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注:叡山電鉄が運行する観光列車ひえい」とは異なります

概要編集

名古屋大阪神戸を結んでいた東海道本線優等列車である。登場時は準急列車であったが、後に急行化され、1984年まで活躍した。新幹線が開業するまでは大都市間の動脈として、新幹線開業後は草津近江八幡岐阜などの新幹線の駅から離れた中規模都市をつなぐ新幹線の補助的存在として活躍した。

比叡の名称は滋賀県京都府の境にあり、比叡山延暦寺でも名高い比叡山より名付けられた。また、伊吹は滋賀県と岐阜県の境にあり、世界最高積雪の記録を持つ伊吹山より名付けられた。

なお、比叡と同区間を走行する全席指定列車である「伊吹」についても当記事で取り扱う

初期編集

1952年9月名古屋駅-大阪駅間に蒸気機関車の牽引する無名の不定期準急3405・3406列車が設定された。ただし、不定期列車ではあるものの毎日運転されており、実質的には定期列車と大差なかった。

この準急列車、下りは名古屋駅を出発し、大阪駅に到着。

上りは夕方大阪駅を出発し名古屋駅に到着するサラリーマンにうってつけの列車だった。

1953年11月、不定期列車であった3405・3406列車は定期列車に格上げとなり、405・406列車となる。

1957年10月に、準急405・406列車は東海道本線電化に遅れること1年、80系により電車化された。

この80系は、それまで都市部の近距離輸送にしか使えないと思われていた電車を優等列車に用いた最初の形式である。東京-名古屋間の準急「東海」及びこの準急「比叡」(充当から1ヶ月間はまだ比叡の愛称はついていなかった)において十分な性能を発揮したことにより、長距離列車でも電車列車が役に立つことが証明された。

また、この改正で1日3往復に増便され、運転区間は1往復が神戸駅まで延長された。編成は堂々の10両編成であった。


発展期編集

1957年11月、80系によって電車化された翌月、ついに愛称が設定され、「比叡」の名が付けられる。

  • 1958年3月東京-名古屋間の準急東海に新性能電車である91系電車(後の153系)が導入され、余剰となった80系で比叡が5往復に増発された。
  • 1959年4月からは比叡でも91系電車への置き換えが始まり同年6月20日には完了した。当時は2等車を1両、3等車を9両連結した6M4Tの10両編成であった。
  • 1959年の時点では神戸駅までが1往復、大阪駅までが3往復であり、最短2時間30分で結んでいる。
  • 1959年6月、国鉄列車称号規程が改定され、91系電車は153系電車に改称される。
  • 1959年9月、153系に置き換えられてますます利用客の増加した比叡は、新たに全席指定席の準急列車を2往復走らせることとなり、「伊吹」と名前がつけられた。
  • 1960年6月ダイヤ改正ではさらに増発され、比叡6往復、伊吹2往復の計8往復となった。

また、今改正では特急列車に設定されていた1等車が廃止されたことにより、旧2等車は1等車に、旧3等車は2等車に改称された。

田町電車区所属の編成で運用される比叡1往復をのぞき、京都・大阪-宇野間の準急「鷲羽」と共通運用となったが、鷲羽の走る宇野線変電所容量が大きくないため、4M6Tという省力編成で運行された。編成の内訳は1等車(旧2等車)1両と2等車(旧3等車)9両の10両編成である。

なお、田町電車区所属の編成は1等車(旧2等車)2両と2等車(旧3等車)8両を連結した6M4Tの10両編成であった。

  • 1961年10月(サン・ロク・トオ改正)からは比叡8往復、伊吹2往復の10往復まで増発されている。(下り第二伊吹と上り第一伊吹は神戸発着)

この改正で下り第一伊吹・上り第二伊吹は半室ビュッフェ車のサハシ153を2両連結した堂々たる12両編成となった。

編成内容は、比叡及び下り第二伊吹・上り第一伊吹は1960年と同様の1等車1両と2等車9両を連結した4M6Tの10両編成、第一伊吹・上り第二伊吹は1等車2両と2等車8両、ビュッフェと二等客室の合造車であるサハシ153を2両連結した6M6Tの12両編成であった。

なお、田町電車区の編成で運行される列車は無くなり、全列車が宮原電車区所属の編成で運転されるようになった。

  • 1963年10月改正ではあまりの混雑のため165系クモハ165・モハ164の2両を10両編成で運転されていた全列車の神戸方に増結し、6M6Tの12両編成として運転した。

なお、共通運用の鷲羽についても165系が連結されたが、宇野線内はまだ変電所増強がされていなかったので、165系は岡山でを切り離して宇野線内は従来の省力編成で運行された。


衰退期編集

伊吹は廃止されたが、下り比叡1号および上り比叡7号は伊吹と同じ編成内容で運行され、ビュッフェ車が引き続き営業することとなったほか、下り比叡7号と上り比叡2号が神戸発着となった。

  • 1965年10月改正では利用客が新幹線へ移行したため比叡も本数が削減され、4往復となり、神戸発着列車も無くなった。

しかし、編成は全列車が伊吹と同内容となり、全列車でビュッフェが営業された。この時も鷲羽と共通運用を組んでいたが、宇野線の変電所増強により今改正から電動車の多い編成も運用可能となった。

また、1等車は従来の153系の他に、153系1等車の冷房化のために組み込まれた163系165系で運用される編成もあった。

  • 1966年3月からは国鉄の「走行距離101km以上の準急は全て急行とする」という方針転換により急行へと格上げされた。
  • 1968年10月改正(ヨン・サン・トオ改正)で下り方のビュッフェ車と1等車を削減し、6M4Tの10両編成へと減車。163系は大垣に転属したため、1等車は全て165系となった。
  • 1969年5月、1等車はグリーン車に、2等車は普通車に名称を変更。
  • 1970年10月利用客の少なくなったビュッフェの営業を休止。
  • 1972年3月改正では2往復のみに減便された。また、編成もビュッフェ車が普通車のサハ153に置き換えられ、さらに中間車2両が減車された。その結果、編成内容はグリーン車1両、普通車7両が連結された4M4Tの8両編成となった。
  • 1980年10月ダイヤ改正で、ついに名古屋7:10発と大阪11:25発の1往復のみとなった。長らく宮原電車区所属の車両で運行されていたが、今改正からは大垣電車区所属の車両での運転となり、中京圏の快速電車と共通運用となった。そのため、グリーン車すらも連結されなくなり、普通車のみ連結された4M4Tの8両編成になった。

なお、今改正で運用を共にしていた鷲羽が廃止されており、比叡の転属と鷲羽の廃止で宮原電車区から153系は撤退した。


ビュッフェ車編集

153系や165系といった列車が活躍した当時、東海道本線を走る急行や準急のビュッフェ車ではなんと寿司が販売されていた。ビュッフェ車内に暖簾を掛け、更に寿司職人を添乗させて販売していた。

当時、まぐろは一貫20円、タコとこはだは一貫15円だった。この値段は現在の価格に直すと一貫あたり大体250円~300円位。


関連イラスト編集

伊吹の風に吹かれて


関連項目編集

国鉄 日本国有鉄道 準急 急行 列車愛称 比叡 伊吹 80系 91系 153系 163系 165系

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