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63系

ろくさんけいないしろくさんがた

1944年(昭和19年) - 1950年(昭和25年)にかけて、「戦時型」として大量に製造された、運輸通信省鉄道総局・運輸省及び日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車の総称である。
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戦時型電車編集

WW2末期1944年、戦局も敗色濃くなる中、兵器生産へ人員を動員するための通勤輸送用として、緊急開発された。

簡易設計編集

戦時中に「戦争に勝つまで持てば良い」という設計思想の元設計され、当然戦時中なので物資も人もいない。そのためその真のコンセプトは「人を乗せて走れれば良い」ともいえるものであった。

車体は生産性を向上させるため屋根以外曲面をほとんど廃し、また換気や窓ガラスの破損防止や入手性の向上を狙って、クハ65形で試作された3段窓を本格採用した。またベンチレーターも大型で効率の高いグローブ型が採用されている。

車内は戦時型とはいえ「粗末」としかいいようがない代物で、天井板は配線隠し以外貼られておらず、座席はドアエンジン部分のみ(在来車も相当数が撤去されていたが)、照明は裸電球がぶら下がっていた(口金自体が家庭用と異なるため盗んで行ってもどのみち使えないが、それでも度々盗難に遭うため、対策で網がかぶせてあった)、と余りの粗末さに当初乗客がこの車への乗車を躊躇った逸話が残されている。

それ以上に問題であったのは、特に電車であるにもかかわらず絶縁を軽視・省略し過ぎたこと、資材難で代用品を使い過ぎたことであり、その後の電気火災事故頻発、そして桜木町事故に繋がって行くこととなる。


戦時中の製造編集

最初に木造車改造(鋼体化)名義で「クハ79形」制御車が竣工し、追って「モハ63形」制御電動車及び「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦までに間に合ったのは(とはいえ、一部は終戦後に落成している)、僅かにクハ79形8両、モハ63形14両、サハ78形8両に過ぎなかった。さらにモハ63は全車がモーターなどの電装品が確保出来ずに付随車代用、サハ2両とクハ3両は戦災で喪われる有様だった。なお、クハ79は予定数が25両であったため欠番だらけであった。また、クハ79のうち最初の3両は、種車の木造車の台枠を分解・切継ぎを行って再生したといわれる。その後の車両も木造車様式の台枠を新製したため車体下部造作がモハ・サハと異なっており、台車も種車由来TR11形を使用した。


戦後の生造再開編集

本格的に量産されるのは終戦後のことであるが、1950年(昭和25年)までの間に実に688両が量産され、戦後復興の一翼を担った。

初期製造車は戦時型自体の粗製乱造であり、本来であれば軸受けがローラーベアリングのTR35(後にDT13に改称)形台車が使用されるはずが、戦災車TR25(DT12)形台車を流用したり、モハとして製造されたもののモーターなどの電装品が確保出来ず、付随車代用(サモハ)で運用されたものも多かった。なお、ごく少数(3両)であるがT車代用(クモハ)も存在した。

また、短期間に大量製造されたため、出来上がった車体がメーカー工場に鮨詰めとなってしまい、急遽番号を書き換えて国鉄へ納入したことも多々あったといわれる。そのため、量産過程で改良された運転室構造や雨樋など、下記500番台を含めて旧仕様車体が後から登場することもあった。また、資材調達状況次第で天井造作や吊皮・客室ドア・各種金具などにバリエーションが見られた。

改良型500番台以降各部改善が行われ、さらに新型台車(TR37→DT14/TR39→DT15)採用なども行われた。

1949年に1度製造は終了するが、翌年に見込み生産車4両が購入されている。

これら4両は当初から天井が貼られるなど、内外共にほぼ戦前レベルにまで回復していたことが特筆される。



ジュラルミン試用編集

1947年製モハ63900 - 902・サハ78900 - 902の6両は、戦時中航空機用に用意された残材「ジュラルミン」を車体外板に試験採用した。また客車でもオロ40形5両(98 - 102)が同様にジュラルミン試作車として落成している。

いずれも当初は無塗装(オロ40は間もなく塗装された)であり、63系は当時珍しかった蛍光灯も試用されたという。

ただし、溶接出来ないため、初期鋼製車並みに車体全体がリベットだらけであったという。

しかし、航空機用ジュラルミンをそのまま鉄道車両外板に転用するのは無理があったらしく、さらに無塗装であったことから腐食が始まる様になる。その後一般車同様に塗装が成されたが、絶縁も不十分な環境故腐食(特に電蝕)はさらに進行、結局72系に改造後間もなく全車が台枠上の車体を新造、全金属構造試作車に改造された(オロ40も同様にスロ42に改造)。


私鉄への導入編集

大都市周辺の私鉄も戦災により多くの車両が破壊された上、戦中からの資材難による酷使と疲弊で故障の修理もままならない状態であった。また、これらが要因の大小の事故も頻発して稼働車が激減しており、故障車を(場合によっては国鉄から借り受けた)機関車で牽引までして輸送力を確保する有様であった。

そんな状況下で都市部からの買出し客殺到に直面した私鉄では深刻な車両不足に悩まされていた。しかし、深刻な資材不足の中新車導入は認可されない状況であり、また戦災車復旧(または名義による新造)もまだ軌道に乗っている状態ではなかった。

その事態に運輸省(国鉄)では一括発注した63系を必要とした私鉄に割り当て、対象になった私鉄から車両を地方の私鉄に供出させて、事態の改善を図ることになった。

また供給を受ける私鉄にしても、車長20m・幅2.8mの大型車がそのまま運用出来る路線はほとんどなかったが、施設大改修を行ってでも購入を希望する会社も少なくなかった(余談ではあるが、その時の施設改修が1960年代以降の車両大型化に大いに役立つこととなる)。


私鉄向け63系は上記の事情から“1度国鉄で新製し、その後譲渡した”という形となっている。そのため書類上国鉄車両としての番号(省番号)を持っているが、一部は省番号を持たず、新製扱いで私鉄へ入籍しているものもある。


以下の各社に1948年までに合計120両が鉄道車輌統制会の手を通じて各社へ供給された。

施設大改修をして受入れた」最たる社が山陽電鉄である。それまでは地方私鉄車両定規より数段小さな車体幅2,400mm、長さ15m程度の路面電車並の車両ばかりで走っていたのであるが、このためにプラットホーム面で車体幅2,800mm、車体長さ20mという国鉄と同等の車両限界へ拡大した(当然ながらホームを削るか線路を外に寄せるか等大掛かりな工事を含む。既存車も隙間を埋めるためステップの追加が必要となる:ほとんどの社は、地方私鉄車両定規から国鉄同等の定規への拡大のため、寸法規格上は15 - 20cm程、建築限界については余り手を付けなくて済んでいる)。

相当の荒療治で電車を入れたものの電力設備が追い付かず、当初は主回路を並列繋ぎに出来ず、主幹制御器を改造して直列のまま弱メ界磁を使用することでどうにか60km/h運行を可能とした。

なお、上述の通りこの線のみ標準軌のため、台車は中梁や車軸を標準軌仕様としているが(元々DT13原型であるTR23は標準軌にも簡単に対応可能な長軸台車であり、新造時点であれば軌間のアレンジは自在)、極普通の標準軌用動力車車軸と63系用標準狭軌モーターを組合わせて使用したためモーターが片方へ寄ってしまうという問題を抱えている(狭軌用電車を標準軌に改設計または改造して

いるJR719系近鉄名古屋線車両、逆に一部車両を狭軌に縮小改造する予定があった近鉄大阪線(車両製造時点では大阪電軌)は歯車を狭軌用位置に寄せて駆動部左右に均等に空きを作っている(1400・2227形)。


それらの内近鉄(南海)では、製造が傍系近畿であったこと、当時直流600V電化であったこともあり、内外に独自仕様が成されていた。

回路は1,500V用であれば電動機を2個直列とするが、南海向けは全て並列となる。制御器が電圧が半分以下の(逆に倍程度の電流がスイッチを流れる)ため63形用のままでは対処出来ないとされ、従来から南海で使われていた三菱ALFを使用した。それでもなお、出力は110KWと重い割に非力である(通常63形は128 - 142KW)。

さらには車内の電灯は電動発電機由来100Vではなく、電球を数個1組で直列として対地電圧600Vのまま引回し、代わりに電動発電機は省略されている(主制御器電源も抵抗で降圧して端子電圧を100V程度として使っていた)。


また、名古屋鉄道は枇杷島より北側の本線に入れないこと、1948年以降「運輸省規格型」電車の製造が認可されたなどの理由から、導入後間もなく全車東武鉄道と小田急電鉄に売却している。

さらに西武鉄道も4両購入を予定した(省番号も確定していた)が中止となり、代わりに17m級モハ50系(戦災車も多数含む)が移籍している。車両供出を忌避したためといわれる。


各車共に当初そのまま運用されたが、1950年代後半 - 60年代前半に車体陳腐化・老朽化が進行したため、車体を新製(一部は台枠を流用)して更新が行われた。ただし南海は1959年に一部を電装解除して電器品を新車1521系へ転用、更新は行わずにモハ1501形と電装解除したクハ1951形が1968年までに全廃されている。

各社更新車も、1990年頃までにほぼ全廃されたが、相鉄の7両(下記の事故車も含む)は1988年に冷房化と同時に制御方式変更(VVVFインバーター制御試験導入といわれる)改造まで行われ、1998年まで活躍したことが特筆される。


これら私鉄向けの他、国鉄から事故車3両が西武鉄道に譲渡され、401系(初代)として在籍していた。実はこの中の1両はいわゆる三鷹事件被災車であったりする(その後不足する1両は自社工場で製造した)。

さらに、相鉄も事故車1両を購入・復旧使用(クハ3504)したが、屋根端部形状が戦前型平妻車の様な形状であり、一見では63系らしからぬ姿をしていた。


この他、大牟田の三池炭鉱鉄道では、同系車が何と炭鉱通勤用客車として使用された。これは正確にはサハ78と同型車両を日本車輛に発注したもので、車両不足などで譲渡された他社とは異なる(とはいうものの、経緯に不明な点も多い。国鉄向けに納入されたサハ78には日車製はないが、昭和21年度に1度20両発注された上でキャンセルされているなどの経緯はあり、サハ78鋼体はモハ63とは別物で転用は出来ないことから非常に胡散臭いのであるが、今のところ関係を示す資料は見付かっていない)。

また、小田急では事故車台枠2両分を購入の上、特急車新造(サハ1750形)に利用している。



桜木町事故とその結末編集

しかしこの車両、国鉄戦後五大事故の1つ「桜木町事故」を起こした悪しき車両という印象を持っている人も多い。

63系は安全性を軽視して資材節約第1に製造されたため、とても脆弱な構造となっている。例えば車両を構成する材料の大半が可燃性物質であり、さらに中段窓が開かず、非常事態にドアを手動で開けられるドアコックが非常に分かりづらい場所にあって脱出し辛い構造のため、どこかしらに火が付こうものなら火葬の棺桶となりかねない。また、屋上には全く絶縁処理が成されておらず、大電流が接触すれば即発火間違いなしという信じ難い構造であり、実際に電気系火災事故が多発している状況であった(当時は資材難に伴う整備不良もあり、火災事故多発は63系だけに限らなかったが…)。

その桜木町事故は、直流高電圧トロリー線が架線工事中の事故で車体とショートしたことでまさに最悪の事態が発生してしまった事例であった。

とはいうものの、奇跡的な生存者の証言によれば、パンタグラフ直下はショートにより爆発に近いほど巨大なアークが発生し、その部分の乗客はほぼ即死であった上に事故電流で鋼体が数百度以上の発熱体と化しており、余程短時間でなければ脱出すらままならなかった。

また特徴である3段窓は中段が固定であったため、外れるか破壊しない限り人間が脱出できる幅がなかったこともある。

さらに、変電所遮断器が動作しなかったことも事態を悪化させた。

また当時関東では貫通扉を使う風習がない上に、僅か700mm幅で内開きという構造であり、この扉は出火時を生き延びた乗客も圧力で開けられず、さらには1946年に起きた木製ドア崩壊による乗客転落死亡事故対策として鋼板プレス製の強固なドアを事故車が用いていたため、今度は蹴破ることも不可という事態となり、死者106名・負傷者94名の稀に見る大惨事となった。

この事件に伴い、63系は欠陥車の烙印を押されしてしまい、根本的な改善策として72系へ改造されることとなる。

この少し前には国鉄はプロ野球へ参入しているのであるが、当然ながら「野球に参入する金があるなら欠陥電車を何とかしろ」と社会からしこたま叩かれた。



車籍上、三鷹事件裁判証拠品として保全処置が取られたモハ63019が1963年に除籍されたことで型式消滅した。


上記の通り、粗製乱造や桜木町事故等、欠陥を露呈した「」要素ばかりが目立ってしまったが、戦後混乱期、その後の高度成長期には欠かせなかった存在であった。だが、これを修正した73系以降に血筋は継承された。また、20m4扉の車体構造は70余年が経過した今日の通勤電車でも踏襲され、さらに私鉄車両大型化など「功」要素も決して少なくないであろう。



その後の車体工法への影響編集

この後の国鉄電車の特徴として、直流・交直流電車に貼られる絶縁布が屋根肩部まで全面に渡ることがほとんどとなった。戦前 - 80系電車初期車では、屋根肩手前で止める手法が取られることが多かったが、戦前型・80系初期車共々大多数は雨樋まで覆う形に改められた。さらに戦前型旧型国電の一部に見られた、鉄板張上げ屋根に絶縁塗料を塗っていた車両も、そのほとんどが更新修繕の際に屋根を剥がし、新たに木造屋根に絶縁布を張る構造へ改造されている。(私鉄車にはその後も屋根肩部に雨樋を付け、雨樋より上側を絶縁布や塗り屋根材で覆っているものがほとんどである)。この後登場する72系920番台や101系試作車(モハ90形)も、遠目には張上げ屋根に見えなくもないが、201系等とほぼ同じ高さ、肩部下裾辺りに雨樋を埋込んでいる形である。

また、63系で資材節約を目的に成されていた台枠上への外板貼付省略も、後に車体腐食対策として有効であると分かり(台枠と車体外板をスポット熔接していたため毛管現象で車体下裾から上がった水分が台枠との接合面で深刻な錆を引起こしていた)私鉄車では1967 - 77年頃の製造分から再度されるようになったが(継目を連続熔接した上でパテで段差は均されているので車体下端の丸み以外目視では判別出来ない)、国鉄車では201系量産車からの実施とかなり遅い。

張上げ屋根式の高い位置の雨樋、台枠露出とも車体腐食対策としてかなり有効な策であったが、国鉄で遅れたのはこの桜木町事故の影響を排除出来ない。

  • ただし、補足しておくと、国鉄でも例外的にキハ58系列(最末期にキハ65と同時に製造されたキロ28を除く)は何故か張上げ屋根となっていた。気動車であるからと架線に無縁でいられる時代でもなかったのに……


全廃編集

さて、63系電車として製造された車両は国鉄時代には全廃されたのであろう、EF13とかだってそうだしな、とか思うところであろう。


63系電車(として製造された車両)が全廃されたのは……………









1963年……………





とでもいうと思ったか?






じゃあ、国鉄分割民営化後?





そんな早かったらここまで引っ張らない。




じゃあ、いつ全廃となったのか。










2008年である。


再度いう2008年である。


どういうことか。

営業用としての最終在籍車は1996年まで現役であったクモハ84形である

クモニ83形再旅客化改造で生まれたJR化後最初で最後の旧性能電車形式は3両全てが63系としての経歴持ちであった


1996年といえばバブルは既に崩壊していたものの、まだ日本製造業にはそれなりに勢いがあった時代であり、航空機以外の工業製品で旧連合国を圧倒的に上回る状態となっていた(ただし、その後はお察し下さい)。

そう、「勝つまで持った」のである*

その後、交流用事業用車に改造されたクモヤ740-2が世紀を跨いだ2008年まで車歴60年を超え在籍し、63系の血脈の掉尾を飾った。改番履歴はモハ63596→モハ72280→クモヤ792-2→クモヤ740-2と4度を数え、63・72系一族の全終焉を見届けた

奇しくも、この形式が除籍された2008年12月24日は、0系新幹線が引退した10日後のこと。

日本復興・成長を共に支えた戦友を見送り、思い残すことはないといわんばかりに安らかに旅立てたことであろう。



現存車両編集

モハ63638がリニア・鉄道館に保存されているが、この車両はクモヤ90005からの復元車両である(モハ63638→モハ72258→クモヤ90005)。

垂木剥き出しの天井、簡素な座席など可能な限り外観を復元しているが、現在流通する木ねじはプラスネジしかなく、製造当時同様ののマイナス木ネジが入手出来なかったため、そこだけが異なる、とのこと。

いすみ鉄道上総中川駅沿線の保存施設「ポッポの丘」には旧番号モハ63373→モハ72107をルーツとするクモニ83006が保存。

廃車後試験機材としてJR総研→東芝府中事業所とを渡り歩き、2020年4月にクハ103-525と共に譲渡され、陸送・設置された。試験機材時代は水色(正式の青22号ではなかった。東芝府中事業所に移設時に湘南色に復元)に塗られた上で気動車との協調実験などに用いられ、連結側に簡易的な貫通扉を前面下部に設置されているのが残っているなど特徴的な外観となっている。



関連タグ編集

通勤形電車 旧型国電 72系 ゴジラ-1.0

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