概要
大正末期から昭和初期にかけて、東京・大阪の都市圏内で電化が進み電車の運転も拡大。近距離用電車として17m級車体の30系・31系、20m級車体の40系、中長距離用として32系・42系が導入された。
これらの実績をもとに、ラッシュ時・データイム双方で利用者に快適なサービスを提供できるように省線電車としては初の3扉クロスシート車として製造されたのが本形式である。
基本的には40系の後期グループをベースにした半流線型の20m級車体、モハユニ61形以外は前面貫通型で、1936年製の車両は半室運転台、1937年以降製の車両は全室運転台。
パンタグラフはPS11B型、モーターは100kW級のMT16形。これは従来車のMT15形を高速回転対応したもので、52系にも採用された。保守的な設計であったが弱め界磁時の定格回転数が高く、高速運転に適応する。
主制御器は電空カム軸式制御器のCS5形、歯車比は中央線に導入された車両が従来車に合わせ1:2.52としたほかは32系・42系と同じ高速型の1:2.26。
台車は電動車はTR25(DT12)形、付随車はTR23形で40系・42系と共通。
形式
基本形式
- モハ51形
片運転台の制御電動車。製造は日本車輌、川崎車輛、新潟鐵工所、田中車輌。
前面が半流線型で後位側にパンタグラフを取り付けている。
製造時期によってその他の部分は差異があり、1936年度製の車両は従来型ヘッドライトに布張り屋根・軽合金製扉、1937年度前期車は砲弾型ヘッドライトに鋼板屋根で屋根上のランボードが2列、1937年度後期車は張り上げ屋根を採用した。
1936年から1938年まで全57両が製造されたが、1936年度まで製造された26両は中央線急行電車用で、全車両が高尾向き先頭車として組成されたほか、当時の東京地区では貫通幌を使用しなかったため連結面が開き戸になっていた。
- モハ54形
片運転台の制御電動車。製造は川崎車輛、日本車輌、汽車製造。
1937年から1941年まで9両が製造された。
モーターを出力126kWのMT30形に変更した出力増強型で、歯車比も1:2.56に変更。1次車2両はクロハ59形・クハ58形と編成を組み52系と共に関西急電に投入された。
1940年に製造された2次車3両はノーシル・ノーヘッダー・ノーリベットと旧型国電としては洗練された美しいフォルムとなったが、1941年に製造された3次車4両は戦時体制の強化による物資不足から再びシル・ヘッダーが露出し側面扉は木製になった。
- モハユニ61形
横須賀線荷物電車増強用に製造された郵便荷物合造車。製造は汽車製造。
車体構造はモハユニ44形同様全位より運転台・荷物室・郵便室・三等客室で、前面非貫通だが半流線型とクハニ67形に近い外観が特徴だった。
計画自体は1939年からあったが後回しにされ、最終的に1943年に3両が製造されたが、太平洋戦争の激化により3両とも電装されず、1944年にモハユニ61001のみ電装された。
- クハ68形
三等制御車。製造は日本車輌、川崎車輛。
1937年から1938年にかけて20両が製造された。
戦時中に全車両がロングシート化されクハ55形に改称、形式消滅したが戦後クロスシートに戻され2代目クハ68形となった。
- クロハ69形
二等・三等合造車。製造は日本車輌、川崎車輛。
1937年に11両が製造された。
日本車輌支店で製造された4両は張り上げ屋根で製造された。
改造形式
- クハ68形(クロハ59形編入車)
京阪神緩行線の二等車が廃止されたことに伴い、全室三等車化された42系クロハ59形のうち16両が3扉化されクハ68形に編入された。
これらの車両も後にロングシート化されクハ55形となった。
- モハ51形(40系編入車)
戦時中の輸送力増強のため、42系を4扉化して40系と台車を交換し城東線・西成線に投入、42系の台車に振り替えた40系を京阪神緩行線に投入する計画が立てられた。
当初はモハ40形・モハ41形全車が対象となったが、戦況の悪化によりモハ40形7両、モハ41形5両にとどまった。
モハ40形は後位側の運転台を撤去したが、運転台機器と前照灯を撤去したのみであった。
- モハ51形(42系編入車)
13両が製造されたモハ42形のうち、3両を3扉片運転台化してモハ51形に編入する計画が立てられた。
実際に改造されたのはモハ42012→モハ51073のみとなった。
この車両は当初モハ42形の外観そのままだったが、1953年の更新修繕で3扉化、後部運転台跡の完全撤去、モーターのMT30形への交換などが実施された。
元々モハ51形を名乗っていながら2扉という異端児だったが、この際にモハ54形に改称されなかったためモハ51形ながらもモーターはモハ54形と同型のものを装備という異端児となった。
- モハ41形
中央線用モハ51形26両は1943年から1944年にかけてセミクロスシートからロングシートに改造した際、歯車比が40系と同じだったことからモハ41形に編入された。
同様の改造は京阪神地区の車両でも行われたが、こちらは歯車比が異なることから原番号のままとされた。
戦災を免れた23両全車が戦後京阪神地区に転属、1951年から1952年にかけてセミクロスシートに復旧、歯車比を1:2.52から1:2.26に改造し原番号に復旧された。
これに合わせてロングシート化されていた京阪神地区のモハ51形・モハ54形もセミクロスシートに復旧されている。
- クハ55形
前述のように戦時中の輸送力増強のため、1943年から1944年にかけてクハ68形36両(クロハ59形編入車含む)とクロハ69形9両がロングシート化され、クハ55形に編入された。
クロハ69形のうちクロハ69001・002は千葉陸軍戦車学校に通う皇族用貴賓車として使用するためクロハのまま残された。
改番はクロハ69形グループ、クロハ59形グループ、クハ68形グループ、クロハ59形→クハ68形グループの順で附番された。
- クハ68形(2代目)
中央線用モハ51形の京阪神地区転属に合わせて、ロングシート化された元クロハ59形・クハ68形・クロハ69形がセミクロスシートに復旧。2代目クハ68形となった。
さらにもともとロングシートで製造されたクハ55形のうち京阪神地区で使用されていた31両もセミクロスシート化され、クハ68形に編入された。
種車の製造時期の都合かクロハ59形改造車から附番され、次いでクハ68形復旧車、クハ55形平妻車、クハ55形半流線型車、サロハ46形→クロハ59形改造車の順に附番された。
- モハ54形100番台
クハ55形のセミクロスシート化に合わせて、同じく京阪神地区で使用されていたモハ60形21両がセミクロスシート化された。
当初はモハ60形のままだったが、1953年の車両称号規定改正に伴いモハ54形に編入され100番台が附番された。
改造時は歯車比が1:2.87と原形のままだったが、高速運転時のモーターの負荷が大きいため1954年の更新修繕でオリジナルのモハ54形と同じ1:2.56に変更された。
- クハユニ56形
飯田線で使用されていた木造の郵便荷物合造車(買収国電)を置換えるため、1951年に40系のクハニ67形4両の荷物室後部に郵便室を設置、客室をセミクロスシート化し便所を設置した車両。
モハユニ61形のうち電装されなかった2両もセミクロスシート化し便所を設置、本形式に編入され10番台が附番された。
クハユニ56001は当初前位側の客用扉が735mmに狭められたが、乗降に不便だったため1100mmに戻された。このほか同車はクハユニ56形では唯一ウィンドウシル・ヘッダーの露出した外観であった。
- モハユニ44形100番台
1両のみ電装されたモハユニ61001は、1953年の車両称号規定改正に伴いモハユニ44形に編入されモハユニ44100となった。同時にパンタグラフを前位に移設している。
これに先立ち1951年に内装がセミクロスシート化されていた。
- クハ68形(旧サロハ46形改造車)
サロハ46形を改造したクロハ59形は、二等室部分がクロハ59形より広く、長らく関西急電に投入されていたため格下げ改造も1943年と遅かった。
これらの車両は戦時中に直接クハ55形に改造され、戦後もロングシートのまま運用されたが、京阪神緩行線のセミクロスシート車増強のため1954年から1955年にかけてセミクロスシートに改造されクハ68形に編入された。
旧クロハ59形改造グループとは運転台が全室式であることと窓配置が異なる。
- モヤ4700形
モハ41010を改造したモハ51078は、1958年に豊川分工場で架線試験車に改造されモヤ4700となった。とはいえ車体も台車も新造されたため、種車の部品が使われたのは一部の電気機器だけである。
1959年の形式称号規定改正により形式名が改められクモヤ93となった。
- クハ55形150番台
1961年に京阪神地区の快速にサロ85形が連結されるようになったため、1962年から1963年にかけてクロハ69形は全車がオールロングシート化されクハ55形150番台となった。
このうち1961年に事故復旧の際に一足先にオールロングシート化された旧クロハ69006→クハ55104→クロハ69010は一度戦時中の車番クハ55104を経てクハ55151となった。
他の車両は旧クロハ69形の新製順に車番が並んでいる。
- クモハ50形・クモハ51形200番台・サハ58形・クハ68形200番台
横須賀線に残存していた42系・32系・52系は、70系との混結運用に対応するために大船工場で3扉化された。
クモハ43形5両がクモハ51形200番台、クモハ53形5両がクモハ50形、クハ47形3両がクハ68形200番台、サハ48形6両がサハ58形となった。
サハ48形は52系の中間車を由来とする車両であり、種車に細かい差異があったため細かい番台区分がある(42系の記事参照)。
ちなみにモハ51073をクモハ50形に編入し、クモハ50051に改番する計画もあったが、最終的に改番に至らず低屋根化されクモハ51830となった。
クハ68形200番台はオリジナルのクハ47形をルーツとする200番台(1両)とサハ48形に運転台を取り付けた車両をルーツとする210番台(2両)に区分されている。
このうちクモハ50006は、出場直後の1963年11月9日に発生した鶴見事故で大破、原形をとどめないほどに粉砕されてしまった。
1961年に盛岡工場でクモハ51085・086の2両を改造した交直流試験車。それぞれクモヤ492・クモヤ493に改称された。
試作型の空気バネ台車(クモヤ492:日立DT91形、クモヤ493:近車DT92形)を装備、クモヤ492が部分低屋根化、高圧機器を設置し前照灯を半埋め込み型とした以外は原形を保っていた。
1964年に架線試験車に改造され、外観が大きく変化した。
- クモハユニ64形
メイン画像の車両。モハユニ61形→クモハユニ44形100番台は大糸線で使用されていたが、これを両運転台化しクモハユニ64形に改称した。
新設された運転台側も非貫通となり、連結器を自動連結器に交換、貨車の牽引や荷物電車としての運用が行われた。
1969年に赤穂線電化開業に合わせて岡山地区に転出、新設運転台側を貫通化し座席をロングシート化した。
1977年には静岡運転所に転属、牽引車代用として使用されたが、1978年には飯田線に転属。52系引退後の飯田線のスター車両として親しまれた。
52系と本形式は飯田線旧型国電の二大巨頭であるが、両車が飯田線で共演したことはなかった。
当初はぶどう色2号のまま運用に就いたが、1981年に横須賀色に塗り替えられた。
- クモハ51形800番台
1966年から1967年、および1970年に身延線に転属したクモハ51形は、狭小限界トンネルを通過するためパンタグラフ周辺の屋根を低くする改造が行われ800番台が附番された。
前位側にパンタグラフのある42系編入車は合わせてパンタグラフを後位側に移設した。
- クハ68形400番台
飯田線に転属したクハ68形は1961年からトイレが設置された。当初は原番号のままだったが、1968年時点でトイレ設置改造を受けた10両が400番台に改番された。
最終的に16両が改造され、飯田線旧型国電では最大勢力となった。
種車はオリジナルのクハ68形だけでなく、クロハ59形やクハ55形をルーツとする平妻車など多岐にわたった。
戦前の動向
1936年にまず中央線急行電車に投入された。現在でこそ201系やE233系など新車が優先的に投入される中央線だが、当時は新車は京浜線が最優先で中央線は他線から転属してきた17m級車体の30系かそれより古い木造車が主力となっていた。
そのため20m級車体・3扉セミクロスシートの本形式の投入は歓迎された。
しかし編成自体は従来車を組み込んだデコボコ編成で、最新のモハ51形のすぐ後ろに木造車サハ25形が連結されるなど現代では考えられない珍編成が走っていた。
続いて1937年に東海道本線京都駅~吹田駅間の電化に合わせて京阪神緩行線に投入された。大部分がこれに合わせて新設された明石電車区に配置されたが、宮原電車区に配置され急行電車に投入された車両や、淀川電車区に配置され城東線・片町線に投入された車両もあった。
1943年には横須賀線にモハユニ61形が導入された。
戦後の動向
戦争末期の空襲などによって11両が戦災廃車となった。私鉄に払い下げられた車両はないが、モハ51形→モハ41形から2両、クハ68形→クハ55形から4両が70系客車に改造された。
特筆すべきは同じく戦災廃車となったモハ51016→モハ41071で、東芝府中工場の牽引車兼試験車「モハ1048(車番は「とうしば」の語呂合わせ)」となった。
また空襲で断線した架線でショートして全焼したクハ68形→クハ55形2両が全焼して廃車となったが、これも70系客車として復旧された。
1951年に京阪神緩行線で二等車が復活するにあたり、1952年から1953年にかけて貴賓車として残されていたクロハ69形2両を京阪神緩行線に呼び戻し、クハ55形に改造された9両をクロハ69形に復旧した。
内装はローズグレー塗りつぶし、えんじ色のモケット、一部車両では試験的に蛍光灯を採用するなど当時の花型である特別二等車に近い意欲的なもので、担当者も「電車の特ロ」と自負するものだった。
ただし特ロの特徴でもあるリクライニングシートは採用しておらず、正真正銘の「電車の特ロ」は151系の登場を待つこととなった。
1952年に明石電車区で焼失したクロハ69003→クハ55097は、前面部分を残して車体を新造して復旧、この際に二等室を整備してクロハ69003に復元された。張り上げ屋根の日本車輌支店製グループ4両(旧クロハ69004~007)を末尾に改番した関係上、新造時の車番に復旧されたのはこの1両だけであった。
1953年の車両称号規定改正に伴いクハ55形のセミクロスシート改造車をクハ68形(2代目)、モハ60形のセミクロスシート改造車をモハ54形100番台に改称、この結果両形式はオリジナルよりも改造編入車の方が多数派となった。
桜木町事故の教訓から1958年に実施された更新修繕でベンチレーターをグローブ形に交換、絶縁強化のため張り上げ屋根を一般の木製屋根に、側面扉を鋼製プレスドアに交換などの改造が行われ、製造時期ごとにあった細かい差異は失われた。
一方で施工時期によって細部の仕様変更があったことで、かえって細部のバラエティは豊かになった。
飯田線で落石事故対策のために導入された250W前照灯が好成績であったことから本形式にも装備が進められ、砲弾型・埋め込み型前照灯の車両も通常の配置になった。
戦後の横須賀線では3扉化されて51系に編入された車両が70系と共に使用されたが、活躍期間は短く113系に置換えられる形で電動車は身延線と飯田線に、クハ68形200番台・210番台は新潟地区に、サハ58形は京阪神地区と岡山地区に転出した。
一方京阪神地区では70系と共に長らく緩行線の主力形式であったが、103系に置換えられ1976年に姿を消した。
クモハ42形改造車のクモハ51073は一時期阪和線で活躍していたが、1970年に身延線に転属した。
1960年代に仙石線に転属した車両は、耐寒・耐雪改造が施されウグイス色単色に塗り替えられ、快速列車に投入された。
新潟地区に移った車両は黄色と赤の新潟色に塗り替えられ、1978年に115系に置換えられるまで活躍した。
晩年
3扉クロスシートで使い勝手のいい車両であったことから、旧型国電としては長期間運用された。
しかし1970年代から置き換えが進められ、1977年に福塩線と仙石線、1981年に大糸線と身延線の車両がそれぞれ廃車となった。
最後に残った飯田線ではクモハ50形1両、クモハ51形2両、クモハ54形13両、クハ68形14両、クハユニ56形6両、クモハユニ64形1両が活躍していたが、1983年に119系に置換えられ全車廃車となった。