概要
日本国有鉄道(国鉄)が1949年に新製開始した長距離列車用電車形式群の総称(正式の系列名ではなく、整理上・趣味上の通称)。
東海道本線東京口の長距離列車を電車化することを目的として設計された。1次車は正面3枚窓デザインであったが、1950年に登場した2次車以降ではメインイラストのような正面2枚窓のいわゆる「湘南顔」が採用され、そのデザインの美しさから国鉄のみならず国内の私鉄各社でも類似した前面形状の車両が多数登場した。
かつて大阪市交通科学博物館に先頭車・中間電動車の各トプナンが静態保存されていたが、閉館に伴い、一時別の場所で保存後、現在は無事京都鉄道博物館に展示されている。
他方、一世を風靡した「湘南顔」車両は全車両解体されてしまい、現存しないものの、藤沢駅3・4番線にあるNEWDAYS(KIOSK)が当該先頭車レプリカとなっていることで有名。
誕生背景
それまで電車は都市部の比較的短距離を走る車両と位置付けられていた。
ところが、当時東京駅ホームは既にパンク状態で、客車列車のままではもう一本ホームを作らなければならないという差し迫った課題があり、折り返しにかかる時間が短い電車が採用された。
当時既に東北本線(現・上野東京ライン区間)東京 - 上野間には列車線があるにはあったが、実は東京から伸びる2本の線路の片方は縦に長い留置線で、本線は単線としてしか機能しない。
現在は定期列車用線路が上野東京ラインとして整備されたが、当時の列車線は定期列車運行にまともに使える様な代物ではなく、ごく一部列車を除き全て東京・上野両駅で折返してそれぞれ南下・北上するしかなかった。
しかし、当初は反対があった。当時の国鉄電車は揺れが酷いとされ、居住性で客車列車に敵わないと言われていたためである。
しかしながら、結果的にこの車両は大成功を収めたため、日本の鉄道は新幹線を頂点とする、電車・気動車(=動力分散式車両)主体の旅客輸送へと転換した。
構造
それまでの客車に一般的な両デッキ構造車体に従来電車の延長線上にある電装品を取付け、両端車に運転台をつけて長編成前提の電車に仕立てたものである。
基本的に既存の技術のみを用いており(技術面で冒険はしていない)、使い方に新基軸がある。
ブレーキ構造は例外的に新しいものが2つ入っている。電磁弁を設け、応答が早いこと(運転台以外の随所で同様にブレーキ管圧力操作がされる)、1両1シリンダのブレーキを台車近傍に1つずつ設け1両2シリンダーとしている。
動態保存中、京福電鉄事故の影響で単行運行が出来なくなった旧型電車も何両かあるが、解決策の1つは技術的にはこの80系の様な2シリンダー式への改造である。
電装品・車体構造共に既存のものに準じたものであったが、貫通路及び貫通幌は従来の規格を踏襲せず、幅広(1m)専用品としているため、既存形式と連結しても幌に手を加えなければ連結出来ない。
鉄道省の頃から何かと標準化・規格化と前例を重要視していた国鉄では異例のことであるが、従来電車とは全く運用方法が異なるために他形式と混結しないと考えられていたので問題ないとされた。
車内レイアウト
80系のシートピッチは初期車こそ1,400mmとオハ31・60系鋼体化改造車とオハ35系の中間程度であったものの、200番台以降のグループでようやくオハ35系以来のもので、背ずりにモケットが付いたスハ42系とほぼ同じである。
0番台グループ及びシートピッチ拡大車である200番台共に通勤輸送が念頭にあるため座席は横幅を詰めてあり、同時期の客車と比べ、9cm程狭かった(その分通路が20cm程拡大されている)。
車体の設計に軽量構造を取り入れた300番台は最初から優等列車へ充当させるため、客車並に幅を広げ直している。
客室の居住性は全体的に客車に準じているものの、流石に吊掛式旧型電車故騒音の車内への侵入は客車より大きかった。
80系には3等車(普通車)の他、従来の客車列車にあった2等車も存在したが、こちらは全て付随車である。
また、ドアは乗客が手で開閉していた客車と異なり、他電車同様車掌操作によって自動開閉させることが出来るため、従来の客車列車と比較すると安全性が大きく向上した。
振動特性
電車が、というより当時までの日本国鉄台車の揺れ枕リンクは押し並べて短く、電車であろうが客車であろうが不快な揺れを中々解消出来ない設計のまま数十年存置された。
ようやく戦後に私鉄や旧満鉄などの設計思想も取入れられたため、リンクが平均的な長さ(500mm程度)となり、動揺の特性が改善された。動力台車は鉄鋼入手状況も関連したが、一体の鋳物(後期車はプレス溶接構造)で側梁を作る様になったことも細かく周期が短いヒビリ振動抑制に寄与した。
抜本的な改善点
運転面
駆動軸数と編成出力が電気機関車牽引よりも遥かに増え、高加速のため、最高速度がほぼ同じでも大幅な運行時間短縮が出来た。15両編成でMT比2:3(6M9T)でも出力は3,300kWあり、EF58単機の1.75倍の出力がある。
サービス面
客車長大編成の泣き所が空調、ことに冬の暖房だった。
機関車から供給される蒸気による暖房だったため、特に大気圧式で揃っていない編成の場合後端で暖房の効きが悪くなる。電化されて機関車が電気機関車になっても1940年代までは基本的に蒸気暖房を使った。
直流電化区間限定の電気暖房もあったが(シート下に当時の電車同様対地電圧1500Vのままシーズ線を引き回し;後年の交流1500V仕様(熱源電圧は変圧し200V)とは異なる)、電力・架線事情から全面的普及とはいかなかった。
対する80系は各動力車のパンタグラフから個々に熱源分も取るので集電量も少なく、夏も101系登場後旧型車にも扇風機の装備改造がなされた。客車列車にも扇風機は装備されたが、車軸発電機由来のバッテリー電源によっており、長時間停車すると止まってしまう。他方電車用のそれは基本的に止まらない。
また特急の二等車・一等車・食堂車などは戦後冷房装置を搭載したが、その動力源も編成重量をさらに重くし速達性に差を付けた。
塗装
鉄道車両に鮮やかな色彩を広めたのも80系であった。
従来、鉄道車両といえば黄色が鮮やかな地下鉄1000形は例外としても、濃緑、茶色の1色塗りといった具合で、明るい色合いといえば精々マルーン(えんじ色)が関の山。ややお洒落なツートンカラーといえば、緑や茶色の車体にクリーム色を足すくらいであった。
これは、ブレーキシューが削れた鉄粉が車体に付着して汚れるのをカモフラージュするもので、ブレーキの技術が成熟していなかったこの頃の電車の宿命であった(現在それ程汚れないのは、電気ブレーキも去ることながらレジンシュー効果が大きい)。
80系の場合、流石に汚れやすい車体腰部は濃緑(緑2号)としたが、窓周辺を鮮やかなオレンジ色(黄かん色)に塗り、当時としては鮮やかな色彩は沿線の特産物に准えて「みかん色電車」として広く親しまれた。この塗り分けは、米国グレート・ノーザン鉄道の車両を参考にしたものである、オレンジが赤に近い色合い(※)で「まるで錆止めのようだ」と不評であったため、黄色に寄せた。この塗り分けは近郊形111・113・115系、急行形153・165系にも受け継がれ211系のストライプにも用いられた(※)丁度良い色合いの塗料がなかったともいわれる。
愛好家や関係者の間で「湘南色」と呼ばれているこのカラーリングは、現在でもJR東日本やJR東海で用いられJR西日本も独自色や末期色となるまでは広く用いていた。
時代が下るにつれて多くの車両が地方に活躍の場を移したが、ほとんどの車両が緑・オレンジの湘南色のまま晩年まで活躍した。
他に、京阪神地区の急行電車(現・京阪神快速)に用いられた車両の関西急電色(茶色とクリームのツートン)、横須賀線の中間車や地方に転属した荷物車などに塗られたスカ色、大糸線のに転属した車両の青22号単色、新潟地方の新潟色(赤2号・黄5号)が存在したものの、こちらは全体数から見れば少数派である。
運用
登場時には終戦から4年経過していたものの当時の工業水準は完全に回復していたとは言い難く、試作車は初期不良の多発したため「遭難電車」などと揶揄された。運用開始前には2両全焼するなどの不運に見舞われたが、克服されると速達性が尊ばれ好評を博す様になった。
1950年、東京 - 伊藤・修善寺間準急「あまぎ」(現・特急「踊り子」として運行開始。東京 - 熱海間において「あまぎ」は客車特急「はと」とほとんど同じ所要時間で走るなど、その速達性は突出しており「あまぎ」「いづ」など伊豆方面への電車準急は「湘南特急」と呼ばれた)。
また、関西でも京都 - 神戸間急行電車(関西急電)に投入され。好評を博した。
その後は客車列車独壇場であった長距離運行もこなす様になって行き、幹線系統では以下の準急に用いられた。
伊吹:名古屋 - 大阪間
やしろ:岡山 - 下関間
周防:広島 - 小郡間
ゆけむり:上野 - 水上駅間
あかぎ:上野 - 前橋間
苗場:上野 - 越後湯沢間
ゆきぐに:上野 - 長岡間
ふたあら:上野 - 宇都宮間
しもつけ:上野 - 黒磯間 ※同上
急行にも用いられ、東京 - 姫路間を結んだ臨時夜行急行「はりま」は80系を使用した列車では最も長距離を運行した列車である。ただし、「はりま」は元々153系で運転されるものであったが、車両の都合がつかず、ピンチヒッターを任されたためであった。
上野 - 新潟間を上越線経由で結んだ急行「佐渡」は165系落成が間に合わず新製配置までの繋ぎとして80系が用いられた。この時期、準急である「ゆきぐに」が既に153系が充当されており見劣りしていたにもかかわらず、その速達性もあり客車を使用した「佐渡」より80系の「佐渡」の方が利用率が高かった。なお、最後の定期急行列車運用は塩尻→長野間急行「天竜」0.5往復であり1978年まで運用された。
横須賀線では、70系などの他形式で組成された列車に1等車(等級制度変更前の2等車)サロ85のみを塗装を塗り替えた上組み込まれていた時期がある。但し貫通路や幌の寸法が80系と他形式で違うために幌の前後で横幅が違うアダプター用幌を使って通路を構成している。
事故に伴うピンチヒッター運用ではあったが、特急に充当されたこともあり、1964年4月24日に東京→宇野間151系使用「第1富士」が静岡県内で踏切事故に遭遇(先頭車大破含む6両が脱線する大事故となった)したことから、大阪→宇野間代走及びその折返宇野→大阪間「うずしお」に80系7両が充当された。吊掛方式電車が特急に充当された唯一の事例である。
地方線区への転出
やがて80系を使用していた電車準急や急行の運用は153系・157系・165系に、普通列車も三扉車の111系といった新性能電車に置き換えられるようになる。
このため80系は短編成化された上で山岳路線やローカル線に転属することとなった。
短編成にあたって不足した先頭車は、中間付随車に改造を施して捻出された。
この車両はクハ85(2代目)と名付けられ、サロ85やサハ87に101系電車を高運転台にしたような簡素な意匠の運転室を取り付けたものであった。
80系は幹線で高速運転を行うために強力な電動機を多数搭載していたため、山岳路線では粘り強い走りに定評があったという。このため、日本全国の直流電化区間で活躍した。
一方で、元々が長編成を組み長距離走行するという設計コンセプトだったため、走るための最低単位が『クハ+モハ+モハ+クハ』の4両編成、どうにか無理やり走るようにしても3両編成で、地方線区などでは仕業を選ばざるをえない車両であった。更には前述の通り他形式との混用を考慮しない設計であったことも運用を一層難しくした。
最後の任地となったのは前述の通り飯田線で、まとまった数の300番台が運行終了まで在籍していた。
飯田線での運用離脱後、廃車の解体作業を行っていた日本車輌では既に大量の解体作業が行われていた関係で新たに80系を受け入れる余裕がなく、西浜松駅・中部天竜駅・牛久保駅へそれぞれ疎開留置された。最も留置数が多かったのが西浜松駅で、4両編成7本とラッシュ時増結用の2両が1本の合計30両。続いて中部天竜駅に4両編成2本の計8両、牛久保駅には4両編成1本が留置された。
なお、西浜松に疎開された30両は豊橋駅構内配線関係で浜松方面から直接飯田線に入ることが出来ず、1度西小坂井駅まで東海道本線を進んで同駅で折返し、その後に飯田線へと入線した。
導入に反対した面子
先ず、横槍を入れたのは、GHQ鉄道監督部門であるCTS(Civil Transportation Section=民間運輸局)であった。GHQ内で主力を占めていた米国の場合、長距離電車は衰退しつつあり、その有効性に疑問を呈したのである。また、この頃は国鉄が何かを「新造」することに対してCTSが難色を示すことが多く、この80系も例外ではなかった。そもそもヨーロッパ型ダイヤ運行システムを範とした日本鉄道省型とは米国とは運行システム自体が異なるのである(後年となっても米国系外資の人間は全く理解出来ていないことが多い)。
特に、80系の場合は世界的にも前例の乏しいタイプの電車を敗戦で国土が荒廃状態の国が量産することにつよい懸念を示した。鉄道業界出身のCTS将校の中には、「(米国製ディーゼル機関車を買わせて)客車列車で運転すれば良い」と端から理解するつもりのないものもいた。電化計画に消極的であったのもそのためである。
そのため、当初は「横須賀線と同じくらいの区間運行であるが、大船で曲がらずにそのまま西進するだけだ」と説得している。「好評に付き折返駅がないので…」というようなレトリックで運転距離を伸ばせるだけ伸ばし、GHQ/CTSが存在している頃の内に沼津辺りまで走り、既成事実化させたのであった。
国鉄の労組員もまた激しく反対した。長距離客車列車を電車で置き換える→特に折返駅での所要人員が減り、人員カットに繋がる。…という理由であった。だが、結果的に利用者の需要とは真逆を行ったこれらの労働争議は、利用者国鉄離れを招いたために1970年代後半に破綻、最終的に1987年の国鉄分割民営化→JR化に至ることとなる。
一方、客車列車も近代化すべく初代ブルトレこと20系客車が投入されるが、皮肉にもそれにふんだんに使われたのは101系電車開発で培われた軽量固定編成電車のノウハウであった。そしてこれ以降、客車列車花形は夜行列車が中心となった(しかもこのテリトリーすら後に電車に侵食されている)。
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その他の80系・80形等
- キハ80系…やや後れて非電化線区に導入された特急形気動車。同じく引退済。
- HC85系…JR東海の特急形気動車でこちらは現役。クモハ85形・モハ85形・クモロ85形。なお、電気式気動車であるためかクハ(液体式でいえばキクハ)などは存在しない。