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目次 [非表示]
  • 1 概要
  • 2 歴史
  • 2.1 年表
  • 3 路線
  • 3.1 現有路線
  • 3.2 廃止路線
  • 3.3 譲渡・移管路線
  • 4 現有車両
  • 4.1 通勤車
  • 4.1.1 8000形
  • 4.1.2 1000形
  • 4.1.3 2000形(2代)
  • 4.1.4 3000形(2代)
  • 4.1.5 4000形(2代)
  • 4.1.6 5000形(2代)
  • 4.1.7 クヤ31形「テクノインスペクター」
  • 5 過去の車両
  • 5.1 HB車
  • 5.1.1 デハ1100形
  • 5.1.2 デハ1200形
  • 5.1.3 デハ1300形(→デニ1300形)
  • 5.1.4 1400形(デハ1400・クハ1450形)
  • 5.2 ABF車
  • 5.2.1 1600形
  • 5.2.2 1900形・1910形
  • 5.2.3 1700形(初代)
  • 5.2.4 2100形
  • 5.3 1800形
  • 5.4 ABFM車
  • 5.4.1 2200形
  • 5.4.2 2220形
  • 5.4.3 2300形
  • 5.4.4 2320形
  • 5.5 2400形(HE車)
  • 5.6 2600形(NHE車)
  • 5.7 4000形(初代)
  • 5.8 9000形
  • 5.9 5000形(初代)
  • 5.9.1 5200形
  • 5.9.2 1000形ワイドドア車
  • 5.10 500形(モノレール)
  • 5.11 キハ5000・5100形
  • 5.12 事業用
  • 5.12.1 デユニ1000形→デニ1000形
  • 5.12.2 デニ1100形(デニ1101)
  • 5.12.3 デニ1300形
  • 5.12.4 デト1形
  • 5.13 電気機関車
  • 5.13.1 デキ1010形(ED1011・ED1012)
  • 5.13.2 デキ1020形(ED1021)
  • 5.13.3 デキ1030形(ED1031)
  • 5.13.4 デキ1040形(D1041)
  • 5.13.5 デキ1050形(EB1051)
  • 5.14 貨車
  • 5.14.1 トム690・720形
  • 5.14.2 トフ101形
  • 5.14.3 ワフ1形
  • 5.14.4 ホキ300・ホキフ300形
  • 5.14.5 イヘ900・910形
  • 6 運賃
  • 7 その他
  • 7.1 いっそ小田急で逃げましょか
  • 7.2 野球チーム
  • 7.3 電気機関車の運転士について
  • 8 キャラクター
  • 8.1 もころん
  • 8.2 鉄道むすめ
  • 9 小田急と縁がある著名人
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク
  • 概要編集

    東京都神奈川県に路線網を持つ大手私鉄の1つ。

    新宿区新宿を起点とし、若者に人気の下北沢や高級住宅街・成城学園前、近年発展して来ている新百合ヶ丘町田厚木等、神奈川県中西部の都市を東西に貫く形で小田原までの路線を持つ。また神奈川県内の藤沢江ノ島多摩方面にも路線を伸ばしている。

    通称は「小田急」。開通当時の社名「小田原急行鉄道」が由来であり、元々この時代からの略称であった。

    丹沢や箱根方面等、観光需要が多いこともあって昔から有料特急に力を入れており、車両や設備の質の良さで知られる独自の「ロマンスカー」ブランドを築き上げている。



    歴史編集

    年表編集


    路線編集

    2025年令和7年)1月現在、計3路線・総延長120.5kmである。


    現有路線編集


    神奈川県中西部を通っている(そのため、県庁所在地である横浜市とは縁がない)。いずれも全線直流電化・小田原線複々線区間(多摩川橋梁【登戸手前】 - 代々木上原間)及び3線区間(向ヶ丘遊園 - 登戸間)を除き全て複線である。


    廃止路線編集

    向ヶ丘遊園駅と小田急系の遊園地・向ヶ丘遊園の正門前を結んでいたモノレール線。2001年(平成13年)廃線。日本どころか世界でも2路線でしか採用されなかったロッキード式モノレールであった。岐阜県にあった川崎航空機工業の試作モノレールを譲って貰い、1966年(昭和41年)に運行開始。

    しかし、2000年(平成12年)に車両経年劣化に伴う台車の破損が判明、運休となった。調査の結果、既に部品調達が困難であった上に利用客が減少していたこともあり、翌年2月に廃止。前述の理由からさよなら運行が行えなかったため、正門駅でお別れイベントを実施している。なお、当路線の目的地であった遊園地・向ヶ丘遊園も2002年(平成14年)3月31日限りで営業終了。現在は跡地の一部を使用して藤子・F・不二雄ミュージアムが建てられている。


    • 向ヶ丘遊園索道線:遊園正門前〜見晴台間 (0.245km)
      • 1986年廃線。ロープウェイも運行していた。

    譲渡・移管路線編集

    • 帝都線:渋谷 - 吉祥寺間(12.7km)
      • もともとは小田急と同じく利光鶴松が経営していた「東京山手急行電鉄」が合併を経て社名を変更し「帝都電鉄」の路線として開通したもので、1940 - 42年の間だけ小田急帝都線として営業していた事がある。大東急成立時に井の頭線と改称、同社解体後は小田急ではなく京王に継承されている。京王の独立後の社名が長らく「京王帝都電鉄」だったのはこの名残である。
      • その後も2019年(令和元年)の小田原線地下化まで下北沢では改札内乗換が可能である造りになっていた等、かつて小田急の路線であった名残が存在していた。

    現有車両編集

    車両形式は小田急の場合、「〜系(けい)」ではなく、「〜形(がた)」と呼称する。

    番号は電動車(デハ)は十の位が0 - 4、付随車は5 - 9を使用する傾向があり、新宿方面から数が増える構造となっている。

    また、編成を数える際には1066Fという数え方はせず、1066×4のように新宿方先頭車×両数で表記する。

    10連通勤車でVVVF制御車の場合、地下鉄直通車両が6M4T。地上線用車両が分割可能編成を含めて5M5Tで構成する傾向がある。

    ロマンスカーと記念撮影

    (7000形「LSE」)


    なお、特急ロマンスカーは「ロマンスカー」が詳しいため、そちらを参照されたい。


    通勤車編集

    8000形編集

    小田急 8000形

    1982年(昭和57年)に登場。

    4・6連がある。

    小田急の通勤車で最後の鋼製車で、「アイボリー車体に青帯」は本形式が最後。

    西武鉄道サステナ車両として、廃車後に一部編成が譲渡されている。


    1000形編集

    小田急1000形

    1988年(昭和63年)に登場。

    開業60周年を記念して登場した小田急初のステンレス車。

    4・6・8・10連が製造された。2010年(平成22年)までは一部が地下鉄千代田線への直通運用にも入っていた。

    小田急で形式単位としては初のGTO-VVVFインバータ制御を採用した。

    4連の一部は小田急に運用が移管された箱根登山鉄道線小田原 - 箱根湯本間でほぼ終日に渡って運用されている(朝夜に送り込みを兼ねた本厚木 - 小田原間運用がある)。

    かつてこの運用に充当される編成は小田原駅での誤乗防止のため箱根登山鉄道カラーの赤いラッピングをまとっていた。

    鉄面画 小田急1000形レーティッシュカラー

    2014年度(平成26年度)よりリニューアル工事が開始された。


    主な更新内容は、

    • VVVFインバーター装置をフルSiC適用仕様に更新
    • 化粧板取替
    • モケット取替
    • LCD新設
    • ドアチャイム新設or更新
    • 行先表示幕&種別幕フルカラーLED化
    • 側帯インペリアルブルー化

    等である。

    一部の編成は4+6両の10両固定化も実施されている。

    当初は全車(ワイドドア車を除く)更新が計画されていたが、途中で変更されたのかワイドドア車以外でも更新を受けることなく廃車となった編成も現れ、未更新車は2022年(令和4年)までに引退となった。


    2000形(2代)編集

    【HD小田急28】せっかく準備してたのに・・・【2000形Ⅱ】

    1995年(平成7年)に登場。

    8連のみ。

    各駅停車専用の形式で、2012年(平成24年)より随時内装更新・方向幕フルカラーLED化が施工されている。

    マスコンは小田急新車では最後となったツーハンドルを採用しており、更新後もそのまま残されている。


    3000形(2代)編集

    【HD小田急18】いまや一大勢力【3000形Ⅱ】

    2002年(平成14年)に登場。

    6・8連と後から新造した中間車を追加した10連がある。

    陳腐化が進行していた2600・4000・9000形置換を目的に大量増備され、名実共に小田急通勤車を代表する形式となった。10度に渡って製造されたため、その過程において設計変更や設備追加が幾度も行われている。


    4000形(2代)編集

    列車 小田急4000形

    2007年(平成19年)に登場。

    地下鉄千代田線及びJR常磐線常磐緩行線)直通の1000形の置換え用に製造された電車。10連のみ存在する。

    JR東日本E233系3000番台を基本に設計されている。

    この形式から小田急・東京メトロ・JR東日本3社直通運転に対応し、2016年(平成28年)3月からその運用が開始された。

    大手私鉄の車両が茨城県内まで直通するのはこれが初めて。


    5000形(2代)編集

    小田急5000形

    2020年(令和2年)に登場。

    こちらも10連のみ存在する。

    8000形以来となる幅広車体で、側面の青帯は2色となっている。

    2023年(令和5年)からは「もころん」をラッピングした編成が登場した。


    クヤ31形「テクノインスペクター編集

    小田急クヤ31形

    2004年より運行を開始している総合検測車。車両は3000形(2代)をベースとした。月に2回程度、2日かけて小田急全線を走行し、軌道・架線検測を行う。

    動力を持たないため、動力車として8000形の一部編成と連結される形で検測を行っている。当初は連結相手は1000形であったが4連が廃車されたため、2021年10月以降は8000形4連に変更されている。

    屋根上のクーラーは初代4000形からの転用であったりする。


    過去の車両編集

    HB車編集

    特徴については当該項目を参照。


    デハ1100形編集

    【HD小田急13】小田急線の一号電車【モハ1→1100形】

    元々は開通当時に用意されたモハ1形電車である。モハ1形は15m級3ドア車で、主に各停専用として使用された。一部は戦時中の合併を経て相鉄に移籍した他、小田急に残存した車両も日立電鉄熊本電鉄に譲渡されている。

    最後まで残ったのは1101で、こちらは早い時期に荷物電車となってデニ1101となっているが、1960年代の一時期、振子式試験車両に改造されていたという過去がある。

    熊本電気鉄道で廃車となった元デハ1105号→熊本電鉄モハ301を小田急が買い戻し、開通当時のモハ1形の姿に復元されて現在はロマンスカーミュージアムに保存されている。


    デハ1200形編集

    【HD小田急17】相模野の韋駄天【101形→1200形】

    開通当時に揃えられた車両のうち、急行用として使用されたモハ101・モハ121・モハ131形である。

    元々は荷物室とトイレが付いていてモハニであったが、荷物室の需要が少なかったため取り外されてモハとなった。

    16m級2ドアで、当初はセミクロスシートであった。この内装を活かしてロマンスカーの原点である「週末温泉列車」の運用に就いていた。

    トイレに行く際には一回荷物室に入らないと行けない、という現在の目線では謎の仕様であった。

    廃車後は越後交通等に渡り、1976年まで活躍している。


    デハ1300形(→デニ1300形)編集

    全線複線化に合わせて登場、モハ101・121・131形の荷物室を拡大したバージョン。

    こちらは16m級3扉ロングシートの車であった。

    戦後に東急車輛製造で車体を改造した際に幅1,500mmの両開き扉を2ヶ所新設。荷物車の代わりとして働いたが、HB車の旅客運用が消滅するとデニに形式が変わった。

    小田急から引退後、東急車輌製造の牽引車として第2の人生を歩んだ車両もいる(1993年に使用停止)。


    1400形(デハ1400・クハ1450形)編集

    江ノ島線開通に合わせて登場。当初の形式はモハ201・クハ501及びクハ551・モハ251。

    2ドア仕様であるがロングシート、比較的纏まった数が働き、HB車を代表する形式であった。

    引退後は新潟交通越後交通岳南鉄道等に譲渡された。新潟交通に渡った車両は1999年(平成11年)の全線廃止まで活躍した。


    ABF車編集

    間接自動制御(三菱電機製ABF)を採用した吊掛駆動車両の一群。


    1600形編集

    【HD小田急30】戦前小田急最後の電車【1600形】

    戦前の小田急としては最後の新造車で、窓が大きく美しいスタイルを有することでファンの人気を集めた。

    これよりも前にクハ601形という形式がクハ1651形として編入されたが、これらも戦後デハ1600形に合わせたスタイルとなった。

    戦時中に運休となっていた「週末温泉特急」が1948年(昭和23年)に再開された際はこの1600形が充当されている。1970年(昭和45年)に引退した。

    廃車後は岳南鉄道や近江鉄道に渡った他、一部は制御気動車化されて関東鉄道にも渡っている。気動車魔改造されたこの車両は1984年まで活躍したという。


    1900形・1910形編集

    【HD小田急29】戦後小田急復活のシンボル【1900形】

    戦後各地の私鉄に投入された「運輸省規格型」と呼ばれる電車。1949年に登場。

    規格設計のせいか窓が小さく重苦しい印象。

    元帝都電鉄(→京王井の頭線)出身1500形も改造・編入(デハ1914Ⅱ・クハ1964)された(ただし、この2両の制御器は国鉄制式品・CS-5であるため、ABF車ではない)。

    特急仕様は1910形という別形式であり、同じく1949年(昭和24年)にデビューした。1900形と異なり、車内はセミクロスでトイレ・喫茶スペースも併設されていた。入線後は1600形に代わって週末温泉特急に充当された。翌年に2000形に改番されている。1952年以降は通勤輸送に専念する様になり、1957年頃には3ドア化。1976年(昭和51年)に全車引退した。

    廃車後は富士急や岳南鉄道、大井川鐵道に譲渡された。

    初めて本格的な特急車両として製造されたことから、これを初代ロマンスカーと見る向きもある。


    1700形(初代)編集

    【HD小田急09】本家は私です【1700形Ⅰ】

    小田急では初めて転換クロスシートを採用した本格的な特急用車両。

    第1・2編成は戦災国電の台枠を使ったため、先頭車・中間車で長さが異なった。

    第3編成は完全新造で非貫通2枚窓となった。

    ヤマユリをかたどったロマンスカーエンブレムは元々はこの1700形に付けられていたものであった。1957年(昭和32年)に特急運用より撤退。後にサハ1両を挿入した上で通勤車化改造を受け、車両の長さも統一された。

    1974年に全車引退したが、車体幅が大き過ぎたため、他社への譲渡は行われなかった。


    2100形編集

    【HD小田急32】小田急の茶坊主【2100形】

    小田急最後のABF車で、軽量構造を初めて採用した。

    そのスタイルは後に登場する2220形に通じる軽快なもの。廃車後、5両が三岐鉄道に渡って1991年まで使用された。


    1800形編集

    元々は国電63系……となるはずであった車両を割り当てたものと戦災で焼けた国電の台枠を流用して新造した車両の寄せ集め。名鉄からやって来た車両もある。

    当初は国電そのままの姿で運用され、車体更新で小田急顔となったが、切妻で異彩を放っていた。廃車後は秩父鉄道に譲渡され800系となった。

    秩父鉄道からは1989年に引退。デハ1801が保存されている他、クハ1851の車体前半分が残存している。


    ABFM車編集

    初期の高性能車群を指す。「FM車」「FM系」とも。

    三菱電機製多段制御器「ABFM」を搭載しているため、こう呼ばれた。


    2200形編集

    【HD小田急02-R】小田急の新風【2200形】

    1954年より製造された小田急初の高性能車。直角カルダン駆動。

    ただし、デハ2217・2218は2220形と同一の性能を有するWN駆動車である。

    廃車後は富士急行(現:富士山麓電気鉄道)に譲渡され、1996年まで活躍した他、台車が伊予鉄道に渡っている。

    富士急譲渡車も含めて5両が静態保存されていたが、うち2両はその後解体され、現在は3両が保存されている。


    2220形編集

    【HD小田急01-R】WN駆動の先駆者【2220形】

    1958年より箱根急行用に製造された小田急初のWN駆動車。登場時は4連であったが、後に2連に短縮された。

    廃車後、富士急行や新潟交通に譲渡された他、台車が伊予鉄道に渡り、新潟交通に渡った車両が1998年11月まで活躍している。


    2300形編集

    【HD小田急20】薄幸のロマンスカー【2300形】

    1955年に登場。2200形の特急バージョン。既に3000形「SE」→「SSE」登場が決定していたため、ショートリリーフとして製造された。故に4連×1本のみの製造に終わり、3000形「SE」が登場すると2ドア化・セミクロスシート化の上で準特急用に転用された。1964年以降は3扉ロングシートの通勤型に格下げされた。1982年(昭和57年)に全廃となった。

    除籍後は富士急に譲渡された。

    1700形の次に特急用として新造されたため、2300形を3代目のロマンスカー用車両と見る向きも多い。


    2320形編集

    【HD小田急21】特急になれなかった優等車【2320形】

    1955年に製造。2220形の準特急・急行バージョンであるが、「NSE」が増備されたため、程なくして通勤型に改造された。

    除籍後は富士急行に譲渡され、1995年10月の廃車まで活躍した。


    2400形(HE車)編集

    【HD小田急19】ふぞろいな高性能車【2400形】小田急2400形

    1959年に登場。4両固定編成であるが、両端2両・中間2両で車体長が3m近く異なるという変わった構造の電車。

    「HE」とは「High_Economical」の略である。

    車体長の相違でレールのジョイントを通過する音の間隔が異なるため、走行音だけで容易に判別出来た。

    冷房やスカートの新設等、試験的に実施された編成も存在する。

    1989年3月、予備車として残最後の1編成が廃車。この編成は小田急として最後まで残った非冷房車であり、引退を境に全車冷房化が達成された。

    廃車後、機器類は4000形(初代)の高性能化に流用された。


    2600形(NHE車)編集

    【HD小田急23】大量輸送の立役者【2600形】小田急2600形

    1964年に登場。初の20m級4扉車体・裾絞りの大型車両で、後の通勤形電車の標準的規格となる。

    小田急顔電車の代表格としてありふれた存在であった。

    「NHE」は「New_High_Economical」の略である。

    最後まで側面表示が種別のみの表示であったことが判別しやすい特徴である。

    各停専用とされたため、小田急では初めて回生ブレーキを搭載している他、電動車は3両で1ユニットという珍しい方式である。

    それ故に編成の自由度は低かったが、この頃の小田急は固定編成が前提であったため、問題はなかった。

    単独で運用する分にはそれで良かったが、5000形以降の形式と連結した場合、2600形は回生ブレーキの失効速度が速く、直ぐに空気ブレーキに切替わってしまうため、連結運行の際には運転士に嫌われたらしい。

    1編成8両のみ2000形同様IGBT-VVVF制御に改造された車両あり(当該編成の足回りは廃車後同系新造時に転用された)。

    最後まで残った1編成6両は旧塗装に塗り直され、2004年6月のさよなら運行に使用された。

    その後先頭車クハ2670が保存されている他、辻堂海浜公園に保存車がある。また厚木の消防学校に寄贈され、事故救出訓練用の訓練器材として再利用されている車両がある。


    4000形(初代)編集

    【HD小田急25】改造改造また改造【4000形Ⅰ】

    車体は2600形とほぼ同じであるが、足周りが特徴の電車。

    ギラリと光るディスクブレーキと吊り掛け駆動が魅力であった。

    …が、1984年、先述の2400形から機器を譲り受けてカルダン駆動化された。

    その際に冷房化もされたが、2600・旧5000形とはクーラー数が異なる点と上記のディスクブレーキが特徴であったため、容易に判別出来た。


    しかし、WN駆動化後も回生ブレーキはおろか、発電ブレーキすらついていないため、

    ブレーキ操作がシビアであり、特に異形式併結時は2600形以上に運転士達から嫌われたそうである。

    そのためなのか2600形と共に廃車が進行。2600形全廃半年後の2004年12月にヒッソリと姿を消した。


    9000形編集

    小田急9000形 生誕40周年

    地下鉄千代田線直通用として1972年より製造が開始された。小田急初の界磁チョッパ制御を採用した車両でもある。

    営団に負けるな」という設計陣の一言で決定されたという斬新な前面スタイルから「ガイコツ」の異名を頂戴した。

    小田急で唯一ローレル賞を受賞した車両でもある。

    1000形登場後は直通運用より撤退、地上線専用となっていた。

    30年経っても古さを感じさせないスタイルが人気であったが、回生・発電併用HSC-RDブレーキ等の特殊部品の確保が困難である他、車体腐食に伴う老朽化に伴い、2006年5月に全車引退となった。

    引退後はクハ9001が海老名に保存されている。


    5000形(初代)編集

    小田急5000形【HD小田急22】最後の『小田急顔』【5000形Ⅰ】

    ファンの間から「小田急顔」として親しまれてきた前面形状を持つ最後の形式。

    1972年からは上述の9000形の導入に伴い製造が中断され、次述の5200形として1978年から製造を再開した。

    2012年3月に引退。


    5200形編集

    小田急5200形

    6連の増備を目的に登場した。

    形式上はあくまでも5000形であるが、側窓が一段下降式に変わったため5200形と呼ばれる。

    末期には一部編成は4連に短縮されて使用された。

    3000形や4000形(2代)登場に伴い、廃車が進行。2011年1月に6連はラストランを行って引退、残る4連も翌年引退した。


    1000形ワイドドア車編集

    小田急1000形 6両 ワイドドア車(1751F 1752F)

    1991年デビュー。

    標準ドアの1000形をベースに開発されたワイドドア車。6連のみ存在していた。当時は好景気、さらに複々線工事も途上であり、朝ラッシュ時が酷く、その対策の一環として導入された。

    元々4連が1500形、6連が1700形と呼ばれていたが、後に1500形が改造されて全編成が6連に統一されたため、1700形と呼ばれる。

    1700形への改造に関しては先頭車の中間車改造が行われた。

    なおこのワイドドア、その名に違わず全開するとその幅2mにも及び、縦よりも横幅の方が広かった。後に幅を縮める改造が行われ、左右0.2mずつ引き残す(幅が1.6mとなる)。車内からはそれ程違和感はないが、外から見ると違和感を感じる。

    側面の方向幕は落成時から3色LEDとなっていた。

    ホームドアの設置後は新宿方面に顔を出すことがなくなり、新百合ヶ丘以南の各停運用がメインとなっていた。

    2022年までに全車引退。


    500形(モノレール)編集

    【HD小田急24】向ヶ丘のモノレール【500形】

    1967年に運行を開始したが、実は川崎航空機が試作したロッキード式モノレールの電車を小田急が引取り、向ヶ丘遊園アクセス輸送用として運行されていた。イベント実施時は『ウルトラマン』のお面を被って運行されたこともある。

    試作車であった名残でホームがない海側の扉が1ヵ所ずつしかないのが特徴であった。

    同じくロッキード式モノレールを運用していた姫路市の手柄山交流ステーションに試作車時代の資料が展示されている。

    2000年(平成12年)、前述の理由から休車となり、翌年にモノレール線と運命を共にした。


    キハ5000・5100形編集

    国鉄御殿場線直通用に1955年に開発された小田急唯一の気動車である。主に特急「銀嶺」「芙蓉」「朝霧」「長尾」に充当されていたが、1968年に御殿場線が直流電化されたため、お役御免となって関東鉄道に譲渡され、3ドア・ロングシートに改造され、1987年まで使用された。

    ちなみに、関東鉄道では同じく小田急から譲渡されて制御気動車化されたクハ1650形と併結されて使用された。


    なお、窓割を見れば分かる通り、キハ5000形は登場当時、シートピッチが恐ろしく狭く窮屈であり、しかもこれで満席の状態になると乗客の重さでエンジンが焼きついてしまうというトラブルに見舞われた。

    その反省からキハ5100形ではシートピッチを広げたため、キハ5000形もそれに合わせて改造したが、今度はシートと窓の位置関係が合わなくなってしまった。


    事業用編集

    デユニ1000形→デニ1000形編集

    小田原急行鉄道で1927年11月に荷物輸送用車両として4両が新造された荷物電車。1941年に2両が廃車されたが、残る2両は戦中の大東急時代を経て戦後の小田急電鉄時代まで使用されていた。1971年には郵便輸送が廃止されたため、郵便室を荷物室に変更してデニ1000形に改造後、1976年に1両が廃車されたが、最後の1両が1984年の荷物輸送全廃時まで生き残った。


    デニ1100形(デニ1101)編集

    1958年2月にデハ1100形1両を改造した荷物電車。油圧式強制振り子試験車として用いられたこともある。1976年に廃車。


    デニ1300形編集

    1969年10月にデハ1300形から改造された荷物電車。4両が改造され上記のデニ1000形の後継車両となった。1984年の荷物輸送全廃により廃車。


    デト1形編集

    【HD小田急42】大野工場のヌシ【デト1形】

    小田急唯一の電動貨車にして、唯一の自社製造車である。製造元は経堂工場。

    旧型車両の電装品・台車を利用して1953年に作られ、台枠の一端に凸型車体が載った独特のスタイルでよく知られていた。

    デト(電動無蓋車)と名乗ってはいるが、車体形状は長物車のそれに近く、「デチ」と名乗らせた方が良さそうな形態である。

    当初は経堂工場構内、1962年以降は大野工場構内の資材運搬並びに車両入換用として使用されていた。

    そのため、ATSや列車無線は装備しておらず、本線に出ることは出来ない車両であった。

    2002年に廃車。


    電気機関車編集

    デキ1010形(ED1011・ED1012)編集

    【HD小田急40】小田急の一号機関車【デキ1010形】

    1927年の開通に合わせて川崎造船所で製造された1形(1・2)をルーツとする。軸配置はB-B。

    いわゆる「川崎製40t電気機関車」の一族であり、同型車としては武蔵野鉄道デキカ21形(→西武鉄道E21形)や上田温泉電軌(後の上田交通)デロ301形(後に名古屋鉄道に渡り、デキ500形を経て岳南鉄道ED50形)があり、特に上田温泉電軌には応援のために貸出されたことがある。

    大東急改番でデキ1010形となった後、戦後は車体標記のみED1011・ED1012と改められた。

    1968年に貨物列車縮小のためED1011、1984年に貨物列車廃止のためED1012がそれぞれ廃車となった。


    デキ1020形(ED1021)編集

    【HD小田急38】小田急の丸窓電機【デキ1020形】

    1930年川崎車輛製。デッキなし、箱形の40t級で車体側面・機械室部分の窓が丸窓となっていたのが特徴。軸配置はB-B。

    当初は101形101と称したが、大東急合併に伴う改番でデキ1020形1021となり、その後車体標記のみED1021と改めている。

    1968年に貨物列車縮小のために除籍された。その後は廃車まで岳南鉄道に売却されてED29形291として働いていた。


    デキ1030形(ED1031)編集

    【HD小田急39】相模野の山男【デキ1030形】

    1930年日本車輌製。こちらもデッキなし・箱形車体の40t級であるが、車体はデキ1020形と比べて長い。

    軸配置はB-B、屋上に上がる梯子と砂箱が前頭部分に付いており、いかめしい顔をしている。

    当初は201形201と称したが、大東急合併に伴う改番でデキ1030形1031となり、その後、車体標記のみED1031と改めている。

    戦前生まれの電気機関車としては小田急最後の存在であり、貨物輸送廃止後の1984年以降も甲種輸送等で後述のED1041と重連を組んで使用される機会が多かった。

    廃車は1997年。小田急本線用ELとしては最後まで残った車両であった。


    デキ1040形(D1041)編集

    【HD小田急15】小田急最大の電機【デキ1040形】

    1951年中日本重工業(現:三菱重工業)製。軸配置はB-B。小田急最大のELである。

    足柄に接続する専売公社(当時)の煙草製品輸送等を長らく貨物列車を牽引して来たが、貨物輸送廃止後の1984年以降は新車の甲種輸送などが主な任務であった。

    しかし、合理化のため、電車に代替される形で1996年に廃車された(なお、廃車の要因としては主電動機焼損という致命的なトラブルを起こしてしまった上、既に修理用部品も枯渇していたためと思われる)。


    デキ1050形(EB1051)編集

    【HD小田急41】小田急最後の電気機関車【デキ1050形】

    1950年日立製作所製。軸配置はB。当初は先述の専売公社小田原工場の専用線で使用されていた機関車で、

    専売公社時代の車番は101号。しかし、その後専用線には小田急所有の電気機関車を直通させることとなったために不要となり、これを同社が買い取ってデキ1050形EB1051となった。

    小田急唯一のEB級。ATS及び列車無線を備えていないため、本線上には出られず、当初は相武台工場、1962年以降は大野工場の入換用として使われていた。

    2002年に入換用モーターカーに置換される形で廃車となり、これを最後に小田急より電気機関車は消滅した。


    貨車編集

    トム690・720形編集

    戦前の1930・34年に砂利輸送用無蓋車としてそれぞれ30・10両が製造、戦後の砂利輸送廃止に伴い、保線用として4・1両がそれぞれ残ったが、1984年3月に両車共に廃車された。


    トフ101形編集

    1929年8月 - 翌年11月にかけて14両が製造された無蓋緩急車。車掌室を車体中央に備える凸型車体が特徴。戦後の砂利輸送廃止により10両、1984年3月の保線車両更新に伴い、3両が廃止されたが、残った1両(トフ104)が新車搬入時の緩急車として使用され続け、1996年6月30日に引退するまで日本最後の現役凸型緩急車として知られていた。ちなみに、車両在籍期間66年10ヶ月という小田急で最長の記録を保有している。


    ワフ1形編集

    1927年の貨物営業開始に合わせ3両が新造された有蓋緩急車。1970年に全廃された。


    ホキ300・ホキフ300形編集

    1962年に6両が製造された、砂利撒布用保線用ホッパ車。保線車両更新に伴い、1987年に全廃。


    イヘ900・910形編集

    1959年に川崎車輛で各1両が製造された移動変電車。これはこの当時長編成の急速な増加などで変電能力の不足が問題となりつつあったことが背景にあり、常設変電所増強完成までの短期間の代行施設として計画されたもの。変電機器は三菱電機が担当している。搭載機器の関係で常にコンビで使用され投入当初は当初は折り返しの多い向ヶ丘遊園の側線。その後は厚木側線に移動して使用された。その後の常設変電所の整備に伴い、代行変電所としての使命を終えて1973年に廃車されている。


    運賃編集

    区間キロ程運賃(ICカード)運賃(切符)
    1区初乗り - 3km126円130円
    2区4km - 6km157円160円
    3区7km - 9km189円190円
    4区10km - 13km220円220円
    5区14km - 17km251円260円
    6区18km - 21km283円290円
    7区22km - 25km314円320円
    8区26km - 29km346円350円
    9区30km - 33km377円380円
    10区34km - 37km419円420円
    11区38km - 41km462円470円
    12区42km - 46km503円510円
    13区47km - 51km545円550円
    14区52km - 56km597円600円
    15区57km - 61km639円640円
    16区62km - 66km682円690円
    17区67km - 71km733円740円
    18区72km - 76km786円790円
    19区77km - 81km838円840円
    20区82km - 83km891円900円

    その他編集

    いっそ小田急で逃げましょか編集

    戦前より略称として広く浸透していた「小田急」だったが、実は小田急は当初この略称を好ましく思っていなかった。

    というのも1929年に映画主題歌として発表され大ヒットした「東京行進曲」の歌詞に「いっそ小田急で逃げましょか」というフレーズがあり、駆け落ちの代名詞として「小田急る(おだきゅる)」という言葉が流行してしまったためである。

    当時の小田急の重役がレコード会社に「うちの電車で駆け落ちとは何事か」と怒鳴り込むほどの大騒ぎになったが、後に本当に社名を「小田急電鉄」に改称することになったため、作詞者の西條八十は小田急から「会社の宣伝になった」として「優待乗車証」が支給されたという。


    野球チーム編集

    実は大東急から独立した直後の1949年にプロ野球チームを所有する計画があった。1949年11月27日付の朝日新聞セ・リーグの球団として巨人阪神中日・太陽(→松竹)・大洋西日本新聞と共に名前が挙がっていたが、実際に球団を所有することはなかった。


    電気機関車の運転士について編集

    上述の通り、小田急は貨物輸送廃止以降電気機関車を全廃しているものの、小田急にはJR貨物所有の電気機関車も運転出来る運転士が在籍している。

    これは同社の甲種輸送列車が連絡線を通じてそのまま小田急線新松田まで乗入れるためである。JR貨物EF65形(1000番台)電気機関車の運転資格を保有している運転士が社内に23名いるという(2025年現在)。


    小田急に納入される新型車両を牽引したJR貨物所属機関車はまず牽引したままJR御殿場線松田駅に到着。同駅からの連絡線は小田急管理となっているため、JR松田駅で小田急電鉄の運転士がJR貨物の運転士と交代し、JR貨物のELを運転して連絡線を通り、新松田駅の先まで走行。その後、後進する形で新松田駅に入線後に機関車を分離。小田急電鉄の運転士が機関車のみ運転して連絡線でJR松田駅に戻り、待機しているJR貨物の運転士に機関車を返却するという流れとなる。

    納入される新型車両は新松田駅構内で待機していた小田急の電車に連結・そのまま牽引(状況によっては新松田駅で通電されて自走)され、最終目的地・海老名検車区に向かって行く。ちなみに、小田急線内から他社に車両が譲渡される場合はこの逆の手順となり、新松田駅に単機で入線して来たJR機関車に連結され、構内を後退した後、連絡線から御殿場線に搬出される流れとなる。重量級機関車が入線する場合もあり、この連絡線と新松田駅の前後は予め路盤強化がされているという。

    なお、この一連の作業は双方の終電後の深夜帯に行っている。


    キャラクター編集

    もころん編集

    2023年(令和5年)に登場した子育て応援キャラクター。ウサギをモチーフとしている。

    【もころん】とGSE&VSE


    鉄道むすめ編集

    トミーテックが展開する『鉄道むすめ』では系列会社含めて3人が公式に登場している。ちなみに、船橋ちとせ石田あいこ『鉄道むすめ』最古参キャラである。

    もころん登場前後から使われなくなり、石田は制服リニューアルを見送り、渋沢は職種自体が廃止され両名は事実上の引退扱いとなっている。


    船橋ちとせ 石田あいこ渋沢あさぎ
    新宿駅駅務係→同駅管区主任本線車掌→運転士→特急主任車掌特急ロマンスカーアテンダント→グランドパーサー、小田急レストランシステム所属。
    船橋ちとせ さん石田主任車掌ロマンスあさぎ

    小田急と縁がある著名人編集

    • 森繁久彌:千歳船橋に森繁通りが存在するため、同駅前に胸像が移設された。
    • 藤子・F・不二雄1996年(平成8年)に亡くなるまで沿線の川崎市生田地区に住んでいた。藤子・F・不二雄ミュージアム最寄りの登戸はドラえもんを意識したラッピングとなっている。
    • 木梨憲武とんねるず)…実家の木梨サイクルが祖師ヶ谷大蔵にある。
    • いきものがかり:メンバーが海老名市厚木市出身で、海老名・本厚木の駅メロに楽曲が使われている。代表曲『SAKURA』にも名前が登場。
    • 森山直太朗:代々木上原出身。同じ沿線上にある成城大学に進学しており、代表曲『さくら(独唱)』も成城の桜並木道をイメージして作ったもの。
    • LUNASEA:ボーカル・RYUICHIが江ノ島線沿いにある大和市の鶴間出身、他メンバーは小田原線沿いの秦野市の出身。このため、両路線のジャンクションにある町田がメンバーの合流地点になっていた。
    • SOPHIA:最大のヒット曲『街』のPVは喜多見駅周辺で撮影された。小田急のみならず、世田谷とも縁が深い。
    • 森友嵐士T-BOLAN):同じく東海大学に通学していたため、町田には良く来ていたことを語っている。
    • 19(ジューク):沿線の柿生に住んでいたため、「小田急柿生」という曲がある。
    • ZARD:生まれは福岡県久留米市であるが、秦野市で育つ。渋沢駅の駅メロに『負けないで』が使われている。

    関連項目編集


    外部リンク編集

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