※国鉄キハ181系特急形気動車についてはキハ181系を参照
国鉄181系特急形電車
当初
国鉄初の特急形電車である「こだま形」151系電車と、同車をベースにした上越線特急「とき」用の161系電車を基礎として、主電動機出力増強など仕様を統一したもので、のちに151系・161系電車のうち事故などで早期に廃車された車両を除き、耐寒耐雪装備の強化、床下機器の大半を新造機器への置換え、主電動機の強化型への交換などの改造により151系は0番代、161系は40番代へと改番され181系に編入された。新造車は100番代となる。(横軽用クハ180を除く)
編入車は極力原型時に多すぎた形式を整理する方向で行われており、「パーラーカー」で親しまれたクロ151などは側面構体を切り刻む形で最終的に一般型クハ同等のクハ181-50番代に全車改造されてしまったうえに改造の無理がたたり数年で廃車になった。なんたる資材と労力の無駄遣い!
当初は関東近辺での運用車と山陽方面での運用車は容姿が異なり、山陽方面は151系時代の姿を比較的とどめた姿であったが、関東地区の車輌は狭小トンネルの多い中央線への転用に伴い、運転台上部のヘッドライトが撤去され原型を大きく損ねた姿となったほか、485系などの交直流特急車との識別のためボンネット上部に赤帯が追加される(これは原型の161系より由来)など登場当時の優雅な姿は徐々に失われていった。また一方山陽車も新幹線開業により徐々にその用途を追われ、関東地区の輸送力増強のために転属。無残にも運転台上部ヘッドライトの撤去が施工され、スノープラウ装備のためスカートが短く切り刻まれるなど関東地区車と同様の道をたどっていった。
なお、上部ヘッドライトについては「げんこつ」型となった183系・381系でも新製車は装備していない。一方、481/483/485系の新製車はすべて装備し撤去改造も行われていない。これは交直流用の485系はパンタグラフ折り畳み限界の関係で中央線狭隘トンネル区間に乗り入れられないためである。この関係から、181系から改造されたクハ481-500(後述)は485系だが未装備となり、逆に485系から改造された183系700・800番台は所有がJR西日本で中央線に乗り入れる機会はまずないことから撤去されていない。
転機となったのは1973年冬季の「ヨンパチ豪雪」であり、元来が暖地向けの設計であった当系列は、雪中での過酷な使用により故障・破損が多発。時既に国鉄の整備体制は組織・人的要因上の欠陥から技術、現場の士気ともども最悪の状態となっており、車輌寿命を大幅に縮める結果となった。代替として、485系200番台並みの外観・機構かつ交流機器を省略した、181系としての新造車(後の183系700・800番台とほぼ同等だったと推定される)を投入する計画もあったが在来車を廃車した場合ごく少数派となってしまうなど、根本的な解決にはならず転用計画にも必ず改造での手戻りが出るなど難があるため、この雪害の教訓により183系1000番代は誕生したともいえる。
- ただし、当時の新潟鉄局、現在のJR東日本新潟支社の名誉のために言っておくと、同区は労使協調派の鉄労の組織率が高く(というより発祥の地)、特に当時、運転、整備とも士気は高いことで有名だった。
この10年前に発生した「サンパチ豪雪」では1週間にわたって不眠不休で雪と闘い、その際に新潟~新津間では電車(70系)共々長岡に帰れなくなった乗務員が、連日早朝から深夜まで同区間の乗務を続けた逸話が残されている。(後に国鉄総裁から表彰されている)
さらに1978年の信越本線の土砂災害時には、115系が不通区間のとりことなるや、すでに廃車待ちの保留車になっていた70系をかき集めて4M2Tの強力編成を組成し、車両不足の急場をしのいでいる。
要するに東海道を飛ばしてきた181系は、新潟鉄局をもってしても夜間の突貫整備ではどうにもならないほどガタガタだったのも事実なのだ。
晩年
状態の悪化した151系改造の0番代は1978年までに全廃(例外あり)、しかし形式整理によりサロが不足したため、181系のサロを追加することになった。
- サロ181形1050番台:485系であったサロ481形の初期車を改造し181系に編入。3両改造。
- サロ181形1100番台:1978年に新造された。181系引退後に485系のサロ481形へ編入する予定だったため、485系の車体である。6両新造。
この車両は車体台枠高さが485系そのままで高いため、編成美を乱すでこぼこ編成が常態化するなど末期まで車種の混乱が見られた。
1982年の上越新幹線開業に伴う在来線エル特急「とき」の廃止に伴い現役を退いた。サロのうち、「サロ181形1100番台」は初期の予定通り485系へ編入改造、残りのサロは比較的状態のよいものが東京口113系への近郊型サロ110化改造を受けるなど少数ながら異彩を放ったが、これらも既に全て廃車となっている。
その後、1984年のダイヤ改正で、特急列車の短編成化が進み先頭車両が不足したため、改造経歴の少ない新造型の先頭車両(クハ181-109・クハ180-5)2両が新潟で改造されて485系クハ481-500番代となり九州に転属。前述したように座高の違いからかつては485系モドキの中間車を入れて編成美を損ねたのが、今度は自分が485系モドキとなって編成美を崩すことになり、その上502番は横軽運用の名残である前面のEF63連結用自連がカバーもなくむき出しのままであった。実は種車の新造車の100番台(クハ180は例外的に0番台が付けらえているが、無論新造車。ちなみに50番台はこともあろうにクロ151のなれの果てで、改造および48年豪雪の後遺症から1970年代中盤までに全廃されている。)は当初から交直流改造準備工事が隠し設計的に施されており、サシ181-100番台などは台車と車体の間にスペーサーをかますことで489系と高さをそろえたうえでサシ489に改造編入した実例もあるのだが、これらは改造コスト削減のほか、運転台上部の車両限界寸法は実は未改造状態で485系と変わらず(そのためオリジナルのクハ481はボンネットの上下寸法が寸詰まりとなり、かつ運転台後部と客室との間に寸法調整の「力こぶ」と揶揄されるカーブがある。)、運転台付近の鋼体の高さ全体を詰める大改造をしなければ床高さを上げられなかったという理由もある。(1960年代であれば手間をかけても実行したであろうが、そもそもが余剰活用であり、残り寿命がすでに見えているうえに予算不足ではしたくとも無理だろう)
当初九州入りに際しては「運行区間は交流区間だけだから」という理由で、485系には必ずついてた交直流の切り替えスイッチを搭載せずに事実上交流専用車として改造、後ににちりんが下関乗り入れ(関門トンネル部分は直流)、実際の列車が門司駅で切り替えようとした際にスイッチがなく走れないことが発覚し、運転中止(後に搭載)。トラブルに関しては最後の最後までつきまとう結果となったが、それでも改造後も10年近く走り、1993年までに廃車された。
21世紀突入後
当初より485系となる予定だった、「サロ181形1100番台」として製造された車両が「181系の形式消滅」後も残存。
2022年、JR東日本高崎支社のジョイフルトレイン「リゾートやまどり」の先頭車2両が退役した事で、181系として製造された車両は全滅。「181系の歴史」は完全に終焉を迎えた。なお「リゾートやまどり」の車体などは新造で、当然ながら181系時代の面影はない。
保存車
現在、川崎重工兵庫工場に元151系のクハ181-1、さいたま市大宮区の鉄道博物館に元161系のクハ181-45が保存されており、双方ともに一度撤去され外観を損ねた運転台上部ヘッドライトが復元され、再設置されているのは心憎い措置である。