鉄道車両の形式のひとつである。
国鉄モハ1600形
もともとは1927年に飯田線の前身にあたる豊川鉄道・鳳来寺鉄道が計3両を導入したモハ20形(買収国電)。
深い丸屋根にお椀型通風機を備えた川崎造船所の標準スタイルともいえる車両で、17m級車体の3扉車。
モハ21は1943年に東上駅の停止信号を冒進した田口鉄道デキ53と江島駅付近で正面衝突事故を起こしている。
飯田線の戦時買収後も線内で運用され、1950年にモハ21・モハ22が更新修繕を受けて乗務員扉を設置。モハ20は1949年に走行機器を国鉄型と同一のものに交換している。
1953年の車両称号規定改正に伴いモハ21・モハ22がモハ1600形、モハ20がモハ1700形となり、宇部線や福塩線で活躍。1955年には富山港線に転出した。
1957年までに廃車となり、モハ1601は上信電鉄に譲渡、モハ1700は豊川分工場の入換機として運用された後1964年に伊豆箱根鉄道に譲渡された。
鉄道省タ1600形
1929年に国鉄の前身である鉄道省が導入したタンク車。製造は新潟鐵工所と汽車製造。
二硫化炭素専用の10t積みタンク車で、新製またはタム300形・タム400形の改造で5両が製造された。
1968年までに全車が廃車となり形式消滅した。
国鉄タキ1600形(初代)
国鉄が1949年9月から11月にかけて導入した40t積みタンク車。
廃車になったC53の炭水車を改造した車両で、東洋レーヨンと若松車両の2社によって計32両の炭水車を改造した。
2両の炭水車を背中合わせにして永久連結し、炭庫を撤去し下部の水槽をタンクとして転用。2両1組で1両とされ、車番は「タキ16○○前」「タキ16○○後」と表記されていた。
内外輸送の私有車として糖蜜の輸送に使用されたが、1956年までに全車廃車となった。
国鉄タキ1600形(2代目)
タキ9900形の派生形式で1963年に新潟鐵工所で1両のみが製造された。
クレオソート専用の35t積みタンク車で、橋本駅を常備駅としていた。
当初は東日本タール製品工業所の私有車だったが同社の倒産に伴い1964年4月に日本トレーディングへ、さらに同年10月には関東タール製品に名義変更された。
1976年に廃車となった。
国鉄チサ1600形
1946年から1948年にかけてトキ900を改造して400両が製造された長物車。
製造は国鉄大宮・大井・松任・吹田・幡生・名古屋・鷹取・高砂工場。
進駐軍が持ち込んだ自動車を輸送するために改造された。
妻板とあおり戸を撤去して床板を交換、側面に柵柱を追加したが、足回りはそのままだったため特徴的な3軸構造は健在だった。
1968年時点で13両が残存し、全車両が北海道内限定運用に転用。1983年まで使用された。
1961年に3両が北海道拓殖鉄道に譲渡され同社チサ1形となった。
帝都高速度交通営団1600形
営団地下鉄が銀座線の輸送力増強のため1955年から1956年にかけて15両を導入した地下鉄電車。製造は近畿車輛・汽車製造・川崎車輛・帝国車輛工業・東急車輛製造。
車体構造と電装品は先に導入した1500形と同じく張り上げ屋根で片開き3扉、ツリカケ駆動にABF制御であるが、前面貫通扉を550mmから700mmに拡大している。
1956年に製造された後期車は丸ノ内線用の400形の設計思想を盛り込み屋根構造が1段となっている。
1500N形の導入に伴い全車両が編成の中間に組み込まれ、浅草側から3両目または4両目に組み込まれたが、運転台は撤去されなかった。
小田急電鉄1600形
小田急電鉄が1941年から1953年にかけて導入した電車。
開業時の小田急は初期投資の過大や昭和初期の不況の影響で苦境に立たされていたが、沿線に軍事施設が設けられたことから輸送量が増加。今度は車両不足に陥り鉄道省から木造車を払い下げるなど輸送力増強に努めていた。
その中で1941年に鉄道省から払い下げられた木造客車の台枠を流用してクハ600形3両を製造。このうちクハ602は適切な台車がなく運用開始が遅れ、1944年に経堂工場の火災で全焼したデハ1150形の台車を流用して運行を開始した。この時点で小田急電鉄は東京急行電鉄に合併しており、形式名をクハ1650形と改めていた。
これに並行して電動車の新造も認可され、モハ1000形として川崎車輛で製造が進められたが、開戦に伴い製造は遅れ、東急合併後の1942年から1943年にかけてデハ1600形として完成した。
デハ1600形は東急初代3000系などに似た窓の大きい軽快なデザインで、前面に貫通扉を備え全長が全長約15.8mと比較的短いコンパクトなスタイルだったことから当時の鉄道ファンからも喜ばれたという。
戦後の1952年から1953年にかけてクハ1650形7両が東急車輛製造と日本車輌で追加製造された。この7両のうち2両は旧型国電の戦災復旧車扱いとなっているが実際に流用したのはTR11台車のみで、完全新造扱いの5両も同様に国鉄から購入したTR11台車を装着していた。
またこの7両はデハ1600形と準同型だったが全長17m級に拡大されていた。
全車両が戦災を免れ、小田原線系統では主電動機が外されていたり機器不良を起こしていた車両、前述の工場火災などで休車扱いとなっている車両もあった中で全車両が稼働状態にあり、逆に空襲で壊滅的被害を受けた井の頭線の救援に駆り出されたり、同じく空襲の影響で稼働車両が減少し、国鉄型車両に対応できるよう車両限界の拡大工事が行われていた南武線に貸し出されたこともあった。
1948年には週末温泉特急の運行が再開されることになり、本形式も特急形車両の1900形が導入されるまで運用に就いた。
1950年には箱根登山鉄道への乗り入れ運用にも就いている。
クハ1650形の増備後は2両固定編成に改造され、1958年には更新修繕を実施。戦前製のクハ1650形は東急車輛製造で新造した車体に更新され、余剰となった車体は上田丸子電鉄に売却された。
他のABF車同様1960年代後半からは運転性能上の支障が多くなり、4000形にモーターを譲る形で1969年までにクハ1658を除く全車両が廃車となった。
残るクハ1658は振り子装置の試験車両として1971年頃まで使用され、1976年に廃車となった。
廃車後は岳南鉄道・三岐鉄道・近江鉄道などに譲渡されたほか、関東鉄道では付随車に改造され同じく元小田急の気動車であるキハ751・753形と編成を組んだこともあった。
岳南鉄道では1981年に東急5000系に置き換えられるまで運用され、廃車後は岳南富士岡駅および比奈駅の倉庫に転用された。比奈駅の倉庫は2011年に解体されている。
三岐鉄道では西武所沢工場で改造を施し両運転台化され、モハ140として1980年まで使用された。その後は近江鉄道に譲渡されている。
近江鉄道の車両は近江鉄道モハ200形・近江鉄道220形の記事を参照。
京成電鉄1600形
1953年に京成電鉄の特急「開運号」用に導入された特急形電車。製造は汽車製造。
詳細は京成1600形の記事を参照。
名古屋市交通局1600形
名古屋市交通局(名古屋市電)が旧型車置き換えのために1950年から1951年にかけて導入した路面電車車両。製造は日本車輌・新潟鐵工所・日立製作所・愛知富士産業。
1400形の流れを汲む12m級車体の中型車で、1500形と同スタイルだが中央扉を廃した2扉車となっている。
沢上・高辻・港・下之一色車庫に配置され、主に市南部の路線で運用に就いた。
1954年に下之一色線で日本初のワンマン運転が開始されたのに伴い対応改造を受けたが、ワンマン運転に適さない前後2扉配置のままだったこともあって76両中32両(下之一色線仕様15両、標準仕様17両)にとどまり、運用側からも「10mも離れている後部扉はミラーによる確認が難しい」と不評だった。
1972年までに全車廃車となった。
ワンマン改造された1603号車が刈谷市交通児童遊園に、ツーマン仕様のまま廃車となった1638号車が春日井市交通児童遊園に保存されていたが、1638号車は老朽化に伴い2009年に解体されている。
大阪市交通局1601形
大阪市交通局(大阪市電)が1928年に導入した路面電車車両。製造は藤永田造船所・梅鉢鉄工場。
大阪市電初の鋼製車で、ウィングばねの軸箱支持機構とリンク式揺れ枕釣りで支えられたコイルばねによる枕ばねの先進的な住友金属工業製KS-46台車を装備している。
内装も扉付近の床面に緩やかな傾斜を付けた構造でシートエンドパイプやスタンションポールに琺瑯びきパイプを採用していた。
天王寺・今里車庫に配置され、大阪市電の主要な路線で活躍。戦前の大阪市電の主力形式となった。地下鉄御堂筋線の開業前に地下鉄用の試験塗装が塗られたこともある。
大阪大空襲で半数以上の56両が被災廃車となり、残った45両は1601から順に改番し欠番を埋められ今里車庫に集中配置。1957年には後部扉を埋めて前中2扉構造に改造された。
末期は鶴町車庫に転出し野田阪神方面にも足を伸ばした。
1967年までに全車廃車となったが、一部は南海電気鉄道軌道線(現在の阪堺電気軌道)や広島電鉄に譲渡された。
大阪大空襲で被災したが唯一復旧された1699号→1644号が緑木検査場内の市電保存館に保存されている。
阪堺電気軌道に譲渡された車両はモ121形となり2000年まで運行され、最後まで残存したモ130が保存されている。
広島電鉄に譲渡された車両は750形に編入され、1987年までに全車廃車となったが花電車に改造された1両が現役である。
また広島電鉄では一部の車両が連接車に改造され2500形として運用されていた。