日立電鉄
ひたちでんてつ
本項では、同社が運営していた鉄道路線である日立電鉄線についても説明する。
1922年に創業し、日立製作所の傘下にあった鉄道会社。2005年3月まで常北太田駅-鮎川駅間を結ぶ日立電鉄線を運営していたが、赤字が嵩んで施設の更新の費用が捻出できなくなり全線廃止となった。鉄道線廃止時に在籍していた乗務員のうち半数は首都圏新都市鉄道へと移籍、そして会社そのものは鉄道清算事業として存続し、2012年に清算を完了、消滅した。
参考動画:社歌「日立電鉄の歌」
概要
1928年に常北電気鉄道によって、大甕-久慈浜間で開業した路線。水郡線常陸太田駅に隣接する常北太田駅より、常磐線大甕駅を経由し、鮎川駅との間を結んでいた。路線は鉄道要覧によれば、大甕駅を境に2つに分かれていたが、実際は1本の路線として運営されていた。
日立製作所の傘下に入ってからは、鮎川から先の日立市内までの延伸も計画されていたが、結局は実現することなく、アクセスの悪さも利用者離れの原因になったという。
沿線からはチン電の愛称で親しまれた。
運行形態
末期は全列車が2両編成のワンマン運転で、日中は20分-40分間隔と不定であった。その後廃止の1年前には日中は60分間隔とさらに本数を削減されている。
なお、当路線は日本で初めてワンマン運転を行った電化私鉄でもある。
使用車両
2000形
1991年に営団地下鉄銀座線で使用されていた2000形を譲受し、京王重機整備にて改造を行った上で導入した車両(メイン画像の車両)。
銀座線は標準軌こと1435mmゲージで第3軌条集電のため、営団地下鉄3000系の部品を用いて日立電鉄線へ対応させるための改造や、地上を走ることから窓にカーテンが設置されるなどした。また一部の車両は両運転台化とワンマン化改造を行い、別形式3000形となった。種車は親会社の事情に配慮し、1/4が日立製作所製の車両であったという。2002年からは全列車が2両編成のワンマン運転となったため、運用離脱した車両以外はそれに対応させるための改造が行われた。
登場時はMc+Tcの2両編成を組成する2000形+2200形が7本、増結用の単独Mc車2000形が3両、3000形が7両の陣営で活躍した。しかし度重なる運用削減で次々と運用離脱してしまい、末期はMc+Tcが4本、単独Mc車の2両編成が1本(ただしイベント用)、2000形+3000形が1本、3000形の2両編成が1本(最晩年に当鉄道の旧塗装に復刻された)の計7本が運用していた。
日立電鉄は路線の条件からどうしても小型車両でなければ使用できず、適当な車両を探していたところ、営団地下鉄が出稿した車両売却の一般広告を目にしたことで問い合わせたという経緯がある。営団側は車両として買い手が付くことは想定外だったという。
このほか同社は丸ノ内線方南町分岐線で使用されていた3両編成1本を含めた4両を3000形の種車として確保していたが、導入数の削減を行ったことでキャンセルとなり、その後銚子電気鉄道1000形として再起した。
また3000形の種車は、当初車齢が浅い1500形が考えられていたが、中間車であるため改造が難しいことから2000形を両運転台化する内容へ変更された。
廃止後は旧塗装に塗られていた3000形3023号が日立市内の鉄道模型店で保存されていたが、同店が千葉県八街市へ移転したことがきっかけで2016年に解体されてしまった(当初は保存車の横にホームのレプリカを設置することも見込まれていたが、結局は実現しないままであった)。3025号も保存の話があり、2006年に外観の整備が行われたものの、結局は引き取られることなく解体されている。
2000形への置き換え前は、小田急電鉄や相模鉄道で使用された車両のほか、静岡鉄道から譲受した車両が在籍しており、いずれも吊り掛け駆動の旧性能車であった。
1999年に分離したバス部門「日立電鉄バス」を前身とする「日立電鉄交通サービス」と、「日立電鉄タクシー」などタクシー会社3社がグループ企業として存続。
日立電鉄交通サービスが運営するバス高速輸送システムの路線「ひたちBRT」は、日立電鉄線の廃線跡を活躍したものである。
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