概要
京阪京津線沿線の住宅開発に伴い増大した旅客需要への対処と、老朽化した各駅停車用の車両置き換えを目的として、1961年にデビュー。
メーカーからの搬入は、現在の京阪本線京橋駅近くにあった(旧)片町駅の引き込み線から京阪の線路へ搬入、60形「びわこ号」に牽引されて三条駅の連絡線を経由して輸送された、
なお、81号と82号については、
徳庵駅(【※1】片町線)⇒放出駅(城東貨物線【現・おおさか東線】⇒竜華操車場(関西本線)⇒王寺駅(和歌山線)⇒吉野口駅(近鉄吉野線)⇒橿原神宮前駅(近鉄橿原線【※2】)⇒大和西大寺駅(奈良電気鉄道【現・近鉄京都線】)⇒丹波橋駅(京阪本線【※3】)⇒三条駅(京阪京津線)⇒浜大津駅(京阪石山坂本線)⇒近江神宮前駅【錦織車庫】
という現在では考えられないルートで回送された。どうしてこうなった
※1 製造元である近畿車輛の最寄り駅
※2 当駅で狭軌用仮台車から本来の台車に履き替えた
※3 当時奈良電と京阪は直通運転をしていた
特徴
この車両は路面電車サイズのツリカケ駆動でありながらも、回生ブレーキを装備し定速制御も可能、各駅停車として運行中も後発の急行列車から終着駅の三条、待避線のある四宮まで逃げ切る事ができる、必要に応じて急行列車や準急列車にも運用できるという当時の新性能電車を凌駕する破格の高性能を実現した。
なおツリカケ駆動を採用したのは、併用軌道区間の敷石区間で異物を巻き込んで高価なモーターや駆動系が損傷する恐れがあったこと、低床・カルダン駆動・急行運用も可能な走行性能の両立を図るには主電動機の絶縁種別向上等によるコンパクト化が必要で、その製造・保守コストが過大という事情があったためである。
つまり、ツリカケ駆動以外の部分は当時の最新技術を採用したと言ってもいい車両である。
運用
主に京津線の各駅停車として運行(特に併用軌道上の停留所で客扱いできる車両は旧型が廃車された後はこれしか存在しなかった)されたが、運用上の都合から準急や急行にも使われることがあった。しかし長年各駅停車主体で運行されていたために乗客が各駅停車と勘違いして誤乗したり、乗務員が本来通過する停留所に誤って停車したりとトラブルが絶えなかった。
改造
落成時にトロリーポールを装備していた車両があったが、当初からパンタグラフへの交換を考慮しており、1970年にトロリーポールからパンタグラフへ交換されている。この時取り付け高さを稼ぐために太いパイプの上にパンタグラフを取り付けている。
単行運転が可能なように両運転台で落成した車両があったが、1970年から72年にかけて2両固定編成化改造を行い、全車両が2両固定編成となった。
1989年より冷房化改造が行われた。この時既に京都市営地下鉄東西線への相互乗り入れ開始に伴い80形の廃車は決定していたが、夏期の旅客サービス向上のために冷房化を実施することとなった。なお廃車後80形の冷房装置は石山坂本線用の600形の冷房装置の更新時に再利用されている。
廃車
1997年10月、京都市営地下鉄東西線開通に伴い、京津線と石山坂本線の架線電圧が1500Vへ昇圧されることとなり、600Vにまでしか対応できず地下鉄への乗り入れも出来ない80形は全車廃車となった。廃車後は(旧)九条山駅や(旧)京津三条駅などに分散して留置された後解体処分となったが、2両が浜大津駅近くの側線に5年近く留置された後、82号車が錦織車庫で1両が完全な形態で(のち別の保管場所へ向けて2015年に搬出)、81号車が先頭部のみのカットボディとして保存されている。
なお廃車に際し、福井鉄道や新潟交通、高松琴平電気鉄道、名古屋鉄道(岐阜市内線など)、東急電鉄(世田谷線)、さらにはブラジルから旧型車の置換え用として譲渡の話が持ち上がったが、橋梁の耐荷重超過、特殊な機構を備える電装品の保守困難、廃車時期と補助金申請のタイミングが合致しなかったことなどの不幸が重なり、譲渡が実現することはなかった。
その後、福鉄には名古屋鉄道岐阜地区600V線区の車両が2006年に譲渡され、旧型車を置き換えている。その旧型車の中には、奇しくも京阪80形と同じく晩年に冷房化されたモハ80+クハ80形が含まれていた。福鉄80形は戦前製の旧・南海鉄道の車両をルーツとする車両(ただし車体と走行機器は、新しいものへ更新されていた)で、前述の事情で譲渡が実現しなかった京阪80形の方が短命に終わるという皮肉な結果をもたらしている。