概要
1975年、山陽新幹線の博多延伸に伴う、北部九州地域の輸送改善のために生まれた車両。主に筑豊本線・篠栗線に投入された。製造は新潟鐵工所と富士重工業。1976年度鉄道友の会ローレル賞受賞車両。
一般形気動車としては珍しく、転換クロスシート(ドア付近のみロングシート)・冷房標準装備で、快速のほかにも急行としても運用されていた。この車内設備は後に117系電車にも影響され、また前面デザインは後に登場するキハ40系に受け継がれた。
国鉄の一般形気動車としてはこの仕様は唯一であり、当時の趣味誌では「汎用気動車」と紹介されたこともあった。
製造時は気動車一般色の朱色4号とクリーム4号を急行形気動車と同様の塗分けとする変則的な塗装だったが、1978年に急行形気動車と同じ赤11号とクリーム4号の塗装に変更された。
エンジンはキハ181系やキハ65形と同じ180°V型12気筒のDML30系が搭載されたが、最高出力が440馬力と若干デチューンされている。これはキハ181系でエンジンの全出力運転を長時間行った結果オーバーヒートが多発したためである。
冷却系(ラジエーター)についても改良され、屋根上に静油圧式ファンと強制通風式冷却機構を装備したことで速度に左右されない冷却性能を確保した。
それでも運用後期には冷却水の流量不足によるオーバーヒートが多発したため冷却機能強化のために屋根上に電動ラジエーターポンプを増設している。
1993年に老朽化したエンジンを直噴横型(水平シリンダー)直列6気筒のDMF13HZA(420馬力)に換装し、それによって屋根上のラジエーター及び静油圧駆動ファンも撤去されすっきりとした印象となった。ただし、これらを載せるために切り欠いていた部分を埋めるなどはされていないため、切り欠きだけが残っている。額面上の馬力は低下したように見えるが、余計な付帯機器の撤去と駆動系の改良で走行性能はむしろ向上している。
同時に冷房用エンジンも交換、元が3000rpmとディーゼルエンジンとしては異様なまでの高回転仕様であったため車中で会話もままならないほどの爆音を出していた電源エンジンは、汎用の1500rpmのものへ変更された。
運行
長年にわたり筑豊地区を中心に活躍したが、筑豊本線の電化に伴い長崎へ転属。佐世保線・大村線・長崎本線を走る快速「シーサイドライナー」として活躍。
製造から40年が経過したことから、車両余剰とYC1系気動車の投入によって2016年より順次廃車が行われ、2021年6月30日に引退した。
ただし2024年4月時点でも両トップナンバーが車籍を残している。
余談
福山雅治は自身の楽曲『道標』の曲中に登場する気動車は本形式であり、歌詞の「この弓形に続く線路」は祖母の家を訪ねる際に利用した路線であると語っている。
厳密には福山の幼少期に走っていたのは本形式ではなくキハ58系である可能性が高いが、本形式の引退に際し「福山雅治と荘口彰久の『地底人ラジオ』」で「展示ができるなら車両・土地自腹で購入したい」と話題に挙げたこともあった。