伊勢鉄道と名乗った会社は二つ存在するため、この項目では第三セクターの現存する会社をまず説明し、伊勢電気鉄道となり参宮急行電鉄に合併された会社をその後説明する。
第三セクター(伊勢鉄道)
この会社は昭和61年に三重県鈴鹿市に設立された、伊勢線を運営するために会社である。
この会社は第三セクターであり、現状は三重県が発行済株式の4割を保有している。三重県に次いでダイヘン(大阪市に本社がある重電を得意とする電気機器メーカー、主力は変圧器)が出資している(理由は後述)。
管轄路線
伊勢線 河原田-津間22.3km
津~河原田駅を経て関西本線四日市駅まで乗り入れる自社運行の普通列車(1両 ワンマンカー)と、名古屋から伊勢線に乗り入れて南勢地方まで運転されるJR東海の快速「みえ」、特急「ワイドビュー南紀」が運転されている。
途中の鈴鹿サーキット稲生駅を最寄りとする鈴鹿サーキットで毎年開催されるF1日本グランプリ開催の際には特別ダイヤを組み、名古屋駅から直通臨時列車設定やJRから車両を借りて増発をするなど観客輸送に取り組んでいる。ところが稲生駅には折り返し用の渡り線などはなく、10分程度の遅れが出るのが毎年のお約束となっている。
経営状態は、前出の列車によってそこそこの本数が運転されているためこの手の第三セクター事業者としては悪い部類でもなく、2005年度に単年度赤字を計上した以外は基本的に黒字、あるいは小幅な赤字となっている。
伊勢線は建設の経緯(後述)より当初から全線にわたって複線化用地が確保されており、移管後に北部は複線化も行われている。踏切は津駅近辺を除けば僅かに1箇所。全線が高規格の幹線として建設されているため優等列車は性能を目一杯発揮できるものの、この手の経営規模の小さい会社にはやや負担が重そうである。
路線の歴史
この会社の所有する伊勢鉄道伊勢線は関西本線河原田駅と紀勢本線津駅を結ぶ路線。かつては国鉄伊勢線であった。
国鉄伊勢線
この路線が設立された経緯は二つあり、名古屋方面から伊勢、あるいは紀伊方面に向かう際の短絡線、また南伊勢線(工業輸送を目的とし、当初臨海線と呼ばれた、伊勢線から接続し海沿いを走り伊勢に向かう予定だった未成線)の連絡という二つの役割が存在した。そのため、非電化ではあるものの複線化の用地は確保され、高速走行が可能な高規格の路線として設計されている。
ところが南伊勢線は公害などの影響により未成線となり、これにより複線を引く必要がなくなり経営に悪影響を及ぼしたといわれる。さらに短絡線としてもこの路線が完成した昭和48年の時点で国鉄はこの地域における積極的な経営を行わず、この地域で有力な私鉄であった近鉄に客を奪われている状況であった。
開業当初の優等列車は1日で特急と急行を合わせても5往復に満たず、ライバルの近鉄は同じ区間を特急と特別料金不要の急行を合わせても一日で70往復以上走らせていたために、これを蹴散らすには相当な追加投資が必要だった。しかしながら、国鉄時代に抜本的な改革が行われることはおろか、僅かにも改善しようという動きすら希薄だった。
具体的には、東京から紀伊勝浦までを結んでいた寝台特急「紀伊」は、伊勢線開通後も亀山を経由していたし、高規格で最大110km/hまで出せた筈の線路は、メンテナンスサイクルを伸ばすため実際の営業最高速度は85km/hに制限されていた。このためお世辞にも俊足とは言えないキハ82系「南紀」すら性能を持て余す有様だった。
営業実績は、伊勢線という路線だけでは単独路線という視点で見れば赤字を垂れ流す、国鉄にとってはお荷物的な存在であった。1980年代には列車数を極限まで減らしてもなお悲劇的な成績を叩き出していたものの、国鉄には増便等を行い利便性を向上させて、これを改善する余力は既に残っていなかったのである。
第三セクターへ
ローカル線の中でも特に経営状態が悪い特定地方交通線に指定され、バス転換の話も飛び出した。しかし、様々な事情により第三セクターとして存続することが決まり、伊勢鉄道が設立された。この際、不定期にダイヘン多気工場から運搬される大型の変圧器の輸送に利用するため、ダイヘンが株主となった。
その後JR東海によりこの地域の積極策が行われたこと、経営努力(客の多い北部を複線化したりした)等により何とか赤字にならなくて済む程度になった。
近鉄との競争の課題。
伊勢線は関西本線の河原田~名古屋と一体的に考えると名古屋駅~津駅まで近鉄名古屋線と競合しており、特に伊勢線内は(良い意味で)駅が少なく踏切がほぼ無い高規格路線であるにもかかわらず実際には「普通列車の本数が少なく運行距離が短い」「優等列車が津・鈴鹿しか止まらない」「駅が全て市街地や住宅街の中心部から離れた不便な場所にある」などの理由で営業分野で水を挙げられている。
一方で三重県は自動車保有率が高く、通学はともかく通勤需要となれば長距離でない限り通勤客の需要は見込めないものの、路線そのものが幹線の短絡線、つまり長距離客向けの路線として作られていたのならば、仮に早期から関西本線と一体的に電化・複線化整備を行っていれば四日市・桑名・名古屋方面へ向かう通勤・通学客の利便性が上がり、近鉄とよい好敵手となり得たかもしれないとする意見もある。
また、鉄道アナリストで有名な川島令三氏は「伊勢線の営業成績が悪かったのは、伊勢鉄道に継承された時点で普通の運転本数は1日7往復のまま、優等列車も『南紀』1日4往復のままという国鉄の消極的経営の結果であり、名古屋と南紀・伊勢志摩方面の短絡線として積極経営すれば国鉄の重要路線となったはずである。」と非難し、「機械的に特定地方交通線に指定するのは疑問だという声が大きかった。」と述べている。
それ故に、愛知環状鉄道と同様に機械的に特定地方交通線と指定した事への弊害が現在に至る要因となっている。
とは言え、ここと愛知環状鉄道は経営的にも比較的、良好で競合路線等の問題からJR東海の再合併などの話が何度も出てきている。
事実、ここがJRになれば電化さえすれば名古屋駅~津駅・松阪駅まで速達性が確保され、近鉄との競合区間の拡大で利用者が増えていた事が非常に大きい。運賃面で見ても会社跨ぎによる運賃計算の煩雑さや急激な運賃急上昇が解消、本路線への交通系ICカード(TOICA等々)導入も容易、ジャパンレールパス及び青春18きっぷ利用客に対する追加運賃の徴収も不要となる(車掌にとっても車内精算の手間が大幅軽減される)等のメリットが多い。
更に2023年3月に近鉄が運賃値上げを行ってきた事もあり、物価高対策もあり、関西本線複線化と併せてJR編入と複線電化が議会で議論される様になり、政治的な議論の対象になっている。
尚、四日市駅~津駅の間は待避線がないので全線複線化後は何処の駅で待避線が必要になる。
前述の通り、第三セクターである本路線のせいで紀勢本線と参宮線で交通系ICが使えない状態が続いているが、これは運賃計算の際に亀山か伊勢鉄道かの経路判定が出来ない為である。
しかし、別の路線において同様の状況下に置かれている駅に交通系IC対応させる事でややこしい事態が発生してしまう(2025年以降の予定)。
駅一覧
停車駅
●:停車 |:通過 ※:鈴鹿サーキットレース開催に限り一部列車が停車。
駅番号 | 駅名 | 快速みえ | 特急南紀 | 乗り換え路線 | 線路 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
↑快速『みえ』と特急『南紀』は関西本線名古屋駅まで直通。 | ∨ | |||||
(1) | 四日市 | ● | ● | 関西本線(名古屋方面) | ∧ | |
(2) | 南四日市 | | | | | ∥ | ||
3 | 河原田 | | | | | 関西本線(亀山方面) | ∥ | |
4 | 鈴鹿 | ● | ● | ∥ | ||
5 | 玉垣 | | | | | ∥ | ||
6 | 鈴鹿サーキット稲生(稲生) | ※ | ※ | ∥ | ||
7 | 徳田 | | | | | ∥ | ||
8 | 中瀬古 | ▲ | | | ∨ | ||
9 | 伊勢上野 | | | | | | | ||
10 | 河芸 | | | | | ◇ | ||
11 | 東一身田 | | | | | | | ||
12 | 津 | ● | ● | ◇ | ||
関連項目
伊勢電気鉄道
この鉄道会社は明治44年に四日市に設立された鉄道会社である。当初津から四日市までの路線を引くことを目的として設立された。
当初陸軍の駐屯地の存在した久居から津への路線を引くことを提案されたものの、それを無視(この路線は明治41年に伊勢軽便鉄道により敷設、大日本軌道となり大正9年中勢鉄道に譲渡、昭和3年に参宮急行電鉄の傘下に入り免許申請を使われた挙句路線は昭和18年に廃止、翌年に会社解散)し、鉄道を敷設し始めるものの資金調達及び用地買収に手間取り、大正4年に一部開通したのち大正11年に四日市まで開通させ、大正14年には支線で鈴鹿まで到達させた。
それと前後して熊沢一衛(実業家、多い時には社長、取締役、監査役を兼務する会社が合計37社あり、東海の飛将軍と呼ばれた)に社長が変わり、会社名も伊勢電気鉄道とし、路線の電化を行う。
ここからかなり強引な路線の敷設に変更される。まず大正15年に鉄道敷設権を揖斐川電気鉄道部(養老線を経営していた会社、当時は電力会社と合併)より買収、四日市からは四日市鉄道(この会社の持っていた路線はのちの近鉄湯の山線となる)および三重鉄道(この会社の路線が四日市あすなろう鉄道の路線となる)を買収し、昭和4年には二社の路盤を使い急カーブする形(これを称して善光寺カーブと呼んだ)で北に路線を伸ばす。
さらに昭和2年から3年に名古屋から伊勢までの免許を入手する(この件に関しては他鉄道会社との協力が行われるべきであったが、社長が関西資本との提携を嫌い自社での敷設となった節がある)。
昭和4年養老電気鉄道(養老線)を合併し、大垣までの直通が可能となり、さらに昭和5年、伊勢まで(正確には津新地-新松坂-大神宮前)の路線が開通。
ところが、昭和4年に世界恐慌の影響もあり建設費が回収できず、さらに五私鉄疑獄事件(北海道鉄道、伊勢電気鉄道、東大阪電気鉄道、奈良電気鉄道、博多湾鉄道汽船が当時の鉄道大臣に対しわいろを贈り許可等の便宜を受けた疑惑)により、社長である熊沢一衛が逮捕され、経営状況が悪化し、労使紛争なども発生、会社は破たん状態となった。
この会社の買収を巡っては名岐鉄道、愛知電気鉄道(どちらも後の名古屋鉄道)などが争奪戦を行ったが、参宮急行電鉄が合併され、会社はこの時点で消滅。
合併後、この会社の持つ本線は江戸橋以北(江戸橋から伊勢中川駅までは先に買収した中勢鉄道を利用して免許を取得し参宮急行鉄道が敷設、桑名から名古屋までは参宮急行鉄道の子会社、関西急行電鉄が敷設)は昭和13年近鉄名古屋線となり昭和34年に改軌、支線も昭和34年に改軌、昭和38年に平田町まで延長され近鉄鈴鹿線となった。またそれ以南は近鉄伊勢線となったものの昭和17年、新松坂以遠は路線を廃止、昭和36年に全線廃止された(この影響により貨物運営ができなくなり、国鉄伊勢線および南伊勢線が計画されたとされる)。
また桑名-揖斐間は養老電鉄株式会社として独立後昭和15年参宮急行電鉄に合併された(後に親会社の合併により近畿日本鉄道の路線となるものの、貨物輸送の都合もあり改軌されなかった結果近鉄名古屋線との直通運転もできず、赤字のため平成19年経営分離され養老鉄道となる)。
関連項目
京阪電気鉄道(おけいはん):五私鉄疑獄事件の背後で暗躍していた(関与した5つの会社のうち2会社の親会社)が、事件後に衰退。また、伊勢電とは保有車両に東洋電機(TDK)の足回りを用いている点で共通している。