概要
1963年から1984年まで国鉄通勤形電車の代表的形式として製造された。グループ全体で計3,447両が製造され、改造編入車を含めると実に3,503両にもなる(なお、1970年に事故廃車を出しているので、一度に3503両が在籍したことはない)。今なお世界で一番多く製造された電車車両となっており、JR東日本のE233系でさえ総数3,297両(0番台にグリーン車が連結されると3,403両になる)のため、この記録は今後二度と破られる事は無いだろうと言われている(鉄道車両全般で見れば、ワム80000形の26,605両が最多)。
よく車体の外観の印象が似ているため、「101系の改良形」と位置づけられるが、ハッキリ言ってしまうと103系と101系は「オールロングシートを前提としたカルダン駆動方式の4扉車」であること以外は異質の存在である。
101系は新性能電車形式号トップナンバーが示すように、ただ72系の系譜の延長線上にあるだけではなく、大出力全電動車方式を採用し、高加減速性能と高速特性を両立した総合的な超高性能車を目指したものだったが、当時の逼迫する輸送需要の増大と国鉄の財政悪化によって運用のための地上設備投資を同時並行して行うことができず、真っ先に給電系がパンクして挫折したものである。この為特性だけ見ると101系の発展改良型として最も近いものは0系に始まる新幹線電車群である。
一方103系は尚逼迫する通勤需要を満たすため高速巡航能力についてはある程度切り捨て、山手線を始め、首都圏では中央緩行線、総武本線、常磐線、京浜東北線(東海道・東北線緩行電車)等の東京口、及びその周辺部の付属路線(南武線、鶴見線など)、関西圏では大阪環状線、京阪神緩行線、関西本線大阪口、と言った駅間4km未満の通勤・短距離輸送に特化した形式として開発された。
このことから、系譜的には103系はカルダン駆動方式、SELD電磁直通ブレーキなどを101系から受け継いでいるものの、101系はまったく新世代の電車(新性能電車)の試作車であるのに対し、103系は72系の正統発展型である、と言ったほうが正しい。
勘違いは外観の他にだいたい常磐線のせい。元々緩急分離前に72系の増備車として配置したものが、諸事情から緩急分離後全て快速線に居残り、そこで415系と伍するダイヤを強要されたことが原因である。詳細はまた後述。
後に増備や転用に伴って阪和線や埼京線といった駅間距離の長い路線にも積極的に投入された。一部の車両は105系に改造されたほか、訓練車・入替車、VVVFインバータ試験、DDM試験での使用を目的に改造された車両もある。
また、JR東日本からインドネシア・KRLジャボタベックへ譲渡された編成も存在する。なお、日本国内においては地下鉄乗り入れ以外で、私鉄や第三セクターに譲渡されたり、乗り入れを含めて定期運用されたりした例はない(ただし臨時運用であれば、国鉄時代に蒲田電車区所属の横浜線用編成が熊谷駅から秩父鉄道長瀞駅まで乗り入れた実績がある)。一応JR化後に三岐鉄道や秩父鉄道(急行用として使用を見込んでいたという)が譲受を検討したものの、いずれも老朽化などの要因から成約には至っていない。このほか、東京臨海高速鉄道が東京都市博開催期間の増発用として借り受けることを見込んでいたものの、都市博が中止になったため計画も消滅した。
本来であれば103系が存在するはずもない北海道でも目撃されているが、当地へ渡った車両は衝突実験に使用されたようである。だが実際の使用目的が公にされることはなかったために詳しいことは一切不明である。一応それらしき英語の論文がネットで閲覧できるが…
構造
車体
構体
車体は概ね101系をさらに量産仕様にしたもの、といっていいほど印象が近似する。但し床面構造が変更されたため厚さが60mm薄くなり、床面高さ自体は存置されたので台枠下面がその分上がっている。運転台窓は上下寸法が改められたため101系より細くなったほか、運転士が線路から受ける圧迫感を減らすため若干上に移動した。
床材は101系では芯にコルクを用いたリノール充填がなされていた。これは工程に時間がかかるほか耐久性に難があったため、鋼板の上に床材を貼った簡素な構造に改められた。
101系では後年関西地区の水害で浸水被害を受けた編成にて、床材のコルクが吸水膨張を引き起こし、修理が金額的に困難となったことから60両の大量廃車が出るなど、日常の足の確保という点でも問題があった。よって、こうした問題は一掃された。
ドア
ドアの戸閉機構は西武所沢工場が開発したST式を用いている。1エンジンで駆動するので調整は基本的に不要であるが、2枚とも同時に動くため寒地での半自動扱い(人の手で開け閉て)には2枚動かす必要があるため、動作が重くなりどちらかと言えば不向きである。103系とほぼ同じ車体を用意した72系970番代で115系のドアエンジンを使っているのはこのためである。
最終的にこうした線区での半自動ドアは、20世紀末あたりからは自動ドアに個別の開閉スイッチをつけた押しボタン式に移行することで、ST式のままでの寒地使用の問題点を解消した。
空調
1冷房
登場時点では冷房化は考慮されていない。このため、後に冷房改造を受けたり冷房付きで製造された車両が出たが、天井の見付が乱雑なこと、速成を優先した結果熱貫流率・断熱材量の見直しまでは至っていないことから、冷房運転時の消費電力も多めである。
2暖房
暖房も初期車は1両6kWと小さく、いくらラッシュ時には暖房しないといっても温暖地ですら不足するため、11kWに増強された。仙石線向け転用車や逆に仙石線から編入改造とともに転用された3000番代は仙台地区の気候に対応するためさらに増強されている。
台車・駆動装置
電動台車はDT33形、付随台車にTR201形。後述の主電動機の大直径化に伴い、先代のDT21系列よりも車輪径、軸間距離が拡大している。付随台車については、後にディスクブレーキ化(後述)したTR212形に変更されている。
いずれも枕ばねにはコイルばねを用いている。主にコストカットの目的だが、これが後々「乗り心地」に関する禍根となってくる。
駆動方式は中空軸平行カルダン。歯車比は低速性能を重視して、103系では15:91=1:6.07と高めに設定されている。
主要電装品
主電動機
主電動機については後述。
制御器
0番代の主制御器はCS20。
1)3ノッチでは並列段最終段ではなく弱め界磁第2段まで進段、
2)4ノッチによる弱め界磁最終段が接触器で回路構成する、などCS12とは構造が変えられている。
地下鉄乗り入れ車のうち1000番代と1200番代はバーニア制御を用いた超多段式CS40である。
東西線においてはCS20装備の301系と併結した編成も存在したが、額面上の加速度は同じとは言えステップアップしていくタイミングが全て異なるため衝撃を伴いあまり望ましい使い方ではなかった。
筑肥線向け1500番代がCS20なのは国鉄側の線区が完全に郊外電車で、製造・運用コストともチョッパ制御・バーニア制御とも割に合わないため。
抵抗器
地上線用の車両は全て強制通風式。一方地下鉄乗り入れ用はトンネル内への熱風撒き散らしとブロア騒音をへらすため全て自然通風式。但し十分な能力とは言い難かった。
ブレーキ
電気ブレーキは高減速運転に必須なため強化されている。
通常カルダン駆動電車では最高速度の半分強に定格速度を設定し、定格端子電圧の倍程度の耐圧で設計される。しかし103系の場合積極的に低い定格速度を活用して強い電気ブレーキをかけるため、耐圧が900Vまで引き上げられた。
この設計から、ブレーキ初速が95km/hまでは過電圧が発生しないため、減圧継電器を省略していた(のちの高速運転で禍根となる。ブレーキ時衝撃が度々発生した)。
同様に付随車の機械ブレーキも踏面ブレーキながらレジン制輪子を用いたり後年ディスクブレーキを用いるなど、上述の通り減速度を高めにとることは留意されている。
後年の地下鉄直通車では一時傍系301系(アルミ車体)が製作されたものの、コスト面の問題から103系に戻っている。乗り入れ協定に基づく高加速を維持するほか、地下鉄線内で全車不動となった故障車編成を押し上げる必要から6M1Tまたは8M2Tの高いM車比率をとったほか、バーニア制御による超多段制御を用いている。これは、通常力行20~25段程度の制御器を50段前後まで上げる(試作車910番台で55段)仕組みであるが、流石に営団3000系のような77段までは採用していない。
但し発電ブレーキのみの抵抗制御車であり、特に千代田線では乗り入れ相手が電機子チョッパ)営団6000系)・界磁チョッパ(小田急9000形)に比べ、ただ電気を消費するのみで回生しないことから電気使用量・発熱量が大きく、車両使用料に比率をかけることで調整された。しかし、問題は発電ブレーキの際に抵抗器から出る熱であった。制御器の項でも少し触れたが、実は力行時は、モーターと単純抵抗をつないだ際の力率の関係もあって抵抗器はそれほど発熱していない(≒思われてるほど電力を消費していない)。ところが、(単純な)発電ブレーキの場合は制動力のために発電した大電力を全て抵抗器で消費させるため、抵抗器の発熱量が尋常ではなくなる。
千代田線以前の東京の地下鉄は全て東西線のごく一部を除き開削工法で掘られ、浅い区間の複線トンネルであり、気密性も高くなかったため、抵抗制御でも問題はなかった。しかし、一部の駅を除き全面的にシールド工法を採用した千代田線は車両限界ギリギリの単線トンネル×2という配線・構造になったことから、発電ブレーキの熱がうまく発散されず、結果床板を隔てて車内にまで侵入した。このため千代田線の103系は「鉄板焼き電車」「走る電熱器」などと言われ、特に夏場は鉄道ファンでなくとも国鉄車が来たら見送って営団車か小田急車(界磁チョッパ制御も全界磁制御段は抵抗制御だが、何より回生ブレーキを使えるためこの点での発熱は大幅に抑えられる)に乗ったと言う。
国鉄末期に界磁添加励磁制御が実用化され、これを活用した営団5000系の冷房改造が営団地下鉄では実施されているが、国鉄では冷房と電機子チョッパを両方装備した203系への置き換えでなされたため103系について5000系レベルへの改良は一切なされていない。
集電装置
当時の国鉄標準型・PS16が基本である。地下鉄向けのみ剛体架線に対応するため、低離線率のPS21が装備されたが、これもPS16ベースのものである。
101系と異なり主制御器装備車(奇数形式)にパンタグラフが載る。
101系や201系のような中央東線直通はなされなかったため、小断面トンネルに対応したPS23・24の装備や、屋根を切り下げた車両は作られていない。
主電動機と103系の運用について
電動機は低速域のトルクを重視した結果近郊型以上の標準仕様MT46・54とは特性の異なるMT55を用いることとなった。これ以前の私鉄・国鉄で意図された高加速は電力設備の大幅増強が必要な割に運転本数の増加に結びつかないことから放棄された。通勤電車の高密度運転の条件では、ブレーキ性能を引き上げて高減速運転するほうが効果が大きいと判明したため、それを実現する車輌が求められた
電力設備が不足する状況下では、101系の当初計画(全電動車)の加速度3.2km/h/s・減速度4.0km/h/sという数値は、6M4Tで2.0km/h/sと3.0km/h/sに大幅後退した。
そのため必要最低限の加速性能、MT同数の編成で起動加速度2.0km/h/sを確保した上で減速度を3.5km/h/sとることが主眼に置かれている。
モーター外形が大きくなり、MT55は直径が680mmとかなり大振りになった(MT46は590mm)。
この結果860mm動輪では装荷できず910mm径となり、DT21をベースにした動力台車も軸距の拡大が必要になり、200mm延長したDT33(試作車は791系のものを金属バネ化したDT26C)へと変更になった。
定格回転数は85%弱め界磁で1350rpmと、吊り掛け駆動方式の高回転タイプ(私鉄のMT40同等品TDK544など)と大差ない数字である。
直流直巻補極つき・補償巻線なし外扇形自己通風電動機であることは従来どおりである。ただし、従来型のカルダン駆動電車の主電動機とは異系統である。
また103系と同じ用途に供される補償巻線つき私鉄車と比べると確かにモーターの製造単価は下がりうるが、弱め界磁率の設定が最小35%にとどまり私鉄車のような25%、15%と言った、より高回転仕様にはなりえない。また国鉄のMT54の系譜に当たる
モーター・冷却ファンの外径が大きいこと、ファンの形状が適切でないことから高速運転中のモーター音が大きく(特にISOねじへ移行したMT55A以降)※、住宅至近距離で100km/h近い高速運転する埼京線や現在の関西各線では、後述の通り騒音公害源になっている。
※勿論ネジそのものが原因なのではなく、寸法が若干変わっったネジのために周囲をアレンジしたり、取付ミスを防ぐための改設計のうちの何かがファンの騒音に悪影響したものである。
ネジ径3mm程度以下のネジは無理やりねじってしまえばピッチが違っていても入ってしまうので、誤取り付け防止には設計を変えるしかない。
国鉄のMT55以外の量産鉄道用主電動機
MT46とその発展型であるMT54や、ここから派生した各種電車用主電動機では、機関車用と試作レベル(101系回生試作車のMT50など)を除いて補償巻線は採用しなかった。しかし、旧形の80系や70系、戦前の関西国電の実績、そして目の前の小田急SE車将来の長距離特急・急行運転を考慮して過電流マージンを大きめにとってあり、実際の運用で短時間の過回転に耐えられるように設計された。この為有効な弱メ界磁率の下限が35%程度でも実際により高速回転になるようにされていた。ただし、全界磁からの有効な加速に使える“余力の範囲”はどうしても補償巻線付主電動機よりも狭くなるが、国鉄ではこれらを歯車比で最高速度別に分類した。すなわち、最高速度が、
- 100km/hの近郊形は4.82
- 110km/hの急行形は4.21
- 120km/hの特急形は3.50
- ただし、例外もあり、
- 101系の5.60は全電動車乃至最悪でもMT比4:1程度を維持できると見込んだ、試作・試行的歯車比である。後の419系・715系での採用はたまたま廃品利用で合致した為使われた。
- 201系も5.60を採用しているが、同系列のMT60は電機子チョッパ専用で、回転特性がまた異なる。
- MT54登場前の特急形電車のうち、山岳線向けの161系は歯車比4.21の仕様とした。
- 主制御器がCS12とその発展型であるCS15から、互換性は残しつつも新設計としたCS43車(117系、185系)は、4.82を採用しているが最高速度は110km/hとなっている。
- また110km/h車までと120km/h車では動力性能だけではなくブレーキの能力が異なる(制動600m制限)。当時のSELD電磁直通ブレーキ車のうち120km/h車のみが増圧ブレーキを装備し、高速からの非常減速度を確保していた。
この為MT46・MT54は本来であれば製造コストが高くなりがちな主電動機であるが、国鉄で大量採用したため製造原価を一気に下げることができた。後に弱メ界磁を使わずとも理想的な電圧制御や定電圧実効電流制御(鉄道業界ではチョッパと呼ぶが、通常の半導体電力機器ではスイッチングレギュレーターと呼ぶのが一般的)が行える交流電車や、界磁添加励磁制御を新製時から採用するMT61及びその1C4M制御用のMT63主電動機搭載車では、1段低めの歯車比(713系、205系が6.07、211系、213系が5.19)となっているが、これもMT61が当初交流電車用のモーターとして(母線電圧1500Vに拘る必要がないため)当初端子電圧470Vで150kWとして設計されたためさらに過電流に余裕があることからである。
そして国鉄の「補償巻線付主電動機による極端な弱メ界磁制御段を持つ車両を長距離列車に使用するのは危険」という考え方は電気機関車で自ら証明してしまう。牽引力はあるが全界磁定格速度が35km/hと旧型のEF15形程度しかないEF60形に特急旅客列車の牽引(ブルートレイン)をやらせたところ、見事に主電動機の焼付きやフラッシュオーバなどを多発させて定時運転不可能となった。後継のEF65形では45km/h程度に向上しているが、東京~下関間のロングラン運用を強いられたEF65形500番代P形は、同形式の1000番代へと置き換えられ、貨物用に回されてから501号機を除いて貨物会社へ継承されたのち、民営化後早々に廃車されている。これらの機関車の補完用としては依然EF58形が留まり、国鉄末期まで定期運用され、JRには動態保存車として継承されたものの89号機、122号機、157号機などはしばしばEF64形やEF65形の代走を務めるなど相対的に長期間活躍した。
新性能電気機関車では、ようやくEF66形になってEF58を上回る高速性能となっており、EF66形もまだ多数が健在で、東海道・山陽ブルトレ牽引経験車も一部がJR西日本からJR貨物に譲渡され2016年まで健在だった。
MT46・MT54の発展形を採用した私鉄
下記に示す通り、私鉄では補償巻線付主電動機による大電流高速回転運転が主流となるが、国鉄並みに累積走行距離が伸びがちな東武鉄道や、当初は大手の中では戦後だいぶ遅くまで国鉄からの旧形車や廃車発生品の譲り受けを受けていたという理由から、後に西武秩父線開業により極端な弱メ界磁運転ではダイヤ維持ができなくなった西武鉄道などでは、MT54の日立社内形式であるHS-836-Frbの増強形が使用された。
西武はMT54相当品を搭載し“駆動方式がカルダン式になっただけの旧形”である601系・701系・801系を新製・運用した後、101系ではこれを150kWに増強し歯車比を5.73とした。皮肉なことにこれは大阪鉄道管理局が国鉄中央に上奏したが認められず103系への一本化を迫らられた“仮称105系”の性能に近いものだった。101系は3扉だったが、後に101系の車体を載せ替えた4扉の9000系が改造名義で製造されたため、これが“仮称105系”を具現化した存在になった。
東武は8000系が「私鉄の103系」という二つ名とは裏腹に、103系どころか101系よりもさらにハイギアードの5.31とし、起動加速度は定格(MT比1:1)で2.33km/h/s(冷房車。非冷房時代は2.5)と、やや高速向けのセッティングになっている。これは、駅間が長くなる伊勢崎線・日光線において、デラックスロマンスカー1720系から逃げ切るためのものである。そのかわり55段の力行段を持ち、起動加速度こそ低いが、中間加速域は103系を上回る。その代償として発電ブレーキがないため、減速については国鉄の客車や気動車同様、レジンシューに増圧ブレーキで対応している。
私鉄の高速主電動機
私鉄、分けても京浜急行電鉄のような標準軌路線では広いバックゲージから主電動機の容量を大きく取ることができ、この為高速主電動機でも充分な低速トルクを確保できた。また、これらの路線は比較的平坦な路線で駅間も短く、また線形も悪い(区間が存在する)会社が多かったため、高速運転で弱メ界磁制御を行うにしてもそれほど故障発生リスクを考慮しなくてよかった。また、発足以来の慢性的借金体質地獄に苦しむ国鉄と異なり、大手私鉄の場合は主電動機の予備を充分確保することが可能だった。この為、補償巻線付直巻主電動機を用い、25%、15%といったさらなる弱メ界磁での運用が可能になった。ただ、ここで勘違いのないように言っておくと、こうした極端な弱メ界磁制御では主電動機のトルクに対して電流量が大きくなるため、決して省エネとは言えない。国鉄に先んじて回生車の導入が一般化したのもこれが理由の一端である。この為、成田空港開業前は経営基盤が弱く給電能力も国鉄並に弱かった京成電鉄では、長くに渡って国鉄MT54に近い性質の主電動機を採用した他、京急車の乗り入れに際してはに限流値設定を今尚行っている
さらに私鉄では、鉄道車両用としては過渡特性が悪いとされる複巻電動機を使った界磁チョッパ制御も積極的に採用された。これも過渡特性が問題となる抵抗制御段が低速のうちに短時間で終わる私鉄の運行形態だからこそ採用可能となったものである。
なお、京成とは違い自社でつくったくせに自社路線のブレーカーふっとばした三河の赤いあんちくしょうのことは忘れろ。
これらの私鉄の高性能形式が運用できるような給電能力の増強を行う能力が国鉄にあるのであれば、103系は最初から開発されなかった。101系を全電動車ないしMT比4:1で運用すれば済む話だからである。
結局、MT55は定格回転数が低すぎて高速運転には向かない主電動機であり、103系の性能曲線上は101系6M4Tを上回るものであっても、その代償として長時間に渡る弱メ界磁制御により、沿線に騒音を振りまき、国鉄内部では検車陣に負担を強いる結果となり、現場の人間から後々悪評がつくことになったのである。
総括
上述の諸々の要素から、数々の悪評、レッテルを貼られてしまった103系だが、これは、103形が悪いわけではない。103系は1963年当時、長期間に渡って量産することが前提の大都市圏用通勤形にあっては、回生ブレーキがないなど先進的とは言えない面があるものの、こと駅間が短い路線用としては充分以上の高性能であると言えた。
問題は、駅間距離の長い常磐快速線や京阪神緩行線、阪和線にまで投入してしまったことと、103系が理想的な性能を出せた山手線以外において101系からの一斉置き換えができず、車体はよく似ていても得手不得手がガラリと違う車両の置き換えが長期間かけての五月雨式になったことである。
従来の103系は批判論者が言う「103系は山手線専用」は明確に間違いだが、103系擁護論者(101系否定論者が多いので、Wikipediaにこういう記述をするとすぐ消される)の言う「どんな路線にも対応」というのもまた明確に誤りである。
駅間距離の長い路線への投入も当初から想定はされていたものの、当初は「何らかの手直しが必要」と認識されていた。実際に京浜東北線への投入前には、ギヤ比や電動機(MT55→MT54)の変更なども考慮されたものの、大きなメリットが見いだせず、一方で消費電力などで103系に優位性があり、「わざわざ新形式車を作るまでもない」との結論にいたった。たまたま「なんとかなった」のであって、最初から「万能選手」として設計されていたわけではない。
103系の悪評の原因は本来住み分けるべき速度レンジの路線に投入されてしまったということが全てと言っていいだろう。
決して101系と103系、そのハード単体では「どちらが優れている」と言う話ではないのである。国鉄全体、トータルでの問題であった。
幻に終わった東京鉄道管理局内の101系松戸電車区集結計画
国鉄でもこの問題はあるていてど把握しており、当座の改善策として中央・総武緩行線、南武線、鶴見線の101系を常磐快速線の103系と入れ替える計画があった(性能特性を403系/415系とそろえる為)。しかしこの計画は実現しなかった。
既にMT46世代が引退期に入っていたこともあるが、出力の面では403/415系と比較した場合、1985年の筑波科学博開催に合わせた15連組成のためにサハ411が製造されるまで一貫して2M2T固定を適時つなげる運用だった(このため“サハ401形”は存在せず、サハ411-1は1984年新製である)ため、415系6M6Tと101系6M4Tでは共に1両あたり240kWとなる。また403/415系に合わせて12連にする場合101系はMT比1:1での運用は禁止されているため必然的に8M4Tとなる。103系の高速特性の問題はカタログ上の性能曲線ではなくMT55の定格回転数がMT46・MT54に比べて20~30%ほど低いために高速域で伸びないこと(近郊形の113系どころか153系、485系や583系、はてはキハ80系にEF58形牽引の客車列車まで走行する大阪環状線や関西本線で比較的後年まで101系が残ったのもこのためである)なので101系と入れ替えれば若干ローギアードではあるものの多少なりとも改善される。もちろん、抜本的な措置が取れればそれに越したことはないが、当時の国鉄にはそれは「200%無理な注文」であり次善策としてまだしも現実的なものであった。
また、103系にとっても北千住~取手間において駅間が天王台~取手間(当初は天王台駅は快速線は通過する予定だった)を除き概ね4kmを超える常磐線で、弱メ界磁多用の際どい運転で415系どころかさらに高速な453系・485系(※)から逃げまわるよりも、駅間の短い南武線や鶴見線、中央・総武緩行線の方が適所である。
※:更に当初は平駅(現在のいわき駅)以北が非電化だったことや、水戸線・水郡線、それに私鉄の関東鉄道常総線・筑波線と言った非電化路線への直通列車が存在したことから、キハ58系急行もこれに加わった。一般に気動車は性能が低いと思われがちだが、起動から極低速までは直巻時代の電車より加速力が強い。これは、電気動力車が原則歯車比固定であるのに対して、気動車には変速機があるため、最も負荷のかかる起動時により適した減速比にでき、さらに日本では液体式が主流だったことからトルクコンバータのトルク増幅効果があったためである。気動車が電車に比して不足したのは高速性能の方で、これは主に多段変速機の開発に失敗したこと(+冷房化による重量増と編成上の成約)による。
この計画が実現しなかった理由は、他にも中央快速線以外の101系の多くが非冷房だったこと(415系は全車新製冷房車)などもあるが、最大の理由は国鉄末期の混乱の中、東京鉄道管理局の分割から分割民営化へと至る混乱期にあったことだと思われる(同様の理由で小田急が国鉄乗り入れ用のSE車の置き換えができないでいた)。
関西地区での実情
関西では京阪神緩行線(東海道本線・山陽本線の京都~大阪~神戸間)や、阪和線の快速運用など、駅間距離が長く、高速運転の多い路線にも投入されている。特に京阪神緩行線では、当初は高速向けの車両(上述の「仮称105系」)を要求していたものの、本社からは却下され、一方で、快速が一足先に113系で統一・新性能化を果たして普通電車との性能差が歴然となり、大阪万博を間近に控えて輸送力強化も喫緊の課題となっていたため、万博直前の1969年に103系が投入された。この頃には運用・ダイヤの見直し(快速電車の列車線への振り替えなど)や、常磐線、阪和線での実績から、「103系でもいける」と判断されていた。
「理想の電車」ではなかったものの、それまでの旧性能通勤電車と比べれば性能は雲泥の差であり、投入線区の輸送力増強には大いに貢献した。とはいえ、関西圏では103系の最高運転速度100km/hぎりぎりという高速運転もざらであり、順次対策はとられたものの、やはり「無理がある」という認識だったようだ。
特に他の私鉄路線との競争も激しい京阪神緩行線では、接客設備の向上(冷房車を地方・近郊線区に「突き出し」て、トータルの冷房化率を引き上げるという点も含めて)も念頭に、国鉄時代から201系、205系といった新形式車も優先して投入されていたが、結局、103系が肩の荷を下ろすのは、207系の増備が進んだJR時代となった。
車体塗装
101系に引き続きラインカラーが採用されたため各路線毎にカラフルに塗り分けされた。なお、首都圏では全てステンレス製車両に世代交代が完了しているが、この基本カラーは現在でも帯色として受け継がれている。
- 山手線、埼京線、横浜線、川越線色(ウグイス)
- 中央・総武緩行線、南武線、鶴見線色(カナリア)
- 中央線、武蔵野線色(オレンジバーミリオン)
- 京浜東北線、京葉線色(水色(スカイブルー))
- 常磐線色(エメラルドグリーン)
この5色の基本カラー全てが同一系列内で揃った通勤形電車は、実は国鉄・JR通じてこの103系しか無い。
実はもうちょっとでこのタイトルを失うところだった。というのも、103系にあって101系にないのは常磐線色だけなのだが、上記の通り101系松戸電車区集結計画があったためである。
なお、JRカラーについては当然、103系の様々な地域カラーやラッピングなどは101系は行っていないが、一方で101系の方からも唯一、南武線浜川崎支線色を直接205系にバトンタッチしたため、103系に塗られたことはない。
関西地区でも大阪環状線と片町線(学研都市線)がオレンジバーミリオン、関西本線(大和路線)がウグイス、京阪神緩行線と阪和線がスカイブルー、福知山線(JR宝塚線)がカナリアを踏襲した。
東海地区(中央西線)や仙台(仙石線)では他地区からの転用車のみであり、いずれもスカイブルーとなった。また九州(筑肥線)の1500番代はスカイブルーに白帯を巻いたものである。
民営化後JR東海・JR九州では独自色に塗られ、仙石線でも同様の傾向が見られたものの、首都圏・近畿圏ではモノトーンカラーが多くの車両で最後まで使用されている。播但線及び加古川線では新しい一色塗り(ワインレッド及びエメラルドグリーン)が用いられたが、扉及び運転台後ろにダークグレーのアクセントが入る。近畿圏のアーバンネットワークで使用される車両は、201系や205系などと共にラインカラーへと変更する計画が存在したが、実施されたことはない。また、JR東日本の首都圏でも京葉線で使用するものを、205系同様のワインレッドへ変更する計画があったものの、試し塗りの段階で没になってしまったといわれている。
なお、大和路線(および奈良線)では、沿線の一部が緑の多い郊外に及ぶことから、保線作業員の確認を容易にするためにウグイス色に加え前面のみに警戒色の黄色の帯を塗っていた。
この初代警戒色は必要性が薄くなったとして1990年頃に廃止されたものの、再度必要性が訴えられ1996年頃より新たに白い帯がJRマークを挟む形で前面のみ塗色された。この塗色は京阪神緩行線から転属し、同地区およびおおさか東線で活躍する201系でも踏襲されたが、奈良線で後継となった205系には引き継がれなかった。
なお、奈良地区で白帯が巻かれ出した頃、同様の前面白帯は阪和線の一部車両でも同様に巻かれた。しかしスカイブルーの阪和線車にこの帯が塗装された理由は全く異なっており、紀勢本線(きのくに線)乗り入れ可能な保安装置を備えた編成を他の編成と区別するためのものである。
この措置は全ての103系にきのくに線対応が完了したためすぐに解消され、白帯スカイブルーの塗装は短期間で幻となった。余談だが、この頃はこの白帯103系による紀伊田辺直通の快速も存在した。ロングシート・トイレ無しである…。
1000・1200番代
1000番代・1200番代は地下鉄乗り入れ用である。急こう配の存在する地下線内の条件に合わせ編成組成は千代田線用1000番代は8M2T、東西線用1200番代は6M1Tという高出力編成とされ、トンネル側面に余裕のないため、火災時脱出用としての前面扉を設置。
塗装はライトグレーベースに千代田線乗り入れ用1000番代は緑帯、東西線乗り入れ用1200番代はカナリアイエロー帯としたもので、301系の余りの初期導入コストに1970年以降の乗り入れ車は103系ベースとすることとなったのだが、電力消費の多さ、抵抗制御ゆえの排熱量の多さ、非冷房などから乗り入れ各社の車輌と比べ見劣りするものであった(但し当時の千代田線内はトンネル冷房を用いる代わり車両の冷房はいずれも停止されていた。排熱を抑制したいためである。またトンネル建設費削減のため単線並列トンネルで作られたため、東西線に比べ排熱が滞留しやすかった)。
そのため、製造12年の1982年で千代田線用の1000番代は203系へと置き換えられ、冷房化の上でエメラルドグリーン単色塗りとなり地上線へ転用のほか、一部は105系へと改造され西日本各地のローカルに流れて行った。残存車も1986年までに置き換えられ地上用に転用された。大半はJR移行後はAU75冷房化・更新工事を施工の上運用されたが一部施工遅れ車にAU712での冷房車が存在した。
一方1200番代は、冷房化後も継続使用され、東中野事故で205系が緩行線に導入された事を期に誤乗防止として東西線ラインカラーに近い青22号帯に変更。編成組成も組み換えで8M2Tへと改められた(不足分のT車は地上線車の改造で賄われ、トップナンバー3両は余剰となり常磐線へと転属後、早期に廃車となっている)。こちらは更新工事に加えてAU712形クーラーが装備されており、夏季は効きの悪さが体感できた。
地下鉄トンネル内での排熱量抑制という観点からは営団5000系のような界磁添加励磁制御への改造が望ましかったが、冷房改造コストを最小限にするためこのような改造はなされていない。
組成変更で4M1Tの5両1本が予備車とされ、105系改造車同様、前面扉を貫通扉として利用できるように改造、他編成の検修時には5両単位で切り離し当編成と混組成するやり方で運用された(301系と共通の予備車とされたため、先述のとおり混成時に起動したときの衝動という問題が残った)。
需給状態の関係から常磐線から1000番代10連1本が保安機器を積み替え、転属して混用されている。
東西線では2003年まで運用された。
3000番代
仙石線に残存していた旧型国電の接客設備改良を目的に、1975年に72系の台枠や機器類を流用し、103系と同じ車体を載せた72系970番代を、1985年に103系と同じ機器類に交換した車両。
1984年に仙石線の新性能化が終了し余剰となっていたが、車体の経年は10年であったことから、電化開業される川越線向けに当初3両編成5本の15両が改造された。車体塗装は仙石線時代の青22号から、当時の山手線と同じウグイス色に変更された(これは埼京線用の103系と同じである)。
機器類は工場の予備品の見直しで発生した103系の予備品を利用し、台車は電動車は在来車と同じDT33を使用するが、T車は101系の廃車発生品であるDT21Tを流用する。
台枠が72系の流用であることから車体裾部分が若干広く、台車中心間隔も在来車より狭い72系の寸法のままである。客用扉の半自動ドア機構は閑散線区であることからそのまま残され、大型の戸閉装置カバーが目立っていた(機構使用時は手動閉開となり、開け閉めがかなり重かった)。
1986年になってから、残存していたモハ72971~5両を活用するため、電装解除のうえDT21T台車に履き替え、サハ103-3001~が続いて青梅線に登場した。制御回路変更以外は最低限で済ませられ、当初は半自動回路を使用停止しただけで、パンタ台や配管台座はそのまま、車内のモーター点検蓋も古めかしい72系のデザインのものが残り異彩を放っていた。
当初は川越~高麗川間を中心に、閑散時間帯は大宮~川越間の運用もあったが、川越線の利用人口の増加とともに大宮までの運用は消滅した
1989年からAU712クーラーを使い冷房化。これは青梅線用のサハにもほぼ同時に施工されたが、サハは青梅線運用車からクモハ103がいなくなるにつれ保留車となり、長期間豊田電車区の片隅で保管されることに。
当初は3両編成だったが、1996年八高線の八王子~高麗川間の一部電化に合わせて導入された209系や103系3500番代と合わせるため、サハを再整備(半自動ドアも再整備)し4両に増結されることとなった。サハは保管期間が長かったことからやや大規模な修繕が行われ、目立っていた旧72系由来の床下点検蓋は床材張り直しとともに塞がれ、パンタ台や配管台座はランボードをのこし撤去、痛みの目立った屋根材は更新車に近い塗屋根とされた。組み込み当初は在来の3両と検査周期の違いからウグイス色の色相違いが若干目立っていた。
老朽化から205系3000番代に置き換えられる2005年まで、3500番代共々活躍した。
八高・川越線で共通運用された3500番代は、在来車の後期製造車をベースに、半自動ドア機構を改造追加したものである。技術の進歩からドアはボタン閉開式とされ室内に戸閉装置のカバーが目立つことはなくなった。なお、JR西日本の播但線用に存在する3500番代とは、ローカル線区用という改造の趣旨は似ているが、外観はN40更新を受けおよびMc+M'c2連で運用される全くの別物であり、番号も重複しない。
現状(2023年3月現在)
JR西日本
JR西日本では発足時には894両が承継され、延命工事や体質改善工事で車両の寿命を延ばしてきたが、2000年代後半より急速に淘汰が進み、2023年3月地点で残るのは僅か34両である。
かつては山陽地区にも進出していたが、105系への改造車を含めて既に全廃。2005年に起きた福知山線の脱線事故の影響で起きた一時的な車両不足からJR東日本より103系を購入し、運用したがこれも短期間で廃車された。
2017年に大阪環状線、阪和線(本線)から、2018年に関西本線(大和路線)・おおさか東線、阪和線羽衣支線から撤退。
奈良線では阪和線で余剰となった205系の転入により淘汰が進むも、223系Aシート改造による車両不足を補うため、221系4両2編成が網干本所へ転属した事で2編成残存していたが、2022年ダイヤ改正で事前予告なしに定期運用を終えた。奈良線複線化の際に国から103系等に代わる低騒音車両の導入と名指しで置き換えが求められていたこともある。
ちなみに、和歌山線・桜井線に投入した105系への改造車は227系1000番代に置き換えられ、2019年9月30日をもって運用を終了した。
2023年3月には和田岬線からも撤退。1か月前にその旨が告知され、イベントも催された。同線の103系は比較的原型に近く、短距離ながらも6両のスカイブルーが走行する光景は貴重であったために高い人気を誇っていた。
それ以降は加古川線(2両8編成)、播但線(2両9編成)において運用されている。いずれもオールM編成であり、導入に際して種車への先頭化改造やN40更新、ワンマン対応やトイレの設置、車体に路線オリジナルカラーを纏うなど、他の103系とは別次元の改造がされているのが特徴。
3550番台の105系みたいな顔や、3500番台が轟音を響かせながら播但線の単線区間を時速100kmでかっ飛ばす姿は一見の価値あり。
ただし播但線の車両は車齢50年に迫る車両もあり、近年は故障続発により223系などによる代走が続いているため、公式発表こそされていないものの奈良線にいた編成のようにこっそり引退するという可能性もなくはない。
JR九州
JR九州では分割民営化時に103系1500番台が計54両継承された(一部中間車は先頭車に改造)。1983年3月の筑肥線電化にあわせて製造されたグループであり、103系を名乗っているが、実質201系・203系と同時期に登場した比較的新しい車両である。
305系の投入によって2015年3月に地下鉄直通運用から撤退。現在は3両5編成が末端部で活躍するのみ。こちらも2023年にひとつの目安である製造後40年を迎える事もあり、今後の動向に注目したい。
運用終了
JR東海
JR東海では発足時は7+3両編成7本計70両が承継され、スカイブルー(のちに東海色)をまとい中央本線(中央西線)名古屋口や関西本線で運用されていたが313系の投入により1999年までに定期運用を離脱し、2001年に全車廃車になった。一部車両はVVVF試験に使用されている。JR東海では唯一にして現状で最後の4扉車であった。
唯一、クモハ103-18が美濃太田車両区に保存(放置)されているが状態は劣悪。一応まだ残っているようだ。
JR東日本
JR東日本では発足時には首都圏を中心に2,418両が承継され、山手線・京浜東北線・埼京線等各線で運用されていたが、205系、さらにJR東日本で設計・新製した新型車両への置換が急速に進められ、2006年に常磐線から撤退したことにより首都圏から103系が消滅。2006年に仙石線で高架化工事のため所要編成が増えることから1編成が復活し、2007年から朝ラッシュ時限定で運用に就いていたが、老朽化と205系への置き換えにより2009年10月21日を最後に撤退。これによりJR東日本管内から103系は完全に消滅した。これ以外にも、103系を改造した105系も仙石線で使用されていたが、1998年に103系に置き換えられ廃車となったが、その後は訓練車として2008年まで使用された。
埼京線は東北新幹線の横付けで新線が敷設された区間を中心に103系による騒音公害が多発。当初「騒音の元になる」とされた新幹線が110km/h程度ではほぼ無音であるのに対し、あまりにやかましいため205系(かつモーターを内扇形にした)車両の投入契機となった。
これは103系のMT55形モーターがトルクを得るため直径が元から大きく採られており(それゆえDT33は吊掛電車なみの910mm動輪となる)、それが最高許容回転数の4400rpm近くで回って冷却ファンの外端の速度が高すぎるものと推測される(動輪径が同じ小田急2400形(モーター径630mm)とモーターも同寸だと仮定し、モーター外径と同じサイズのファンが4400回転/分すると先端の速度は520km/h程度になる。多少小径としても400km/h台はあ)。さらに主抵抗器も強制通風が基本であり、到るところで甲高いファンの回転音をばらまいていると言って過言ではない。MT61は更にモーター回転数が上がってはいるが、860mm動輪で足りる程度に直径も小さいほか主抵抗器も小型で冷却ファンを持たず(界磁添加励磁制御のため)、風切り音が抑えられるのであろう。新幹線や北海道向け在来線電車の様に強制冷却式にし、主電動機からファンを撤去することが抜本的解決策だが、205系等を含めそこまではなされなかった(現在の誘導モーター車もすべて自己通風形である)。
後に上述の通りJR西日本区間においても、公的機関から「103系」と名指しで騒音源呼ばわりされるほど、撒き散らしてきた騒音は大きい。
注目すべき車両達
(2020年7月現在)
クハ103-1
阪和線において長期にわたり運用されていた103系の量産車トップナンバー。なぜか廃車されない事実上の動態保存車だったが、2011年3月10日の夜に廃車回送された。1964年新製以来、実に46年半稼働したことになる。阪和線に転属してから廃車まで、クハ103-2と国鉄時代の京浜東北線以来のコンビを組んでいた。吹田総合車両所に保管されていたが、かつてのオレンジバーミリオンへと装いを改め、2015年3月に梅小路へと回送された。2016年4月29日に開館した京都鉄道博物館で保存展示されている。
展示の際、阪和線仕様のまま塗装をオレンジバーミリオンに塗り替えられた。当初は前面の車番とJRマークが省かれた状態で展示されていたが、2021年に森ノ宮電車区所属時代の塗装へお色直しされた。また、前面方向幕も阪和線仕様の文字が小さい幕から、大阪環状線仕様の文字が大きい幕に交換された。
クハ103-713
鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で駅業務体験用として運転台側ほぼ半分が使用されている。2016年まではまともに保存展示されている数少ない103系であったが、2017年のキッズゾーンのリニューアル以降は、同所にてオリジナルカラーのラッピングを施工され、前面の手すりが撤去された状態で置かれている。
なお同車は現存する車両では唯一の高運転台車である。
クハ103-525、クモハ103-58
クハ103-525がいすみ鉄道の上総中川駅沿線に存在する保存施設「ポッポの丘」に存在。以前はJR武蔵野線北府中駅近くの東芝府中事業所工場内で試験機材として使用されており。派手な田園風景めいた塗装が窓ガラスにまで施されていたが、のちにオレンジ1色に塗り替えられた(国鉄正式の朱色1号と比較すると色相が黄色に寄っていた)。「東芝府中」と書かれたオリジナルの行先表示幕をつけていた。当時一般公開はされていなかったが、武蔵野線の列車内からその姿を見ることができた。この2両はVVVF化対応改造されていることでも有名だったが、クモハ103-58は解体されてしまったようで、現在はクハ103-525のみその姿を見ることができる。
その後2020年4月14日から15日にかけて、クハ103-525はクモニ83006と共に譲渡・陸送された。2023年後半に入ってから、青22号塗装に塗り替えられつつある。
クモハ103-110
大阪府立消防学校において、鉄道事故救出訓練用の施設として使用されている。塗装はスカイブルー。
注目されていたけどもう天に召された車両達
(2020年7月現在)
モハ103-502
ケヨ303編成の中間車だったが303編成廃車時に1両だけ廃車を免れVVVF化改造、駆動方式をDDMに改造されケヨ304編成に組込まれた(サハ103-182は廃車)。このためモハ103が2両続く特徴的な編成だった。
クハ103-150
國鐵廣島の愛の美学、ガムテープ塗装を施された車両であることを一部の人間は知っている。2008年頃に消滅した。
クハ103-821・828
広島運転所E-04編成。福知山線脱線事故にともなう車両不足を補う為、JR東日本から購入した元ケヨE38編成の先頭車。広島車だったが岡山へ流され2010年2月に紙製(?)のH21編成幕が掲げられる。だが、運用に入ることなく下関総合車両所へ回送され、6月に廃車解体された。
この先頭車2両を含む武蔵野線のE38編成は西日本に売却される1月ほど前の平成17年6月25日に三鷹駅の開業75周年を記念し中央線で特別列車として運行した。総武線からの直通列車を除くと昭和58年の撤退以来実に22年ぶりとなる中央快速線での103系の営業運行でありこの列車の運行当時は誰もがこの編成にとって引退の花道となることを予想してたため西への売却はかなり驚かれた。
モハ103・102-29
現役最古(というか現存最古)だった103系モハユニット。岡山電車区所属だが広島支社からの借入車。2010年3月に定期運用を失い、同年末に廃車された。余談だが同僚のH19編成は定期運用離脱後もちゃっかり代走に入っていた模様。
クハ103-160・161、モハ103-239、モハ102-394
広島運転所B-09編成。現役の103系で戸袋窓が残る唯一の編成。2010年3月に定期運用を離脱し、翌年1月に廃車回送された。実は民営化時は非冷房でした。
クモハ103-48
広ヒロのD-01編成。先述のクモハ103-110亡き後唯一残った、0番台のクモハ103形。2012年末、ついに末期色塗装が執行されたが、227系投入で真っ先に姿を消した。
コミケカタログ表紙への抜擢
2023年12月開催のコミックマーケット103のカタログの表紙には、103にちなんで103系が描かれている。
関連イラスト
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東武8000系:712両という製造数の多さから「私鉄の103系」と言われる。
太陽にほえろ!:1984年放送の第625話「四色の電車」では、常磐線で使用された本形式の混色編成が犯行の動機のひとつとなっている。