概要
貨物用の兄弟機EF15とともにEF52以来の戦前型機関車の伝統的な構造をとる最後の機関車である。
戦後の買い出し客の需要により旅客用機関車が不足していたために急遽製造された。
全界磁定格出力は1,900kW。構造的には戦前製のEF56の強化型であり、戦中製のEF57の改良型に当たる。
最大の改良点は軸受けをコロ軸受けとし、長距離走行時の軸受け給油を不要とした点である。
なお、EF57とEF58では出力に差があるが、EF57が架線電圧1350Vで評価しているのに対し、EF58の時点では1500Vで評価されるようになったためである。
鉄道ファンからの通称は「ゴハチ」。
半流線型の美しい先頭形状と、長く勇壮なスタイリング、そして旅客列車から貨物列車まで長期に渡り活躍した実績から、電気機関車の中でもとりわけファンの多い形式である。
設計
電気系統
製造時期が戦後間もない混乱期であるため、各種の資材が不足しており、電気機器の多くは代用品でまかなわれた。
とりわけひどいのは、高速度遮断機と避雷器である。
高速度遮断機は架線からの異常電流をシャットアウトし、乗員や機器を守るものであるが、電気機関車では高電流が流れているため、瞬時に遮断しなければ乗員や機器類に危険が及ぶ。
しかし、高速度遮断機の製造には良質な資材と高度な技術が必要であったため、当時は「(当時の)アメリカの原爆の数くらいしか製造できない」と揶揄されるような状況であり、止むを得ず一般用の断流器で代用された。
そして避雷器は、架線や車体に雷が落ちた際、大電圧から乗員や機器を守るものであり、高速度遮断機と並んで重要な機器であるが、断流器で代役が務まると考えられたのか、搭載さえされなかった。
また、パンタグラフは戦時設計のEF13やモハ63に装備されたPS13を継続使用せざるをえなかった。
なお、受注したメーカーの資材・生産能力の都合で落成は番号順ではない。さらにメーカーごとの差異や製造時期による仕様変更、さらに後述する装備改造点も多く、両数のわりにバリエーションが多い。特に増備途中で車体高やデッキ高さが低くなるなど、外観上目立つ差異も少なくなかった。
軸受け
また、EF58では軸受けをコロ軸受けに改良したのは前述のとおりであるが、その実態は元来ほぼ軍需工業専門であったベアリング産業を、進駐軍による軍需産業解体から保護するために急遽設計に盛り込んだのが現実という、政治的色彩の強い決定であった。また制作精度および冶金技術の未熟さからこの時点では国際的水準から程遠い代物であり、頻繁に品質不良による発熱や軸受け焼きつきが起こるなどの問題も発生した。
ベアリングを用いた軸受けは戦前の鉄道省時代から採用されており、走行性能を高めたり、気動車の非力さを埋め摩擦抵抗を下げたりする目的でコロ軸受けを採用した車両は少数ながらあったが、それらは品質や調達の都合からスウェーデンなどの輸入品を用いていた。
台車主台枠はEF15と共通であり、戦前からの設計をアレンジしたものであるが、初期車は仕上げも荒く工業水準の低下を色濃く残していた
使用状況
まず、1次車として30両が発注された。
上記のような状況で製造されたため、製造時から戦時型同様の水準でしかない粗悪な品質であり、故障が頻発した上、先に述べたような生命を守る重要機器を搭載していなかったこともあり、乗務員からの嫌われ者であった。絶縁関係が工業力の低下から非常に弱くなっており、ショートを起こし車体屋根に大穴をあけた事例すらある。
また、そうした資材不足の中でまともな整備が行えるはずもなく、壊れた機器の修繕もされずに運用され、1948年にはとうとう沼津機関区の機関士がEF58形への乗務を拒否するといった事態となった。それを受けて国鉄はようやくEF58全車に順次高速度遮断器や避雷器も取り付け、「まともな機関車」に改修する整備が行われた。これらの工事は1948~49年に行われ、側面窓の増設など車体側の改造も行っている。
また、車体が強度不足状態で落成してくる車輛も多く、現場レベルで補強工事をおこなったため、EF13転用後にはそれが顕著に目立つ車輛もあった。
またメーカーの生産状況の関係で、後述の製造凍結の時点で3両が未着工のままであり、これらは他メーカーの在庫によって補われている。
鋳鋼製先台車
日立が製造した旧EF58のうち、1947年製の5号機と28~30号機、その後に製造される新EF58の45号機に使用された「変形」先台車である。外観は通常の鋼板組み立て式とは大きく異なるが、内部構造はほとんど変わらないため型式(LT221)も同一である。
旧EF58の設計を主導した日立が独自に1~5号機用に5両分を製造したものの、何らかの事情で4号機まで通常品が使われたため、鋳鋼製のストック品がその後の増備車に転用されたものと推定されている。
増備中止とEF18への転用
その後、1947~48年になると折からのインフレや、進駐軍の意向による大幅な予算縮小もあり、多くの国鉄車両は(発注済みのものも含めて)製造のキャンセルを余儀なくされた。(C57/C59/スハ42など)
EF58形もその中に含まれ、1948年初頭には2次車20両(31~50号機)の発注を取りやめることとなった。
しかし、あるメーカーでは正式発注の前に予定分8両と見込み生産分1両の生産にかかっており、うち4両はほぼ完成に近い状態であった。そのため、3両分は他メーカーの未着工分の穴埋めに転用、1両(31号機)だけが国鉄に引き取られた。
同様に工程が進んでいた32~34号機の3両は、翌年の緊縮財政(ドッジライン)のあおりで国鉄に引き取られることなく、ナンバーまで設置したほとんど完成状態で放置されることになる。
その後これら3両は朝鮮戦争などの影響で貨物用機関車が不足したことで(歯車比を変更した貨物用機関車であるとされて)ようやく購入が許可され、1951年にEF18形として落成し、姉妹機であるEF15相当の機関車になった。(実際には軸重などの相違から別運用が組まれた)
なお、2次車である31~50号機の製造凍結の主因が、1949年初頭に発効した「ドッジライン政策」であるとの誤解が各種の文献で(高価な資料本も含めて)「常識的に」述べられてきたが、実際には製造凍結の方が1年ほど早いため現在では否定されている。
蒸気暖房
1949年9月より、戦争によって中断していた特急列車が復活し、東京~大阪間に特急「へいわ」が運転開始され、当時東京~浜松間は電気機関車で運転された(当時、浜松~京都間は非電化であり、浜松~大阪間は蒸気機関車で牽引された)が、当時最新鋭だったEF58形ではなく、EF57形が使用された。
これは、当時の客車の暖房には蒸気暖房が用いられており、機関車でおこした蒸気を送っていたのだが、EF58形には資材不足のため、蒸気発生装置の取り付けが省略されていたからである。(戦時型同然でいつ故障してもおかしくないEF58に、トラブルが許されない「看板列車」を担当させることが出来なかった事情もある)
そのため、EF58形の牽引する列車で暖房を使用する場合は、暖房用の蒸気を作るボイラーを積んだ暖房車を連結する必要があった。
この暖房車は、石炭や水、ボイラーを搭載するため重かったこと、燃料や水を投入するのに機関士の資格を持つ者が必要だったことや、何より暖房車の数が足りなかったことから、時として暖房なしでの運転もあったという。
余談ではあるが、戦前の東海道本線の近郊列車では直流1500Vを使用した電気暖房が使用されており、旧EF58はその為の電気回路とジャンパ連結器を装備していた。
増備再開と設計変更
1951年にサンフランシスコ平和条約が締結され、翌年に占領から解放されることが確定すると、これまで凍結されていた幹線の電化工事が再開され、また必要となる旅客用電気機関車の製造も再開されることになった。
1948年以降製造が凍結されていたEF58も、再設計の上で増備が再開されることになる。
この増備車からは車体設計を大きく変更し、これまでの粗悪かつ低水準、事実上戦時型と同様であった設計から一転、高速度遮断機や蒸気発生装置(SG)を搭載するなどほとんど別形式の態をなしている。
これまでの車体にそのまま蒸気発生装置を搭載できなかったため、新規に車体を設計し、これまでのデッキ付きの車体から、当時大流行していた流線型の正面2枚窓を持つ新しい車体となった。
(車両限界内に収めるための)正面に向かっての絞り込み、正面中央と窓下のエッジなどのスタイルは、イタリア国鉄・E.428の中期型(1939年製造)が参考にされたのかもしれない。
なお、後述のように既存車の車体を乗せ換えることになったため、新製車の車番は35号機から始まることとなった。
増備が比較的長期に亘り、その間技術の向上などにより幾多の設計変更がなされたこと、さらにメーカーごとの特徴、後年の多岐にわたる各種の改造・更新により、晩年には「1両ごとに細部が異なる」と言われるほどのバリエーションがあった。(詳細は各種の専門書・写真集を参照されたい)
新EF58登場と変則窓車
1952年3月、長大な流線型の前面を持つ新EF58(35号機)が登場、翌月までに5両が落成した。
新EF58の最初期車である35号機と36号機の2両は側面窓が7つあり、配置も不揃いなのが特徴である。(通常の箱型EF58の側面窓は5つで配置も等間隔である)
これは両機が前述の事情で仕掛品のまま放置状態であった旧車体を改造利用し、運転台およびボイラー機器周りの車体を延長増設したためである。
続いて製造された完全新造の37~39号機も両機同様、屋根上のモニターが小さく、前後のベンチレーター台座が共に大型になっている特徴がある。
つばめ・はとの牽引
1952年夏頃から秋にかけて、東京機関区の旧EF58が特急「つばめ」「はと」に充当されるようになった。当時の特急列車は「国鉄の看板列車」そのものであり、その頃になると戦時型同様の欠陥車であった旧EF58も、装備改造によってそれなりに安定した運用がなされていたことがうかがえる。
翌年7月の名古屋電化後の特急運用は、前述の新製(改造)間もない新EF58の担当になり、試験塗装車も両列車の牽引に加わっている。
EF13への車体転用
初期製造車も増備車に準じ車体載せ替え等の改造が行われた。このとき原型車体は、戦時設計車であり、極限まで粗悪であった車体が寿命を迎えつつあったEF13の状態改善用に転用され、最終的にEF13形の旧車体と内部機器が破棄された。(なお、車体側の機器についてはEF13への組み替えの際、内部機器も一緒につけたまま振り替えた)
偶然にもEF58とEF13の両数が31両で一致したことも振替転用の理由になったとされる。
改造は1953~1957年にかけて双方の検査入場に合わせて行われ、また元のメーカーと改造を担当したメーカーが異なるケースも多かったため、車番と改造の順番は一致していない。さらに「改装機」も、メーカーによる特徴や改装期間中の新車で実施された設計変更が反映されていることから、車番によって形態はバラバラになる結果となっている。
なお、EF18となった32~34号機も改装が検討されたものの、結局は棚上げになってしまった(計画を推進した責任者が、旧EF58への思い入れもあって敢えて改装を提言しなかったとの話もある)ため、この3両は欠番のままとなった。
車両としての構成要因
先述のように、旧EF58からEF13へは車体を機器ごとまるまる譲り渡しており、元の残存する構成部分は台車しかない。現代の車両になれたファンからは疑問に思われる方もいると思うが、実はEF58・15までの旧型電機の車両としての本体は「台車」なのである。どういうことか?
旧型電気機関車の構造は、原型となったED53以降から蒸気機関車を踏襲しており、おおざっぱに考えれば、ボイラーを車体と電気部品に置き換えただけであり、車体は強度をまったく負担しない、ただの機器の入れ物に過ぎなかったのである。専門書に書かれているこれら旧型電機の「台枠」とは、牽引荷重を負担する台車枠そのものを指すのである。なので、35・36号機のような車体延長という乱暴な改造も可能であった。現代の電気機関車につながる車体台枠に強度と牽引力を負担されるようになったのはEH10以降である。(なので、新型電機が車体台枠にダメージが加わると、償却期間を過ぎていた場合、原則よほどのことがない限り即廃車判定をされてしまう)
一方、これらの旧型電機は可動部分が多いため新型電機よりも台車枠=台枠にダメージが蓄積されやすい。
その後の運用
その後、東海道本線・山陽本線を始め直流電化区間におけるブルートレイン等の各種の旅客列車、さらに荷物列車に長年に亘って使用された。
一応後継となる電気機関車は多数存在するが、1950年代後半以降の旅客列車の動力分散化の方針(当時計画が進んでいた、東海道新幹線開業後の需要も考慮されたと思われる)から、EF60(正確にはより小型のED60)以降の所謂新性能直流電気機関車は、両用機と言いながら実際貨物寄りの性能を持たされている為、どの機関車も本機の全界磁定格速度68km/hでの牽引力(実際に牽引できる重量)に劣っている。
これらの機関車に旅客列車を牽引させた結果、速度を稼ぐ為の弱メ界磁制御の多用で故障やモーターの検査修繕サイクルの頻繁化(実際ブルトレ牽引を担当する東京機関区の電気機関車は本来であれば3ヶ月周期で済む交番検査を月2回する事態も発生している)、寿命低下に繋がり、結局本機が国鉄末期まで旅客用として多用される結果となった。
(EF60が故障頻発でブルートレイン牽引機としては短命に終わり、その後ブルートレイン増発の際には本機が再登板したのは有名な話だが、EF65が担当する東海道線のブルートレインですらEF65の故障時には本機が代走、しかも回復運転をこなせる程の余力があった。)
また新幹線の開業・その後の延伸で、客車による急行・普通列車が大幅に削減されたことや、そのため事実上後継機が不在であった(旅客用としてSG付で登場したEF61ですら18両と少数生産に終わり、かつ限定的な用途に終始した)こともあり、1970年代に至っても直流旅客用機関車の主力として活躍が続いた。
結局EF58に真の後継機は登場せず、皮肉にも貨物用機関車であるEF66(出力3,900kW、全界磁定格速度72.2km/h)が1985年から東海道線のブルートレイン牽引に転用されたことで、ようやく高速性能的にもEF58を超える後継機を得ることが出来たと言えよう。
電気暖房搭載
本来SG装備であるEF58であるが、東北・上越方面使用車は電気暖房使用が標準である交流区間直通列車も多く、使用客車もほぼすべてが電気暖房装備であるため、1960年代後半からSGおよび付帯機器を撤去して、電気暖房インバーターへの換装が実施された。装備機は側面に電気暖房表示灯が追加され、屋上の水槽および油タンクへの補給口が撤去されており、電気暖房ジャンパ線が装備されているのですぐに見分けがついた。
有名なところではJR移行後に残存した89号機も該当したほか、122号機も装備機であるが使用停止につき表示灯は撤去されていた。
元空気ダメ管引き通し
1972年のブルートレイン増発時にEF65の不足が発生したため、その任にあたる米原機関区・下関運転所配置車に、20系客車の空気ばねへの空気供給用にMR管を増設した。俗にP形とも呼ばれたが、最高速度向上などの改造は施されていない。末期には紀勢線の50系客車投入計画から竜華機関区所属車に改造が実施されたが実現せず、その後に投入された12系客車への制御空気供給安定のため(紀勢本線は曲線が多い関係で空気バネの空気消費量が多く、客車側のコンプレッサーだけでは容量不足が懸念された)にMR管が活用された。
貨物列車の牽引
EF58は旅客用機関車であるが、実は阪和線では貨物列車も牽引していた。阪和線は大阪圏の通勤路線であり、通勤電車の合間を縫って走る必要があるため、高速性能が買われた当機が牽引に当たったということである。
引退
客車列車の牽引に長く活躍したが、客車列車(特に長距離夜行列車の)削減や廃止、そして老朽化により1978年に廃車が始まり、1986年3月ダイヤ改正で紀勢本線を最後に定期運用からは退いた。
動態保存
国鉄分割民営化に際しては波動用・動態保存用としてJR東日本・JR東海・JR西日本に計4両が承継(のち1両が車籍復帰)した。特に89号、122号、157号の3両は、動態保存と言いつつEF65・EF64の代走に出ることも多く、これら新性能電機の本格的淘汰が開始されるまではEF58も安泰ではないかといわれていた。
しかし、特に東海道ブルトレ牽引従事経験を中心とする累積走行距離の跳びぬけた数字は台枠にダメージを蓄積させており、軸受けや主電動機の異常過熱に悩まされるようになっていた。2000年に前後して運用離脱が相次ぎ、2011年までにいずれも除籍、もしくは保留車となっており、61号機のみが車籍を残したまま東京車両センターに保管されていたが、2022年10月30日より鉄道博物館で展示・公開されることになり、その後2023年5月31日に除籍された。これをもって、EF58は形式消滅となった。
静態保存については後述。
塗装等バリエーション
EF58には通常の茶色やブルー&クリームの特急塗装車の他にこの様な塗装・仕様も存在した。
ぶどう色
正式名称ぶどう色1号。製造時からの塗装。
1959年以降は客車・電車同様に、やや明るいぶどう色2号に変更されている。
1965年以降は後述の青色に再度変更されているが、東京機関区でお召し予備として扱われていた73号機は、宇都宮運転所に転属直後の1971年までぶどう色のままだった。
1984年、廃車予定だった89号機が延命されることになり、その際にぶどう色2号に塗り替えられ、
その後動態保存機として1996年までぶどう色のまま使用された。
試験塗装
- 31号機
昭和29年1月に東芝で改装された。車体の色はベースが当時の気動車標準色(腰回り部分)だった青3号に、車体裾のスカートとパンタグラフの台座が黄かん色(湘南色の窓周り部分と同じ)で、足周りが薄灰色。避雷器も淡緑色に塗られてた。
- 16号機
昭和29年3月に川車・川重で改装された。車体は31号機と同じくベースが青3号だか、車体裾周りに黄1号の帯、足周りが薄灰色に塗装されて黄1号の帯は、前面の飾り帯部分で下に落とし込まれている。
- 18号機
昭和29年8月に三電・新三電で改装された。塗装は16号機とほぼ同じだが、車体裾周りの帯が若干太く、前面の飾り帯部分もそのまま直線になっている。
余談ではあるが、18号機は三菱製唯一の大窓機であり、前面窓の形状や川崎製仕様のベンチレーター台座、原形のままの先台車端梁など、試作的要素が随所に見られた。
- 4号機
昭和30年8月に東芝で改装された試験塗装最終機。塗装は車体が淡緑3号に緑2号のツートンカラーにクリーム2号の帯の他、側扉の下方の足掛け用の欠き取り部、乗務員用梯子もクリーム2号、足周りが薄灰色をベースに前端バリ、連結器解放テコが帯と同じクリーム2号に塗装されていた。
当時のフランス国鉄(SNCF)の電気機関車をモチーフにしたと言われている。
青大将塗装
昭和31年11月の東海道線の全線電化に於ける特急「つばめ」「はと」の無煙化時に登場した特別塗装で客車も機関車と同様、青大将色に塗られていた。塗り分けは試験塗装の4号機のものを改良した塗装パターンとなり、緑色がやや濃い淡緑5号、裾周りが黄色1号となった。東京・宮原機関区所属機のうち25両がこの塗装に改められている。
ブルートレイン塗装
昭和35年10月の改正で「はやぶさ」が20系化され、その際にパンタグラフを載せた電源車であるカニ22が登場した。その牽引を担当するEF58にMG遠隔操作制御用の装置を搭載され、同時に20系客車に合わせた塗装となった。塗り分けは車体のベースが青15号、裾の帯がクリーム1号で、下回りは登場当時は灰色2号(後に黒色化)となり、クリーム1号の帯は青大将塗装と同じく前面の飾り帯の合わせ部分で下に落とし込まれている。この一連の改造は約20両に施された。
ため色
お召し列車指定機の60・61号機に塗装された色。
1965年、東京・浜松の両機関区の検査担当工場が浜松工場から大宮工場に移管される。その際にお召し指定の2両に対し大宮工場が独自に供奉車の色に近い「ため色」に塗装した物であり、通常のぶどう色2号と比較して赤味がかかっているのが特徴である。
標準色
青色とクリーム色の直流電気機関車の標準塗装。
本来であれば「新性能直流電気機関車」に塗られる色であるが、当時のEF58は高速の旅客列車の主力であり、新性能機に伍した運用がなされていたことから、敢えて新性能機と同じカテゴリーの塗装が採用されたとされている。
お召指定機
1953年に新製された60号機(東芝製)・61号機(日立製作所製)はお召し列車用として特別仕様で製作された。
天皇の乗用列車を牽引するという事情から、以下のような特別な装備が施されている。
運転上の安全策
- 連結器接触面、車輪の外輪部側面、台車バネ吊り部材、ブレーキロッドなど重要部材を磨き上げ、点検時に亀裂などの発見を容易にした。これは同時に装飾の効果もあった。
- 確実な速度監視のため、速度計を運転席の他に助士席側にも増設。
- 電動発電機用の界磁抵抗器を増設し、一部が故障した場合のバックアップとした。
- 故障時用に予備部品と工具を搭載。
- 自動連結器が外れる事故を確実に防止するため、上錠揚止装置(連結解除レバーのロック)を装備した。
- 停車位置を確実にするため、運転室の側面下部に列車位置停止基準板を装備(引き込み式)。
連絡設備・その他
- お召し列車編成内の供奉車(随行員・警備要員の乗車する車両)との連絡電話、および機関車前後の運転室相互間の伝声管を装備した。
- 両端の運転台前面には国旗掲揚器具を装備し、EF58形の特徴である前面の飾り帯は磨き出しのステンレスとして車体側面全周を取り巻くデザインとしている
納期の関係から当初は日立は54番、東芝は60番が割り当てられていた。
しかし、国鉄側から「お召し機を連番にしたい」との要望があり、両社間で車番の交換(54と61)が行われたエピソードがある。
なお、両社共に採算度外視で手間をかけて製造したため、相当の赤字を出したと言われる。
運用
1953年7月、60号機が浜松機関区、61号機が東京機関区に新製配置された。
当時の東海道本線の電化区間は、京阪神間を除けば名古屋が西端であり、東京発の下り(お召し)列車を東京機関区、上り列車を浜松機関区持ちにして、機関区で万全に整備されたものを片道のみ運用することで、万一のトラブルを未然に回避する意図があったものと思われる。(その後の東海道本線全線電化の際に於ける「つばめ・はと」の片道運用も、同様の理由である)
とは言え当時の担当者によると、あくまでも東京機関区所属機(61号機)がお召し運用の中心であり、浜松機関区所属機(60号機)は補佐的な役割を担うことが確定していたと言う。
1950年代末になると、長距離の移動は航空機に移行するようになったため、お召し列車による移動自体が短距離化するようになり、必然的に東京~東海・関西方面のお召し列車も激減してしまい、60号機のお召し本務機としての運用は1958年で終了している。(文献によっては、1962年が最後とする資料もある)
また正式なお召し列車ではないが、1959年に運転された皇太子(現:上皇)ご成婚の際に、60号機が特別列車の上り運用に充当されている。
その後、詳細な時期は不明であるが(1963~65年の間)、浜松区の60号機は側面の通風口を、新型機関車と同様のビニロックフィルターに換装している。
1965年、上記のように両機の担当工場が大宮工場に移管された。
60号機は1967年に踏切事故に遭遇して車体台枠を破損してしまい、既に東海・関西方面へのお召し列車は新幹線に移行していたこともあってか、その際にお召し指定が解除されてしまった。その後は完全に普通のEF58として一般機と共通に運用された。最後までため色の塗装こそ維持されたものの、1977年に大宮工場で正面窓がHゴム化されてしまい、大きく原型を損ねてしまった。
1979年には、岡多線でお召し列車が運転された際に配線上機回しが出来ないため、「回送」列車ではあるものの、再びお召し整備がなされて1号編成の先頭に立つことになった。
60号機はその後1983年4月まで活躍を続けたが、間もなくあっさりと廃車・解体処分に附されてしまっている。(一部のマニアの間で、「保存話を嫌った国鉄が焦って処分した」との噂まで流れた)
一方東京機関区の61号機は、関東地方を中心に比較的短距離のお召し列車を担当することが多く、また地方への1号編成の回送列車にも度々起用された。最終的にお召し列車の牽引実績は100回を超えた。
また、1970年代になると東京機関区のEF58の定期運用自体が減少、波動的な運用がメインになったこともあり、61号機も団体・臨時列車に充当されることが多くなり、浜松機関区所属車の台車検査(1972年から84年まで、浜松区のEF58の台車検査は東京区で行われた)や突発的な故障車の代走として荷物列車を牽引することもあった。
東京機関区は1985年3月に車両が無配置化されてしまうが、その直前に非公式であるがお召し列車を牽引、それが国鉄時代最後のお召し運用になった。
東京機関区閉所後、新鶴見機関区、さらに田端機関区へと移動、そこでJR東日本に継承されることになるが、61号機自体は旧東京機関区である東京運転所に常駐していることが多かった。
1996年、両毛線に於いて久々にお召し列車を牽引、その際に内外とも入念に整備され美しい姿を披露した。
2007年に一号編成の後継車両となる電車形式のハイグレード車両と特別車両(E655系電車)が落成したことにより61号機と一号編成客車の本来の役目を譲る形で、お召し列車牽引活動に終止符を打った。
残念ながら2008年の検査時に不具合(※)が発見され、車両を牽引しての運転が出来なくなった。これらの事情を勘案し、61号機は同年秋に現役を退いた。
その後61号機は東京総合車両センターの御料車庫に長らく保留車として保管され、2018年9月同センターの公開の際に約10年ぶりに姿を現した。
2022年9月、住み慣れた御料車庫から大宮総合車両センターへと陸送され、鉄道博物館に収蔵された。同年10月30日より公開される。
(※)鉄道雑誌等では台枠の金属疲労による劣化(破損)と記載されていたが、ネット上には台枠には問題なく、主電動機等の不具合との情報もあるが、真相は不明。
61号機の「鍋蓋」伝説
現在は修正されているが、1996年のお召し整備の時まで61号機の左側(2-4位側)中央にある「日立」の切り抜き文字(製造銘板)のうち、立の字の一画目にあたる「一」の字が、何故か上下逆さまに付いていたことがあった。
これは一部のマニアの間で「鍋蓋」と呼ばれており、メーカーの日立製作所が「完全なものは後に壊れていく一方だから縁起が悪い」と、日光東照宮・陽明門の逆さ柱よろしく、わざと間違えた状態で納入したという伝説が広がっている。(某有名模型店のHPに於いて、61号機の解説にこのことについて説明がある)
しかしながら、1953年のお召し列車初仕業の際に、東京駅で61号機をご覧になる両陛下の姿が記録されており(日立製作所所蔵の写真・動画)、その写真が61号機の車体左側と判断でき(屋根上にあるSG排煙口の位置で判断が可能)、さらに「日立」の銘板も鍋蓋になっていないことから、少なくても製造間もない時点では正規の状態であったことが確認できる。
いつの時点からかは不明であるが(多分解明されることはないだろうが・・・)、おそらく塗装や板金を伴う整備の際に単純に間違えて取り付けられて、その際のチェックからも見落とされてしまい、そのまま一種の都市伝説と化してしまった可能性が高い事象である。(上記模型店の参考資料では、既に1975年頃には鍋蓋に関する記載があったものと思われる)
172号機のお召牽引
1982年5月21日に栃木県で開催された植樹祭のため運転されたお召し列車は東北本線内は所定のEF58 61が牽引したが、日光線が宇都宮駅で仙台方向からスルー運転可能な形で分岐している関係上、方向転換の関係で指定機ではない172号機が日光線内の牽引に使用された。
運転のおよそ2か月前に大宮工場に入場し
- 車体塗装のぶどう色2号への塗り替え
- 前面飾り帯へのメッキ塗装施工
- 通話電話取付
- 助手席スタフ差し・速度計取付
- 前面国旗掲揚竿取付金具取付
- 名札差し取付
- 停止位置矢印取付
- パンタグラフ・台車のペンキ塗装
が行われることになったが、作業指示の不徹底により車体塗装の変更が行われず、結果として青とクリームの一般塗装のままお召し列車を牽引することとなった。一般色のゴハチがお召を牽引したのは後にも先にもこの時だけである。
172号機は1985年に廃車となったものの、国鉄末期に構想されていた「高崎電気機関車博物館」の展示候補車両として高崎運転所構内に保管され、1999年にオープンした碓氷峠鉄道文化むらにお召仕様を再現して保存展示されている。
保存機
現存が確認されているもの
- 61号機
埼玉県さいたま市の鉄道博物館内に保存。2022年までは、東京都品川区のJR東日本東京総合車両センター内にある御料車庫にて保管していた。
- 89号機
埼玉県さいたま市の鉄道博物館内に保存。
ぶどう色。
- 150号機
京都府京都市の京都鉄道博物館内に保存。
標準色。
- 157号機
愛知県名古屋市のリニア・鉄道館内に保存。原形に復元されている。
ぶどう色。
- 172号機
群馬県安中市の碓氷峠鉄道文化むら内に保存。
標準色。お召し仕様。
- その他、先頭部のみのカットモデル等が複数現存する。(36、42、111、113、144、154)
保存・保管後に処分されたもの
- 65号機
廃車後に大宮鉄道学園にて教材として使用。広島型一体ヒサシ装備。
閉園後、東大宮操に留置。1988年頃解体。
- 66号機
大窓・ツララ切り装備
JR西日本奈良電車区で保管。1995年に解体。
- 91号機
恵比寿にてビアガーデンとして使用。ブルートレイン色。
1991年に周辺地域再開発のため撤去。
- 93号機
埼玉県さいたま市のJR東日本大宮総合車両センターで保存。
青大将色。通常は非公開。2016年に処分されたとみられる。
- 122号機
JR化直前に宇都宮から静岡に転属。JR東海の動態保存機。
2008年に解体。
- 125号機
元・宮原機関区→下関運転所所属。
1984年3月浜松で運用離脱。解体予定で大宮工場に取り込み。その後動態保存機の部品取りに使用されたと思われる。
塗装などの整備も行われたが、2001年に解体。
永遠の終着駅へ
鉄道博物館で公開されたEF58 61は、当初、JR東日本からの「寄託」扱いだったが、2023年5月31日、正式に廃車となった。
(最後の10年程度は全く走らなかったとはいえ)終戦後から70年以上に渡る「EF58形」の歴史は、令和の世にその幕を下ろし、終着駅に到着した。