クロ151は、1960年(昭和35年)に登場した国鉄151系特急電車の形式の一つ。
クハ151と同じく先頭がボンネット形の特別2等制御車であり、「パーラーカー」の愛称がある。
当時の国鉄の看板特急『つばめ』『はと』の電車化のために開発された車両で、当時の電車としては最も先進的かつ豪華な設備の車両であった。
開発の経緯
151系『こだま』の登場で特急列車のサービスの底上げが図られたが、これまで運転されていた客車特急列車とのサービス格差という重大な問題が噴出した。
従来、東海道本線で運転されていた特急列車『つばめ』『はと』は、戦前の階級制度の名残が残っていた元華族、海外からの観光客(当時はアメリカなどの先進国でも、海外旅行が出来る者はごく限られていた)、国内外の政府高官、芸能人、財界人などのいわゆる要人や名士といった乗客に、最上級のサービスを提供する1等展望車が連結された、日本で最も格調高い特急列車であった。
1950年代後半、国内の空路は満足に整備されておらず運賃も極めて高額であり、陸路は幹線国道ですら未舗装路だらけで、当然都市間高速道路は存在していなかった。普通乗用車の普及率を考えれば無理からぬことである。
つまり長距離の国内旅行は、一般的に鉄道を利用する以外に現実的な選択肢は存在しなかったため、これらの「1等車」はいわば彼らに向けた「陸の豪華客船」とも言える存在であった。
ところが、国鉄特急の頂点である筈の『つばめ』『はと』も1等車と食堂車を除けば冷房も無く、肝心の1等車も車齢が20~30年に達して老朽化が進んでおり、サービスや所要時間で『こだま』に対して決定的な逆転的格差が発生してしまったのである。必然的に両列車についても151系による置き換えが計画された。
しかしながら、151系がデビューした当時は前述のように華族階級の廃止や皇室縮小(何れも1947年)からまだ10余年と戦前の身分制度の名残が残っていた時代で、いわゆる特権階級(或いは元特権階級)にあたる人々が利用していた列車を1等車の無いビジネス客志向、つまり労働者向けの151系で置き換えるのは得策とは言えなかった。
一方で、当時は国内旅行といえば上記の通り鉄道以外に実用的な選択肢が存在せず、逆転したサービス格差の是正は避けられない問題で、国鉄の看板列車『つばめ』『はと』の電車化にあたっては従来の1等展望車と同等のサービスを維持できることが強く求められた。
これを踏まえて、従来の1等展望車と同じクラスのサービスを提供することを目的に開発されたのがクロ151である。
1960年(昭和35年)から62年にかけて12両が製造され、他の151系と共に田町電車区に所属して運用された。
構造
クロ151は、大阪側(西側)に連結されていた先頭車で、ボンネットにコンプレッサーなどを収めた構造や走行機器などは「クハ151」と概ね同じである。
ただし、クハと比較すると車体長(車体前端~前位台車間のオーバーハング)が500mm短く、前側の台車がボンネット側に突き出す格好になっているため、真横から見ると印象が異なる。(台車間の長さはクハ・中間車と同じである)
設備
客室は、いちばん上質な設備の個室「区分室」と、従来の2等車より上質な設備の座席室「開放室」を備えている。
いずれも、従来運転されていた1等展望車に代わって最上級のサービスを提供するための設備である。
車両の中央より運転席側に区分室、デッキ(乗降扉)を挟んだ反対側に開放室があった。
このため、区分室の乗客は開放室の乗客らと顔を合わせることなく乗降できた。
窓
側面の客室窓は1m×2mと非常に大きく、展望車の開放デッキと同様に見送り客に対して立って答礼ができる大きさになっていた。この大きな窓は、先頭から最後尾まで無個性に見える電車特急の中でも一見してそれと分かるもので、クロ151のトレードマークでもあった。
151系の窓の周りに塗られた赤帯はクロ151の大窓より縦寸法が小さいものだったが、クロ151はこの大窓を収めるために窓周りの赤帯を在来車より太くしている。
一方で、車体後部の大窓から後ろの赤帯は通常の寸法とし、大窓の分の寸法差は上方にあたかも飾り帯を追加したように見せてかけた線を追加して途中で斜めに切る工夫で全体の統一感を演出している。
区分室
2人掛けの大きな座席が2脚向かい合わせというレイアウトで、定員は4名。
座席はソファのような大柄でゆったりしたもので、間にコーヒーテーブルが設置されていたため、サロンのような構造であった。
全部で12両製造されたクロ151のうち末番の「クロ151-12」は、区分室の窓ガラスが防弾ガラスであった。
普段は、他の僚車と混用されていたが、要人の利用があると本来の仕業から引き抜かれて運転された。
開放室
車両中央の通路を挟んで両側に1人掛けの座席が並ぶレイアウトで左右7脚、定員14人である。
つまり、給仕などを除いた乗客は区分室と開放室合わせて1両あたり最大で18人しかいない事になるので、いかに贅沢な車両であったかおわかり頂ける筈。
開放室の座席も区分室ほどではないものの大柄のリクライニングシートで、背もたれの角度調整機能以外に回転機能があったため、窓側に傾けて過ごすことも出来た。
区分室・開放室問わずすべての座席にイヤホンジャックがあり、NHKラジオ第一/第二放送を聴くことができた。
また、座席に座ったまま電話をかけることも可能だった。これは、給仕に座席へ電話機をもってきて貰い、各座席に備わっている無線電話回線と繋がるジャックにコードを差し込んで使うというものであった。
列車用の「公衆電話」は近鉄が1957年に実用化させているものの、客室の座席に座ったまま電話を掛けられるということは当時としては夢のようなサービスだった。
通常、列車公衆電話はデッキに設置されていたし、そのずっと後になって携帯電話が普及すると「電話はデッキで掛けるもの」というマナーが定着したため、大っぴらに座席で電話を掛けられる稀有な車両だったのかもしれない。
等級制度と特別料金
一方で、この車両の利用には特別料金が必要であった。
登場後すぐにに3等級制から2等級制になったために説明がややこしいが、クロ151は形式の上では「ロ」を冠する3等級制における2等車(2等級制移行後の1等車で現在のグリーン車に相当)。
しかしながら、サービスは3等級制での1等展望車(記号「イ」2等級制移行後に廃止)に相当する車両であったためである。
現在の感覚では「特急のグリーン車以上のサービスを提供する車両にグリーン車料金+特別料金を払って利用する」といった具合で、定期列車ではJR東日本などの新幹線にある「グランクラス」やJR九州の787系に備えられている「DXグリーン車」に近いともいえる… かもしれない。
もっとも、グランクラスは身分制度が無い時代の経済力以外に利用条件がない豪華車両、クロ151は「身分制度の下で階層が明確に異なる乗客同士を同席させない車両」の立ち位置を受け継いだ車両、といった具合に登場時の歴史的背景が異なる点は留意すべきである。
事故喪失
- クロ151-7
1964年(昭和39年)4月24日に東海道線 静岡~草薙間の踏切事故で脱線・転覆して大破。
修理完了が新幹線の開業に間に合わない(修理そのものが無駄になる)と見積もられたことに加えて、当時 旅客・貨物輸送の大動脈であった東海道線の速やかな復旧が優先されたため、クロ151-7は廃車が決定。現場で解体撤去された。
急遽代替車として、事故編成に組み込まれて損傷していた1等中間車サロ150-3を、復旧を兼ねてクロ150-3なる先頭車に改造、事故後約2か月後の7月1日から使用を開始した。客室は種車の仕様のままの、つまり特別設備のない車両であったが、パーラーカーの代用として東海道新幹線開業までの3か月間を乗り切った。
東海道新幹線開業後
鳴り物入りで登場し、多くの著名人から愛されたクロ151であったが、悲運にも黄金期は短かかった。
1964年10月に東海道新幹線が開業すると、東京〜大阪間を結ぶ在来線昼行特急は全廃され、クロ151を含む151系の大半は向日町運転所(京都府)に転属の上山陽本線で運行されることとなった。(転属後程なくして181系に改造された)
開放室の格下げ
ところが、クロ151は山陽本線では乗客の需要に対して設備が豪華すぎ、料金が非常に高価(後に大幅に値引きされた)であったために利用率が極めて悪く(※)、181系改造後の1966年(昭和41年)から翌年にかけて「開放室」の車内を普通車同等の設備に格下げしたクロハ181に改造された。
ただし、この時点では全ての車両に格下げ改造が施された訳ではなく、2両(11,12)のみ181系に改造後も「貴賓車予備」として往年の設備が残された。
その間の1965年(昭和40年)にはクロ151として田町に残留した1両(8)が、車体を大改造の上で全室普通座席車のクハ181に改造されている。また、1968年度には「貴賓車予備」の2両も同様に全室普通座席車のクハ181・クハ180(後述)に改造されてしまい、この時点で新車時の装いが完全に残る「パーラーカー」は姿を消すことになった。
(※)クロハ181に改造された後の話になるが、実際クロハ181の区分室を利用した鉄道ファンが乗務していた車掌に区分室の利用客層を尋ねたところ、「お客様と同類の方がたまにご利用になるくらいですね」と言われたほどだった。
山陽本線からの撤退
山陽本線に転用直後の1965年には、同線に後輩たる481系が導入されたため、徐々に中央東線・上越線・信越本線に転用され、1973年(昭和48年)には181系自体が山陽本線から完全に撤退することとなった。
当然路線の需要に見合ったサービス水準に下げることは避けられず、クロハ181として残存した車も1972年(昭和47年)から翌年にかけて、全車がクハ181及びクハ180に改造されて、パーラーカー名残の大窓も消え去り、往年の栄華は見る影も無くなってしまった。
全室普通車化工事
山陽本線からの撤退に伴い、1965年~1973年にかけて特別設備を全て廃止して全室普通車「クハ181」「クハ180」に大改造する工事が行われた。
この格下げ工事は、先に触れた登場時の装備が全て残された車両(8,11,12)と区分室のみ残った車両(1~6,9,10)、クロ150-3を含めた全車に対して行われ、この時点で特別設備を残した車両は完全に失われた。
既に述べた通りパーラーカーはオリジナルのクハ181・クハ180と比較して車体長が500mm短いため、窓・窓柱及びシートピッチ、便所などの寸法を少しずつ詰めて他の普通先頭車とほぼ同様の設備を実現させている(蛇足だが、サロ150から改造されたクロ150-3もクロ151と同じ車体長である)。
改造後はクハ181・クハ180共に50番台が付番された。車番は全室普通車化工事が施工された順に振り直されている。
- クハ180
クハ180は信越本線の横川~軽井沢間の補機連結運転の為のジャンパ連結器などの装備を施した車両で、(元)クロ151からは5両誂えられた。
構造上連結面のジャンパ連結器がクハ181とは逆の片渡りになっているため、上り(上野)向き専用で方向転換して使用することは出来ない。
この車両は機関車との解結作業が頻繁に行われるため連結器カバーは装備されなかった。
終焉
その後間もなく長年酷使され続けた181系の老朽化が問題になり、新製車の183系(1000番台)、189系への置き換えが開始され、1975年(昭和50年)春から181系の老朽廃車が開始された。
特に老朽化が著しい旧151系改造車は1978年度までに全廃(事故車の代替に中間車1両だけがその後も残存)され、1973年格下げ改造車の一部は大改造後僅か1年半で廃車になったものすら存在する短命ぶりであった。
結局、クロ151として登場した車両は全車が車齢20年を迎える前に廃車され、新車時の瀟洒な装備は生涯のうち1/3程しか使われなかった幸薄い車両であった。
最終的に原型車はおろか格下げ改造車すら全て解体され、登場時を偲ぶ調度品は京都鉄道博物館に残された開放室の座席一脚を除いて殆ど現存しないという。