概要
国鉄の前身にあたる鉄道省が1929年から1931年にかけて製造・導入した電車の総称。
1926年から1928年にかけて製造された鉄道省初の鋼製電車30系の改良型であり、鉄道省の電車としては初めて丸屋根を採用した。
窓寸法も30系の800mmから870mmに拡大されより開放的な外観となっている。
前面部の屋根と車体の継ぎ目が30系は弧を描いていたのに対し直線型になっている。
そのほかの設計は30系の1928年度製造車と共通であり、魚腹形台枠、TR22(DT11)形台車(動力台車)・TR21形台車(付随台車)、MT15形モーター、CS5形主制御器、自動空気ブレーキを装備。
製造時は車両限界の都合上雨樋を取り付けられなかった。後に車両限界が拡大されたことで1930年度製造車からは取り付けられ、それ以前に製造された車両も30系を含めて取り付けられた。
1931年度製造車からは台枠が溝形台枠に変更され、車体端部の裾形状が変わっている。さらに車体の組み立てに電気溶接を取り入れたためリベットが少なくなっている。
付随台車は1930年度製造車からTR23形に変更された。
形式
基本形式
- モハ31形
制御電動車。川崎車輛・汽車製造・日本車輌・田中車輛の4社で総数104両が製造された。
1929年に製造された車両のうち川崎車輛、汽車製造製のラストナンバーにあたる31020号車と31053号車、日本車輌製の31041号車は試験的に軽金属製扉を採用し、1930年に日本車輌で製造された31058号車は溶接を試用しリベットの少ない外観が特徴だった。
- サロ37形
二等付随車。内装はサロ35形同様戸袋にロングシート、扉間にボックスシートのセミクロスシート。
1929年度製の車両は何故か旧式のTR11形台車を履いていたが、1934年に4両がTR21形に交換され、1931年度製のTR23形と合わせて総数12両の小規模な車両ながらも3種類の台車を有する形式となった。
全車が田中車輛製。37009号車は軽金属製扉を試用している。
- クハ38形
制御付随車。30系はクハは新造されなかったため鉄道省初の鋼製制御付随車である。
川崎車輛・日本車輌で総数19両が製造された。全車がTR23形台車を装備。
- サハ39形
三等付随車。汽車製造・日本車輌・田中車輛で総数29両が製造された。
全車両が1931年度製であることから溝形台枠・TR23形台車・一部溶接車体である。
改造形式
- サハ39形(格下げ改造車)
1937年に日中戦争が勃発し戦時体制に突入したことから、関西急電と横須賀線を除いて省電の二等車連結が中止された。
これに伴いサロ37001・37002は横須賀線に転属したが、残る10両は中央線で三等車代用として用いられていた。
1941年5月から10月にかけてこの10両の格下げ改造が行われ、車体中央に扉を増設、座席をロングシートに交換した。
車番はサハ39形の続番でサハ39030~とされたが、改造時期の都合でサロ37011→サハ39030、サロ37012→サハ39031、サロ37003~→サハ39032~となっている。
外観はほぼサハ39形と同様だが、戸袋の方向やリベットの数、台車の形態などに差異が見られた。
- クモハ31形→クハ38形200番台
1948年から1949年にかけて、モハ31形5両の電装を解除し電装品を大型車の修繕用に供出した。
この5両は当初代用制御車クモハ(「ク」は小書き)として扱われていたが、1949年10月にクハ38形に編入され200番台となった。
台車がTR22(DT11)形のままだったことがオリジナルのクハ38形との相違点。
- モハ34形30番台→モハ12形10番台
1950年11月から1951年3月にかけて、山手線・仙石線の増結用にモハ31形9両を両運転台化した車両。
増設側の運転台は前面貫通型(モハ34039のみ増設側も非貫通化)で全室運転台、前面貫通扉は開き戸となっていた。
仙石線で使用されていたモハ34031は半室が連合軍専用扱いであり「モロハ」表記になっていた。
車両称号規定改正後の1958年に大井工場の入換用および可部線・宇部線・小野田線の単行運転用に追加で9両が改造された。
このうちモハ12019は大井工場の入換車であったため増設運転台に仕切りがなく乗務員室扉も設けられなかった。
追加改造車は増設運転台の前面貫通扉は引戸になっている。
- クモハ12形50番台
1959年に鶴見線の単行運転用にクモハ11形200番台6両を両運転台化した車両。
増設側の運転台は片隅式(ボックス式)で、前面貫通扉は引戸になっている。
おそらく「クモハ12」と聞いてもっとも連想しやすい形態の車両であるが、オリジナルのクモハ12(モハ34形)ではない。
1959年5月にモハ11形2両を改造した日本初の交流用電車。
駆動方式は気動車で多く見られる液体式で、ディーゼルエンジンの代わりに単相交流電動機を搭載していた。
モハ11250は大井工場(車体)・日立製作所(電装品)製。交流電源を変圧器に通して交流電動機を回転させて液体変速機で制御するトルコン式。
モハ11255は近畿車輛(車体)・三菱電機(電装品)製。交流電源を変圧器に通して交流電動機を回転させて液体継手と磁星変速機(電磁歯車)で制御する電磁歯車式。
仙山線に配置され営業運転も行われたが、長大編成に向かない構造で保守にも難点が大きかったことからほとんど研究は放棄されたも同然になっていた。
当初は原番号のまま使用されていたが車両称号規定改正でクモヤ790形に改称され、それぞれクモヤ790-1・クモヤ790-11となった。
- クハニ19形
クハ16形のうち仙石線・飯田線での運用に備えて運転台直後の客室を荷物室として使用していた車両。
本形式ではクハ16005が該当し、1959年の車両称号規定改正でクハニ19021に改称された。
- クモヤ22形
1960年に豊川分工場でクモハ11形2両を改造した貨物電車の試験車両。
新幹線での貨物輸送の実験用として制作され、中央部を無蓋構造とした両運転台の車体を新造。10ftコンテナ3個を搭載可能とした。
前面に黄色と茶色のV字の縞模様が施されていたのが特徴であった。
1961年に試験が終了してからは22000は大船工場の入換機、22001は配給車として用いられていたが、クモヤ22000は1972年に配給車クモヤ22100と取り違えられて廃車となった(後にクモヤ22100は1974年度廃車)。
クモヤ22001は1981年に廃車となった。
- クモル23・24形
1959年から1970年にかけてクモハ11形6両を改造した配給車。
車体の一部を無蓋化してあおり戸を設置した。
両運転台型のクモル23形1両、片運転台型のクモル24形5両が改造された。
- クモエ21形
1967年から1970年にかけてクモハ11形5両を改造した救援車。
両運転台化したうえで車体中央部にホイストと大型の引き戸を設置した。
クモエ21008は1975年に中央西線用に低屋根化改造されクモエ21800に改番された。
戦前の動向
京浜線に集中投入された30系に対し、山手線・中央線にも投入され、中央線に残っていた木造車モハ1形を置換えた。
まだ木造車が多く残っていた両線では利用者から好まれ、我先にと本形式に乗車したとされている。
1937年から1943年まで順次更新修繕が行われ、妻面に窓が増設されたほか屋根上の通風器を3列に増設した。同時期に戦時体制に突入したこともあってモハ31形76両、サハ39形16両と全車には及んでいない。
サロ37形については同時に格下げ改造を行っている。
1937年10月には1940年の東京オリンピックに備えてモハ31形6両、サロ37形1両、サハ39形3両がクリーム色とえび茶色の記念塗装に塗り替えられた。
三鷹電車区に所属していたモハ31085-サハ39004-モハ31086の3両編成は試験的に室内拡声器が設置されたが、架線と誘導電流で雑音が多く実用に耐えられなかったとされる。
戦後の動向
首都圏で運用されていたこともあって30系共々戦災廃車は多く、モハ31形25両、クハ38形7両、サハ39形14両が廃車となった。
これに加えてモハ31形6両、サハ39形2両が事故で廃車となった。
これらの車両は70系客車として復旧されたものや私鉄に払い下げられたものも多い。一例として西武鉄道にはモハ31形13両が払い下げられ同社311系となった。
このほか相模鉄道2000系、東京急行電鉄3600形、東武鉄道450形などに本形式の復旧車が含まれる。
また三井芦別鉄道は本形式の復旧車3両を客車として使用していたとされる。
横須賀線で運用されていたサロ37形は1946年に連合軍専用車に指定され白帯が巻かれた。1949年に指定が解除され二等車に復帰している。
1950年から更新修繕が行われ、シートモケットの整備や撤去された座席の復元、客用扉の鋼製プレスドア化などが行われた。
1954年には桜木町事故の教訓を生かす形で屋根上通風器のグローブ型への交換、貫通路の引戸化、貫通幌の整備、絶縁強化などが行われた。
これに合わせて運転台を備える車両は雨樋の曲線化と幕板への運行番号表示器の設置が行われている。
1953年に車両称号規定が改正され、17m級車体の電車は10~20番台とされたため全車両が以下のように改番された。
- モハ11形
旧モハ31形。59両に200番台が与えられた。
おおよそ元番号の若い順に附番し直されており、モハ11242からが溝形台枠。
- モハ12形
旧モハ34形30番台。9両に10番台が与えられた。
- クハ16形
旧クハ38形。オリジナルの12両に0番台、電装解除車5両に300番台が与えられた。
- サハ17形
旧サハ39形。23両に200番台が与えられた。
格下げ改造車はオリジナル車の続番で17218から振番されている。
- サロ15形
旧サロ37形。2両に0番台が与えられた。
1959年に車両称号規定が改正され、制御電動車に「クモ」の新規号が与えられたことから、モハ11形・モハ12形がそれぞれクモハ12形・クモハ12形に改称された。
1965年にクモハ11形3両が当時直流600V電化だった富山港線に転属するため降圧改造が施された。
晩年
小柄な17m級車体であったことから早々に地方線区への転出が進み、1970年代にはほとんどが姿を消した。
しかし南武支線・鶴見線系統には長らく残存しており、南武支線では30系共々1980年まで現役であった。
特筆すべきは鶴見線大川支線である。
大川支線が分岐する武蔵白石駅は、大川支線ホームが急カーブ上に設置されており、20m級車体の車両ではホームに接触するため17m級車体の本形式でなければ入線できなかった。
そのため国鉄民営化後も同線用にクモハ12052・053が残存し、JR東日本最後の定期運用を持つ旧型国電として活躍したが、老朽化と保守部品の不足により1996年3月に定期運用を離脱した。
武蔵白石駅の大川支線ホームは撤去され、103系が乗り入れられるようになった。
現在もクモハ12052が車籍を残したまま東京総合車両センターに保管されている。
この2両についてはクモハ12の記事も参照。
片運転台車ではクモハ11248が鎌倉総合車両センター深沢地区に保存されていたが、2013年3月に解体された。
またクモハ12054とクモエ21800が佐久間レールパークに保存されていたが、クモエ21800は展示車両入替に伴い1998年頃、クモハ12054はリニア・鉄道館に展示予定のクモヤ90005のモハ63形への部品供出のため2010年頃に解体された。