概要
基本設計は京阪神地区電化時に設計された42系電車に準じるが、車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れ、当初は「魚雷形電車」と形容され、後には「流電」の愛称で親しまれた。
主電動機は51系から採用された高回転型のMT16形であるほかは、CS5形電空カム軸式制御器・A動作弁式自動空気ブレーキと42系と共通仕様であった。
しかし歯車比は1:2.04、台車は軸受にローラーベアリングを採用したTR25A形(電動車)・TR23A形(付随車)と異なる仕様になっていた。
1936年3月製造の一次車(モハ52001〜002)は側面窓が狭く(42系と同じ600mm)、1937年3月製造の二次車(モハ52003〜006)は窓が広くなっている(1100mm)。この仕様の差異から一次車を「旧流」、二次車を「新流」と区別することもあった。
モハ52006のみ戦災によって廃車となった。台車は当時増備中の63系に流用されたが、車体も1947年ごろまで残されていたようである。
中間車は既存形式であるサハ48・サロハ46(一次車)・66(二次車)であるため先頭車との番号の連続性・関連性はない。
この3形式については42系の記事を参照。
トップ画像は飯田線時代の姿だが、製造当初は一次車はぶどう色を基調に扉部分をベージュ、二次車はベージュを基調に窓周りをぶどう色とした後の117系の完成当時に用いられたようなカラーリング(後に一次車もこの塗装に統一された)で、床下機器を覆うカバーや前面スカートも装着されてよりスピード感あるスマートな姿だった。
ただしこのカバーは開放時に固定する機能が無く整備時にはつっかえ棒が倒れていきなり閉まってしまい、整備担当者が怪我することが多かったという…そのためか、戦後には外されている(現代と違い、当時は整備作業員がヘルメットを被る規則も習慣もなかった)。
製造当初は乗務員扉が無く、輸送事情が逼迫した戦時中は駅で乗務員による安全確認等をしにくかったため編成の中間に組み込まれ、事実上中間電動車として使用されていた(後の飯田線での運用で、快速など比較優位になる通過列車運用でタブレットの授受が問題となるなど、本系列の特色である流線型車体は大きな弱点でもあった)。
こうした問題から製造は6両にとどまり、その後1937年8月に増備された4両(モハ43038-041)は42系をベースとしながらも51系を思わせる半流線形で、窓は52系2次車と同じ1100mmの広幅、溶接を使用したノーシル・ノーヘッダー・張り上げ屋根と42系と51系の中間のような形態となり、「合いの子流電(現在は「合いの子」という表現が好ましくないため「半流型」と呼ばれることが多い)」という通称があった。
形式名も42系と同じモハ43形となったが、歯車比・主電動機・台車はいずれも52系仕様となっていた。
第二次世界大戦後は1949年から1950年までは戦前と同じく関西急電の運用に就いたが、1950年に80系電車に置き換えられる形で阪和線に転属、特急電車に使用された。
この時は「アイスキャンデー」と通称されたスカイブルー塗装になっている。
さらに1948年には木造車クヤ16を挟んだ3両で高速度試験にも使用され、電車による本格的な特急形車両開発の礎となった。
1953年の更新修繕で乗務員扉が設置され、一次車2両は主電動機をMT30形に更新している。
1957年からは飯田線に活躍の場を移し、飯田線快速色(オレンジとダークブルーのツートンカラー)・湘南色を経て最終的に横須賀色に塗装変更を受け1977年まで活躍を続けた。塗り分けの基本ラインは、湘南色・横須賀色については戦前の登場当時のそれを踏襲している。
飯田線が選ばれた理由については長大ローカル線であり2扉クロスシート車である本形式が適正であること、元来より電化されている路線でありトンネル断面が大きく低屋根化の必要がないことが理由とされている。
初期はクハ47形と連結した2両編成での運用もあったが、後にモハ52形2両(奇数のため余った1両は他の形式が反対側の先頭車となった)に中間車2両を挟んだ4両固定編成となり、朝夕の通勤通学輸送に従事。昼間は臨時列車の指定が無ければ牛久保駅にあった留置線に留置されていることでも知られていた。
最晩年の中間車は70系のサハ75や80系のサハ87などであった。
最終増備車の半流線形モハ43形はモハ43038が戦災廃車となったが、残る3両は関西急電・阪和線特急電車でモハ52形とともに活躍。うち2両が阪和線特急用に主電動機をMT30形に更新して1953年にモハ53形(007・008)へと改番されている。
1958年にはモハ52形に続いて飯田線に転属。モハ43形のまま残った039は低屋根化されて身延線に移ったが、残る2両は飯田線の旧型国電が全廃されるまで活躍した。
保存
戦前の国鉄を代表する電車ということでさよなら運転で両先頭に立ったトップナンバーのクモハ52001と広窓のクモハ52004が保存されている。
クモハ52001は大阪鉄道管理局の尽力で終焉の地となった飯田線から吹田工場へと運ばれ、パンタグラフのPS13からPS11への換装、半室運転台や通風ルーバーなど極力1937年頃の姿へと復元が行われ、吹田工場→吹田総合車両所に屋根をかけて保存されている。なお完全な復元ではなく、代品の調達ができなかった客用扉と台車は更新後の姿となっている。
クモハ52004は飯田線沿線での保存が計画された。しかし保存に適当な場所が見つからず、とりあえず日本車輌豊川工場での保管が決まった。日本車輌にとって同業他社である川崎車輛製のモハ52を保管することに対して内部で少なからぬ反発があった(ちなみに日本車輌製の52系は中間車ですでに全車廃車となったサハ48形だった)が、縁の深い飯田線の顔とも言える車両であったことから英断により保存が実現した。
JR東海発足後、1991年に中部天竜駅構内にオープンした佐久間レールパークへ移設。当初は現役末期の姿で整備を行って展示されていたが、1996年頃に塗装のみを関西急電時代のものへ復元。追って床下機器カバーやスカートの装着、前照灯の埋め込み化を行ったが、乗務員扉やグローブ型通風機など現役末期時代の要素も色濃く残されている。
佐久間レールパーク閉園後はリニア・鉄道館へ移設され、引き続き保存されている。移設に際しては乗務員扉の埋め込みなどを行い、製造当時の姿へと戻された。