭車改造をした番台。国鉄時代に3両、JR四国で2両の計5両が改造。外見上の大きな差異としては機器室後ろの小窓の有無(改造車は小窓が無い)のほか、乗降デッキ側に便洗面所スペースと採光窓が残っていた。

キロ180形150番台編集

キロ180系を四国特急に転用する際、すでに投入されていたキロ180形100番台に合わせるべく、洋式トイレ・洗面所を車内販売準備室に改造した番台であり、2両が改造された。なお、2両とも下記のキロハ180形に改造された。

キロ180形200番台編集

四国の特急短編成化に伴い、不足するグリーン車を補うためにキハ180形をベースに改造をした番台であり、2両が改造された。キロ180形との大きな差異は窓(キロ180形は個別窓、普通車からの改造である200番台は大型窓)。普通車にグリーン席を設ける改造の為、シートピッチと窓の間隔はバラバラになっている。なお、2両とも下記のキロハ180形に改造された。

キロハ180形編集

短編成化された四国特急において利用率の低かったグリーン車の席数を見直す為に、キロ180形を半室グリーン車に改造した番台。普通席もグリーン席と同じシートピッチという乗り得車両でもあった。

改造されたのは8両であるが、それぞれ

  • キロ180形100番台から改造されたグループ(4両)
  • キロ180形150番台から改造されたグループ(2両)
  • キロ180形200番台から改造されたグループ(2両)

と、小世帯な割に意外と改造元のバリエーションが豊かであった。


運用編集

国鉄時代編集

最初に投入されたのは中央本線(中央西線)であり、1969年10月にデビュー。キハ58系で運行されていた急行「しなの」を待望の特急に格上げの上、ゆとりを持たせた最高速度95km/hの運用ながら大幅な時間短縮を実現し、華々しいデビューを飾った。


…筈だった。


が、ここから暫くキハ181系は自身の設計に苦しめられる事になる。


まずしなの投入後に迎えた最初の夏(1970年)、機関のオーバーヒートが続出。導入が始まったばかりで予備車も無かった事から、一時はキハ91系を混結して(冷房装置を搭載していたキハ91 8が主に用いられた)急場をしのいだ。


だが、それ以上にトラブルが顕著だったのは東北本線の特急つばさである。1970年秋から始まったこの運用では下り(上野→秋田)では電車特急に伍して福島まで連続で120km/h走行を行った直後に板谷峠を補機の力を借りずに単独登坂し、逆の上り(秋田→上野)では板谷峠の単独登坂で機関を酷使した直後に福島から上野まで高速走行(あまつさえ、福島以北で発生した遅れを取り戻すために、最高速度である120km/hを超えて回復運転を行うことさえ有った)を実施していた。

その結果機関のオーバーヒートどころか排気管の発火・焼損が続出、一時は定時運行どころか列車の運行自体が危ぶまれる状況になったため、1972年秋から1975年の奥羽本線電化完了に伴う485系置き換えまで、キハ181系はEF71を補機に付け板谷峠を超える事となり、併せて変速段フルスロットルの連続使用時間は5分以内とするキハ80系と同様の制限が設けられた。


ただし、キハ181系の名誉の為に書くと、板谷峠自力登坂が開発目的だったとはいえ、そもそも同区間は電車である485系でも定格性能時のMT比である6M5Tでは巻線過熱で営業運転できず、「つばさ」電車化の際には他の東北特急とは別に6M3Tの強力編成が用意された(車重が重く、また組成に制約のある583系の入線は断念された)。

後に板谷峠の区間は山形新幹線に移行されるが、車体は200系より小さく軽いにもかかわらず400系は210kw主電動機の全電動車方式とされ、現用のE3系つばさ用L編成もこまち用R編成の4M2Tに対して5M2Tと強力になっている。

また、ここまで過酷な運用になったのは当時のつばさのダイヤがキハ181系の性能を常に限界まで使う前提で組まれていた(=余裕時分が殆ど無い)のも一因であり、1973年のダイヤ改正では上野⇔福島間の所要時間が伸ばされ、運用に多少のゆとりが生まれた。

もっともこれはキハ181系だけのためのものではなく、全体的な背景として、この時期の国鉄優等列車用車両の酷使、東北新幹線開業予定繰り下げによる東北本線の線路容量逼迫(特に常磐線まわり以外の上野発着長距離列車の全てが集中し、沿線の宅地化による中距離電車の増発が重なった上野~大宮間は事実上ダイヤが破綻していた)、労使関係破綻による検車体勢の悪化があり、電車の485系・583系列車でもトラブルやダイヤの乱れによる運転中止が相次ぎ、急行型の455系による代走などはしばしばあった。ひどいときには485系の代走を453系にやらせ、その453系急行を403系が代走するという有様だった。キハ181系「つばさ」ばかりが注目される理由の一つに、キハ181系は大出力機関・増圧弁付きCLE常時機関制動併用電磁自動空気ブレーキの最初の量産形式であったため、性能上試作車のキハ90系以外代走を務められる形式がなかった事が挙げられる。


つまり「東北本線を120km/hでぶっ飛ばしてそのあと板谷峠を自力登坂する」という要求自体が1968年の気動車技術では無謀だったのだ。


いっぽうの「しなの」の方でも中央西線電化を持って181系電車・183系電車化が検討されたが動力性能がさして変わらず時短効果がないことがわかり、曲線通過性能を高めた振り子式の381系が開発され投入されることになる。


話を戻すが、キハ181系は1975年の奥羽本線電化を持ってつばさあおばの運用を外れ、余剰となった編成をキハ82系の置き換えとして高山本線の特急ひだや新設される紀勢本線の特急南紀への転用が計画されたが、担当する名古屋第一機関区は「しなの」でこりごりだったのか、両特急への充当を拒否した(※3)。


1971年3月、伯備線経由の特急「おき」を皮切りに西日本でも運用を開始。東北におけるつばさとあおばの運用が消滅した後のキハ181系は活躍の場を東日本から西日本(関西・中国・四国)に移しやくもはまかぜ・おき(2代目)といった陰陽連絡特急、まつかぜあさしおといった山陰特急やしおかぜ南風と言った四国島内特急の運用(※4)に就く事になる。


なお食堂車は民営化前の1982年伯備線電化で最後まで使用していたやくも電車化され、キハ80系の食堂車より先に全車廃車となっている。

それ以外ではキハ81系のように余剰となって、ジョイフルトレインに改造されることもなかった。1985年には博多「まつかぜ」の系統分離で誕生した「いそかぜ」として、初めて九州を走行することになった。(※5)


JR時代編集

JR化後はJR西日本JR四国に継承された。

JR四国で塗装が国鉄色からコーポレートカラーである水色を基調とした塗装に変更され、1988年に開業した瀬戸大橋を走行し伯備線電化以来5年ぶりに岡山駅に乗り入れるが、予讃線の電化が進んだ事、後継のキハ185系2000系の増備が始まった事で早々に置き換えが進み、1993年高徳線の特急うずしおの運用を定期運用を離脱、同年秋の団体列車の運用を最後に全廃した(※6)。


JR西日本では1994年智頭急行開業に伴い、はくとに充当。1997年まで使われ、その後はいなばに転用され三度岡山に乗り入れることになったが、2003年に置き換えられる。

末期にかけてはまかぜ用の車両が塗装が変更、原色で残ったのは「いそかぜ」で、これも2005年に廃止され、これより全廃まですべて塗装変更車となった。

他のJRに目を向けると、JR東日本では関西から長野方面へのスキー用の臨時列車「シュプール号」で、JR東海では同じく伊勢方面への修学旅行臨などで使用されている。

最後の運用となったのは大阪から播但線経由で山陰方面へ向かう特急「はまかぜ」で、これも2010年11月に新型車両キハ189系へ置き換えられ、すべての定期運用から退き2011年3月の臨時運転をもって完全に引退した。


なお、「はまかぜ」運用に就いていた一部の車両はミャンマーに譲渡された。


キハ181は失敗作か否か?編集

キハ181系は見切り発車的に設計が始まった事、その結果として初期の方は重大なトラブルが続発した事から、様々な資料で「失敗作」と断じられる事が多い。


だが果たして、キハ181系は完全な失敗作だったと言えるのだろうか?


最初の想定であった中央本線板谷峠と言った「急峻な山岳線区でのスピードアップ」を考えた場合、確かに成功だとは言い辛い。


要因としては、以下のようなものが挙げられる。

  • DML30系エンジンは定格500PS、最大590PSを発揮可能とは言え、燃焼室構造はそれまでのDMH17型から大して進歩しておらず(※7)、設計上どうしても発熱を押さえることが難しかった。これを無理やりターボチャージャーで回転数を上げる設計(にもかかわらず、インタークーラーは未搭載)だった為、燃焼遅延に由来する排気管過熱を主とするエンジントラブルが多発。またガスケットを個別ではなく複数気筒を1組として一括で締め上げるという無理な構造も災いした(※8)。また、当初のセッティングが定格状態で500PS超過状態を常用とする過負荷前提の不適切なものでもあった。
  • 採用された液体変速機は85km/hまで変速段を用いる設計だった為、速度が落ちてしまう勾配区間では長時間機関の定格出力を超える運用を行う事になり、エンジンの発熱量の更なる増大を招いてしまった(※9)。試作車であるキハ90系も含め、キハ181系の初期トラブルの最大の要因はこの変速機、特に多段化の失敗にある。キハ60系の変速機の開発失敗で「大出力エンジンに多段化した直結段を持つ変速機は組み合わせられない」という結論から変速・直結各1段としていたのだが、これにより85km/hという中高速域まで変速段を使用する仕様となってしまった(※10)。故に勾配線区ではその殆どを機関に負荷をかける変速段を用いて走破することになり、結果トラブルが続発したのである。結果としてキハ82系と同様に変速段では使用制限が設けられる事になる
  • 機関冷却が上手く行けば問題は深刻化しなかったのだろうが、上述した通りキハ181系列の大半は自然通風式、即ち速度によって通風量=冷却能力が大きく左右される方式だった。つまり、上記の変速機の仕様から変速段を用いて勾配を踏破するためにエンジンの発熱に拍車がかかる中、勾配によって速度が落ちるため冷却効率が悪化、放熱が追い付かなくなり最終的にオーバーヒートを招いたのである。加えて、非電化区間の断面の小さいトンネルでは熱せられた空気が放熱素子(屋根上の黒い部分)に纏わり付き、さらに冷却が上手く行かないという事態まで招いていた。後年、自然通風式を採用したキハ180には強制通風用のファンが追加されるという(ある種本末転倒な)改造がされている。

纏めると、登坂の為に機関を酷使しがちであり、かつ走行速度は遅くなる急峻な山岳線区に対し、「大馬力だが発熱量過大の機関」と「低速のみならず中高速域まで機関に過剰な負荷を強いる変速機」、そして「走行速度に効率が左右される冷却装置」を搭載した時点で既に趨勢は決まっていたのである。(※11)


一方で平坦な路線での運用を考えた時、キハ181系は優秀な性能を有していた。


理由としては下記の要因がある。

  • 時速85km/hから120km/hの速度域では通風量も十分であり、機関の冷却もスムーズに行えるためオーバーヒートの心配も無く、変速機も直結段に切り替わる事から機関も本来の性能を発揮可能となる。
  • 大きな代償を払って達成した500PSという大馬力は国鉄時代は元より、JR化後でも十分に通用する速度性能をキハ181系に付与した。一例として国鉄時代のつばさでは、上り上野行きの運用の際に板谷峠にてエンジンカットが発生したにもかかわらず、ダイヤ通りの運転が可能な性能を有していた(ただしこれは他の車両の機関にしわ寄せが発生した)。
    • 国鉄でも指折りの難所である板谷峠(※12)や、非電化トンネルの中でも旧い狭隘トンネルが連続し線形も悪い中央本線と言った極端な条件でこそ当初の目的を達成できなかったが、国鉄車両のほとんどが釣合速度の低下する25‰程度の勾配ではキハ80系などのDMH17系エンジン搭載車に比べて圧倒的な時短効果を発揮した
    • JR化後に目を向けると、JR四国では予讃線・土讃線の最高速度引き上げに伴い、しおかぜいしづち南風の所要時間の大幅な引き下げを達成。またJR西日本のはくといなばでは高規格な智頭急行線をHOT7000系と共に快走し、同系列最後の運用箇所となったはまかぜでも最高時速130km/hのJR世代の電車に伍して山陽本線を全速力で走破していた。詳説は「はまかぜ」の項に譲るが、この運用は正しくキハ181系がその能力の全てを発揮可能な運用だったと言える(※13)。

また、DML30HS系エンジンの変速機の問題を残した一方、横軸ツインレバー式マスコン(※14)や、それまでの国鉄標準型だったA動作弁に代わり、摺動部がなく整備性を高めたダイアフラム式のKU弁を備え、電磁給排弁を併用、かつブレーキハンドルをセルフラップ式として応答性を高めたCLE電磁自動空気ブレーキ(※15)の採用など、電車以外の国鉄旅客車・貨車のデファクトスタンダードを確立した新機構も多い。


纏めると、キハ181系の設計は、当初の目的だったしなのつばさ運用といった急峻な山岳線区のスピードアップよりも、やくもはまかぜ等の陰陽連絡線の特急運用、そして瀬戸大橋開通直後の本州⇔四国間の特急運用と言った、比較的平坦な電化⇔非電化区間を電車と変わらない速度で直通走破する事に最適な設計だったのである。


前述した通りしなのつばさ運用時の故障が目立ち失敗作の烙印を押されがちだが、その後は整備技術の向上や運用線区の見直しも有って顕著なトラブルも無く、むしろ四国・山陰地区のエースとして長く活躍していた事は覚えておいてほしい。

当初の要求を満たせなかったという一面だけで、失敗作だと断じる事は余りに早計だと言えるだろう


なお、2000年代(ゼロ年代)前半、Wikipediaに於いて本系列とその動力であるDML30HS系エンジンをコキ下ろしていた人たちは、その対比としてカミンズ製直接噴射式エンジンを絶賛していた。ところが、そのカミンズ製NTA-855-R1(JR形式名“DMF14”)エンジンを装備した名古屋鉄道キハ8500系が、『北アルプス』廃止時に会津鉄道に譲渡されたものの、勾配と急曲線の連続する同社線での運用では名鉄時代に比べて運転速度が低くなり、やはり変速段で連続高回転を強いられた。結果、エンジンを含めたパワートレインのメンテナンスサイクルを縮めてしまい(※16)、あろうことかキハ181系よりわずかながら先に引退(※17)したことを付け加えておく。


電気連結器について編集

当時の国鉄では珍しかった電気連結器を、密着自動連結器の下にぶら下げていたのが本系列の特徴である。

正面から見ればお分かりかと思うが、連結器の下に箱のような物体が吊り下げられている。

これが電気連結器であり、キハ181系は国鉄の量産型気動車としては電気連結器と自動解放装置を初採用したエポックメーカーだったのだ(※18)。


今でこそキハ110系(JR東日本)やキハ189系(JR西日本)などのように、電気連結器と自動解放装置は気動車界隈においても当たり前の装備になりつつあるが、忘れてはいけないのがキハ181系は密着自動連結器と電気連結器を併用しているということである。


電気連結器はその構造上、連結面が相手とぴったり密着していなければならないため、先述のJR世代の気動車をとってみても基本的には電車とほぼ同じ形状の「密着連結器」と併用されるケースが圧倒的に多い。

これは自動連結器の場合、連結した際にどうしても隙間(遊間、または「遊び」と呼ばれる)が出来てしまうため、連結面が密着されていないと電気接点が壊れてしまうのである。

また、いかに「密着」自動連結器といえど最大で1.6mm程度の隙間は出来る可能性があること(客車としては全く問題ない間隙だが)、隙間ほぼゼロの調整直後であっても連結に際しナックルが回転するため、そのとき多少左右に振れることが接点の頭を壊すのではないか、と懸念された。

特にこの時までに必要な芯数は膨大になっており、さらに気動車で一般的な反転可能な仕様にすると芯数が3桁を超えた(キハ91系などでは168芯あるが、反転前提のため、実際は84×2で線数としては84。これでも十分多い)。密連同様の構造のまま芯の間を広げて頑丈にする、というには接点芯数が多すぎた。

自動連結器と電気連結器を併用したのは国鉄と名古屋鉄道(こちらは電気連結器そのものを前後にスライドできる構造とした)くらいしか採用例がない。

そういった意味でも非常に珍しいものといえる。


が。

イギリスでは電車・気動車を問わずこのタイプの組み合わせは当たり前に使われている。

構成は下の動画を見ると分かりやすい。



(開始後11:28頃)名鉄では片方を可動式にして、連結器が掛かってから電気連結器の接続を行う形をとり左右のブレを防いでいるが、イギリスの場合は電気連結器の中心にも連結器本体とは左右線対称の向きに位置決めの突起があり、左右のズレを防ぐ形にしている。そのため、固定式電気連結器を密着自連に直付けなどということができたと推測される。

他国で普及しなかったのは、特許の制約の可能性がある。

それにしてもそれなりに特殊な構成が当たり前なあたり、英国面に不可能はないのか…?


脚注編集

※1…主な要因はエンジンについては潤滑不良、変速機については大出力エンジンとの同調が難しく、直結低速・直結高速段の切り替えがスムーズに出来なかった。

※2…キハ181系が投入される山岳線区(中央本線)における夏場の走行試験は1967年に始まったばかりだった。

※3…「ひだ」はキハ82系がそのまま続投し、「南紀」も同じくキハ82系が投入された。特に「南紀」は同系最後の運用となった。「ひだ」はともかく「南紀」はキハ181系にピッタリの条件だと思われるが、「南紀」が乗り入れる路線(紀勢本線伊勢鉄道関西本線)は当時の最高速度が100km/h以下の区間が殆どだった事から、キハ82系の投入はその兼ね合いの可能性がある。

※4…国鉄当時は瀬戸大橋は未開通。

※5…九州乗り入れは2005年の「いそかぜ」廃止まで。なお、北海道に乗り入れる事はついに無かった。

※6…この運用で当時JR四国で運行していた特急列車の全てに運用実績がついた。

※7…さらにこのエンジンは戦前設計のGMH17型(ガソリン駆動)をディーゼル化したもので、このエンジンが原因となった火災事故の際、当時のJR東日本会長の山下勇(三井造船のエンジン屋出身)はDMH17の図面を見て「戦前のエンジンじゃないか! まだこんなのを使っていたのか!」と驚愕したという。

※8…キハ66系キハ183系に採用されたDML30系エンジンは名称上同一系列でも設計は個別に改めており、寸法関係が変わった別物になっている

※9…定格出力は1,600rpm/500PSだが、変速段使用時には最大2,000rpm/590PSまで引き上げられる。当然定格出力を超えた長時間の機関の使用は好ましくない。

※10…自動車の感覚だと「85km/hまで2速=ローギアで引っ張る」状態。

※11…この後エンジン整備の手順の厳格化、同じDML30系列を搭載するキハ65系キハ66系の整備経験をフィードバックすることで故障は格段に減少した。

※12…33‰(部分的には38‰)の急勾配が最小半径300mの急カーブを織り交ぜながら22㎞続き、極めつけに山形新幹線開通前は4駅連続のスイッチバックを擁する難所

※13…平坦線(山陽本線)を電車に伍して疾走し、ある程度勾配線(播但線)での表定速度を維持するという、まさにキハ181系のために用意されていたかのような列車だった。……播但線をある程度、と言うのはそれこそキハ181系が登場した後の感覚であり、寺前駅以遠は最大傾斜こそ25‰程度だったが、終点の和田山駅まで勾配が連続し、蒸気機関車時代は難所とされ、キハ80系ではパワーウェイトレシオ維持のため2エンジン中間車を減らすことができず通年6連以上という所謂「ガラガラ長大編成」状態だった。

※14…それまで、運転台はマスコン・ブレーキとも縦軸が主流だったが、自動進段の電車ではきめ細かい操作より素早い操作を求められたため、マスコンハンドルを横軸にする車両が主に私鉄電車に出現し、国鉄も新幹線0系で採用した。が、国鉄はSELD電磁直通ブレーキに固執し、101系以降も保安ブレーキとして旧態依然としたブレーキ操作弁を採用し続けたため、ブレーキハンドルは縦軸のままだった。ほぼ同時期に東急8000系が電気指令式ブレーキを前提としたワンハンドルマスコンを採用し、在京私鉄ではデファクトスタンダードとなる一方、現代においてもなお“職人芸”を由とする在阪私鉄やJR西日本では、この横軸ツインレバー式が採用されることが多い。

※15…電磁自動空気ブレーキは従来の自動空気ブレーキと互換性を残しつつ、電磁給排弁を併用して応答性を高めたもので、モハ80系など、私鉄ではHSC、国鉄ではSELDと呼ばれた電磁直通ブレーキへの移行の過渡期に採用するケースが多かった。キハ80系のDAEブレーキもこの形式だが、肝心のブレーキ動作弁は戦前に開発されたA動作弁のままで、ブレーキ操作弁も従来のものだった。キハ181系では気動車として初めて営業速度120km/hを実施し、なおかつ運転区間に板谷峠のような極端な勾配区間が想定されたため、より高い応答性のブレーキが必要とされ、整備性と信頼性の向上のため開発された(が、A弁との互換性はある)ダイヤフラム式のKU弁を採用したエンジンブレーキ併用CLEブレーキが、セルフラップ式ブレーキ操作弁とともに本格的に採用された。キハ181系登場当時、東北本線上野大宮間は中距離電車と、常磐線周り以外の東北・上越・信越方面の列車が集中して路線容量は限界に近く、こうした路線ではブレーキの応答性が求められたが、キハ181系のブレーキ力が不足したという評価はない。晩年の「はまかぜ」でも新快速の電車ダイヤに揉まれながらの運用だったが、ここでも同じである

※16…なまじエンジンが高回転に堪えられるため、今度はトルクコンバーターのフルード過熱まで頻発することになった。

※17…『AIZUマウントエクスプレス』の最終運行は2010年5月、『はまかぜ』キハ181系最終運用は同年10月。

※18…なお、試作車も含めるとキハ90・91系が初


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架線下をゆく特急はまかぜ


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しなの つばさ(列車) やくも しおかぜ 南風(特急)

あさしお まつかぜ はまかぜ おき いそかぜ はくと


キハ65:本系列と同じDML30HSDエンジンを搭載した急行用気動車。

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