登場の背景
1960年代後半から70年代にかけて、大手私鉄ではチョッパ制御、回生ブレーキ、空気バネ台車、オールステンレス/アルミ車体が普及していた。しかし国鉄は労組の反対等もあって、通勤型電車は旧来からの抵抗制御、コイルバネ台車、鋼製車体を持つ103系を製造し続けていた。
しかし、石油危機(オイルショック)を発端とする省エネルギー化風潮や103系の陳腐化もあり、国鉄は電機子チョッパ制御の次世代通勤形電車を開発することとした。それが201系である。1979年に5両編成2本計10両の試作車が登場し、国鉄は初の量産回生ブレーキ電車ということで、「省エネ」のヘッドマークを掲げてPRした。
なお、国鉄通勤型車両としては初の全車冷房車として登場した型式であり、当時まだ多数残っていた非冷房車を置換えたことによる夏場サービス向上の側面もあった。当時、103系でも優先的な新車投入で比較的優遇されていたとされる山手線でも冷房化率は3/4で、全車冷房化は国鉄分割民営化後のことであり、101系の当時の中央線など推して知るべしである。なお、中央快速線の全列車が201系に置換えられたのは1985年であり、これは山手線の冷房化より早かった。
概要
1963年登場の103系以来16年ぶりとなる国鉄の主力通勤形電車として、国鉄の直流用電車としては初の電機子チョッパ制御とそれによる電力回生ブレーキ・空気バネ台車を採用。それまでの通勤電車イメージを覆すブラックフェイスデザインなど、意欲的な設計を盛り込んだ電車である。
1979年に試作車900番台、1981年より量産車0番台が登場。翌82年には本系列をアルミ車体としてデザインし直した203系が常磐緩行線向けに製造された。
本形式の量産車以降、鋼製車体の場合でも腐食対策に力が入れられ、若干外観にも影響している。連続溶接と塗装で目立ちにくいが、車体裾部は63系と同様に台枠の鋼材が露出している。従来のスポット溶接では、隙間から毛細管現象で水が侵入してしまい、それが元で腐食していたことから、それを元から断つべくこの構造となった。
内装は1950年代前半から踏襲されてきた寒色系色彩スキームやデザインからある程度脱却し、暖色系カラースキームおよび冷房搭載前提の内装デザインとなった。ただし天井高さが低いことから圧迫感の強い印象を与えてしまい、量産車である程度改良されたものの廃車期まで若干批判する向きもあった。
ちなみに103系などの特別保全工事車や更新車の内装カラースキームは、この201系を参考としたものである。
登場時期が国鉄の経営が傾いていた時期に重なったこと、製造価格が高コストな割に消費電力が103系とさほど差がなかったため、導入線区は限定的であったが、それでもそのブラックフェイスのデザインは非常に秀逸で、私鉄各社の通勤型電車に模倣された(このデザインの起源は、東急車輛製造であった)。
2000年代前半頃、一時期中央線が人身事故のメッカ扱いされていた時期があり、その際に「オレンジ色に心理的に憂鬱にさせる効果があるから悪い」という珍説が一部鉄道ファンの間で広まって、理不尽なバッシングを受けたことがある。
構造
電機子チョッパ制御を国鉄直流電車として最初に採用。私鉄ではすでに10年ほど実績のあった界磁チョッパ制御は複巻電動機を使う必要があり、一部で激しい電圧降下を経験していた国鉄では忌避され、直巻電動機で全速度域をチョッパ制御するものを「本命」としていた。
本来地下鉄等の低速かつ高加減速運用で効率が上がる方式ではあるものの、国鉄では駅間距離が長く高速運行を行う幹線で主に運用されるため、特に高速域で積極的に回生ブレーキを行う技術の開発に注力していた。
しかし当時の電機子チョッパ制御では、低速域と高速域とで起電力に大きな差がある直流電動機の特性を制御するための、チョッパや添加励磁装置による界磁磁束調整といった起電力を細かく調整する機能が実装されていなかったため、昇圧チョッパ回路となる回生ブレーキ時にはエネルギーの大きい高速域で過電圧が生じ、スイッチング素子破壊の恐れがあったため、通常の抵抗制御の電車に比べ高速域での電気制動力を上げられなかった。
そのため、主電動機はチョッパ制御に合わせた新形式・MT60形が設計された。これは、コイル巻き数を少なくするなどにより起電力を抑制※、高速域で回生ブレーキを積極的に活用することを図ったものである。歯車比も15:84=1:5.6まで落とし、定格電流や定格回転数の高さも相まって、全体的に高速寄りとなっている。
さらに、時速100km以上の速度域では、回生ブレーキの際に抵抗制御車同様のバイパス分路による弱メ界磁制御を行うことで、回生時電圧を抑える工夫がされた。
しかし、これでも架線電圧を大幅に超えてしまい、対策として主回路に抵抗を挟んだり、回生絞り込み制御を導入し、付随車にブレーキ力を負担させるなど、回生電力を抑える施策が行われた。
電機子チョッパ制御は低速域まで回生が可能とされるものの、そもそも低速域運動エネルギーは小さく、回収してもしなくても電気代にほとんど差異がない。
逆に回生電力を多く見込めるはずの高速域で回生ブレーキを絞らねばならず、高価な制御器を入れての結果がそれでは、費用倒れといいうるものであった。
ちなみに、低速域での高効率運転と高速域での回生制動力両立という課題は半導体スイッチング素子や制御技術向上・コストダウンにより、営団地下鉄が実用化した分巻チョッパ制御方式(電機子+界磁チョッパ)で完全な解決を見る。
もっとも、実用化された80年代中頃はVVVFインバータによる誘導電動機駆動が視野に入っており、あまり採用が広がる事は無かった。
※ 似たような施策は、近年の炭化ケイ素適用スイッチング素子を用いて大電力整流に対応し、高速域での回生電力を増加させ省エネルギー化を図ったという売り込みの車両でも行われている。
番台別解説
900番台(試作車)
前述の通り、1979年に中央本線(中央快速線)及び青梅・五日市線用201系の記念すべきトップバッターとして導入された。
1983年に量産化改造が行われ、組成変更や電装解除等が行われ、国鉄末期にはカナリアイエローに塗り替えた上で中央・総武緩行線に転属。
同線撤退後はスカイブルーに塗装変更の上で京葉線及び外房・内房線に転属したが、老朽化に伴い2005年11月に廃車・解体された。
0番台(量産車)
900番台の実績を参考にして改良を施した量産車。運転室直後の戸袋窓がなくなった他、ブレーキ回生率向上・メンテナンスフリー化やコストダウンを図った設計変更が加えられた。
また、国鉄経営が悪化した1984年には「軽装車」と呼ばれるコストダウン仕様車が増備された(詳細→Wikipedia)。
投入・運用(国鉄時代)
試作車900番台が中央快速線に投入。量産車0番台も同線に集中投入され、全てを201系に置換える形となった。その後中央・総武緩行線にも投入されている。
また、関西エリアにも京阪神緩行線に投入されたが、それまでの103系よりも高速域性能が高かったことから歓迎され、その後投入された205系と合わせて、日中時間帯は201・205系限定運用が組まれることになった。
製造打切
103系に代わる新形式として登場した201系であったが、主電動機電流制御を全て半導体に頼る電機子チョッパ制御を採用したため、製造費がかなり高額となってしまった。
当初は私鉄向けを含めた量産効果による製造コスト低減も期待されたのだが、既に私鉄などではやはり高コストに音を上げて、地下鉄向けなど特殊条件以外ではより低コストの界磁チョッパ制御に移行していたため、量産効果が期待できなくなってしまった。
運行条件から回生電力活用が期待出来ないJR九州筑肥線地下鉄直通車には、車体こそ201系と同等であるが、電装品を103系のもので誂えた程(「103系1500番台」を参照)である。後期製造車は一部装備を簡略化(側面窓の2段上昇式への変更、形式表示を切抜き文字からペイント文字に変更等)したものの焼け石に水で、1985年限りで製造は打ち切られた。
それでも1,000両以上の陣容を誇っており、中央本線、中央・総武緩行線、京阪神緩行線の各線で活躍を続けた。その後の通勤形電車増備は製造・運行コスト共に廉価な界磁添加励磁制御を用いた205系に移行している。
民営化後
国鉄分割民営化後はJR東日本・JR西日本にそれぞれ794両・224両が継承された。
JR東日本
中央・総武緩行線で運用されていた車両はE231系増備に伴って2001年までに撤退、青梅・五日市線及び京葉線に活躍の場を移した。また、2001年には観光用改造車「四季彩」も登場した。
E233系0番台が登場した2006年頃より本格的な置換えが始まり、2010年に中央本線及び青梅・五日市線から撤退し廃車され、長野で解体。最後の2編成は長野までの廃車回送のうち、豊田→松本間を臨時団体列車兼用として運転された。2011年には京葉線からも撤退。現在はクハ201-1のみ保留車として残存しており、イベント等で公開される場合がある。
JR西日本
2003 - 2007年にかけて全車に体質改善工事が施行された。
具体的には…
- 腐食対策に窓サッシを2段の田の字窓からバス風の逆T型サッシに取替。
- 同様に戸袋窓の埋め込み。ただし、103系と異なり、妻窓は残存。
- 同じく屋根の雨樋と外板の一体化による張上げ屋根化。
- 前照灯を前面窓内に配置変更。
- 内装を223系に準じたベージュ色の内装材に交換。
- 妻引き戸を207系風の物に交換。
- ドア付近への吊革増設。
後に方向幕を3色LEDに交換するなど、誰が呼んだか「永遠の次世代車両」という渾名が付いている。
新製配置された京阪神緩行線(JR神戸線・京都線)からは321系投入によって2007年まで撤退した。しかし、経年が浅く(28年)当時のJR西日本の方針である”古い車両を大切に末長く使いましょう計画”の下大阪環状線・大和路線・おおさか東線に活躍の場を移した(体質改善未施工車は転属時に施工)。
当初は全車両が大阪環状線に集結する計画であったが、その前提で組み換えを行うと電動車比率がメチャクチャになる(全て8連とした場合、4+4の編成や中間車全てが電動車という編成が爆誕してしまう模様)ため、最終的に「7両編成2本→6・8両編成が1本ずつ」という形で整理されていた。玉突きで103系の一部を置換えたものの、全てを淘汰出来る程の車両数を保有していなかったため、103・201系は共通運用で使われた。
転属の際に6両編成はウグイス色、8両編成は原則オレンジ色に塗り替えられた。後者は中央快速線を彷彿とさせるが、前者は国鉄時代にはなかった塗装パターン故か、「公式ウソ電」と呼ばれた。
余談であるが、かつて量産車0番台が登場した頃に鉄道模型メーカー「KATO」が各路線に投入されると見込んで5色全て発売、結局山手線ウグイスと常磐線エメラルドが幻となり、その後生産中止→カタログからも存在自体が抹消された過去があるため、大和路線カラーが出た際にこの件が蒸し返されたとか。
大阪環状線用編成については同線向けに新製された323系に代替される形で103系共々置換えられ、2019年6月7日限りで運行終了。大和路・おおさか東線用編成については、「残存していた103系6両編成の置換え」・「おおさか東線新大阪延伸」に伴い、大阪環状線からの転属で編成が補充され、この時点でJR西日本の201系はウグイス色のみとなり、余剰となった編成や中間車は廃車となった。
おおさか東線は大和路線と使用車両が共通なため、何と平成末期の新路線であるにもかかわらず、新大阪延伸開業1番列車の大役を果たした。更に103系の撤退に伴い、同線普通列車は201系で統一され、始発から終電まで真新しい路線にチョッパ音を響かせながら走る姿が日常と化していた。
そんなこともあって当分安泰かに思われたが、網干から転属して来た221系によって順次置換えが進められており、2022年3月ダイヤ改正でおおさか東線より撤退した。残る大和路線でも2024年度内に営業運行を終了する予定である。
201系特有の「ジェット音」
国鉄201系では走行時に鉄道ファンから「ジェット音」と呼ばれる騒音を出すことがある。その原因はベアリングホルダーの電蝕やギアの劣化が挙げられている。現存するJR西日本所有車両ではそのケースはこれまで少なかったが、やはり経年には勝てず増加傾向にある。かつて所有したJR東日本においては非常に目立っていた。
「ジェット音」が響いていた編成でも全般検査及び重要部検査を通した後は消えているバッテリーもあるため、1番の要因はベアリングホルダーの電蝕によるものと思われる。
メカニズムとしては、主電動機の回転軸とベアリングの間に僅かな電位差が生じることにより、ベアリングホルダーが腐蝕、内部球体を傷めてしまうことで発生してしまう。その件については保守関係職員達の頭を大いに痛めてしまう程であった。
201系ではその電蝕に伴って主電動機内部のコロ軸受を破損して主電動機軸が回転不能となり、継続運行が出来なくなる大きな輸送障害を招くことがあった。その対策としてベアリングホルダーを鉄製から砲金製に取替え、アース線増設が行われた。
この「ジェット音」についてであるが、前述の通り原因が主電動機であるため、201系以外でも比較的古い形式であれば発する可能性はある。
余談ながら、103系よろしくモーター音もかなりけたたましい(ただし環境省から名指しで騒音源とされたものは103系のみである)。
大和路線の快速運用で都会の喧騒と大自然の中を爆音を唸らせながら走る様は、往年の中央特快の走りを彷彿とさせる……と思う。