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鉄道車両において使用されている形式のひとつ。


内閣鉄道院2500形蒸気機関車編集

国鉄の前身にあたる鉄道院が1904年に導入したB6形蒸気機関車の1形式。

アメリカ・ボールドウィン社製で計166両が製造された。

大元は日露戦争開戦時に陸軍満州での兵站輸送を目的に発注したものだが、実際に日本に到着したのは終戦間際の1905年9月だったとされる。

戦後は余剰となった車両が台湾総督府鉄道に6両が譲渡されたほか、1930年代には主に鉱山鉄道に譲渡された。

明治製糖を経て三美運輸に譲渡された2649号機が北海道江別市内の日本鉄道保存協会で保管されているが非公開。


鉄道省ツ2500形編集

国鉄の前身にあたる鉄道省が1932年から1946年にかけて導入した有蓋車通風車)。製造は汽車製造日本車輌川崎車輛新潟鐵工所帝国車輛工業近畿車輛新木南車輛

国鉄初の鋼製通風車で以後の通風車の基本スタイルとなった。

通風機は開閉可能であり通風機を閉じることで通常の有蓋車としても使用可能だった。

野菜果物の輸送に使用されたが二段リンク式への改造による最高運転時速75kmへの対応が不適だったことから1968年までに運用を離脱。1983年に正式に形式消滅した。


鉄道省チキ2500形編集

鉄道省が1943年に導入した長物車。製造は川崎車輛

1928年から1929年にかけて導入した35t積み長物車チキ1000形の同型車だが、もともと樺太庁鉄道向けに製造されたものを内地に転用するために鉄道省に編入した車両である。

そのため連結器の高さが樺太庁鉄道の仕様に合わせられていたほか、戦時中に製造されたため側面の柵柱受けがチキ1000形の片側12か所に対し片側8か所と減らされている。

戦後は他のチキ1500形系列と共通で運用され、1977年までに全車廃車となった。


鉄道省タサ2500形編集

鉄道省が1938年に導入したタンク車。製造は新潟鐵工所

濃硫酸発煙硫酸専用の20t積みタンク車で製造数2両のレア形式。

日本鉱業の私有貨車で、1974年に全車廃車となり形式消滅した。


鉄道省タキ2500形編集

初代と2代目が存在する。

初代は鉄道省が1930年に導入したタンク車。製造は川崎車輛

濃硫酸専用の25t積みタンク車で、製造数2両のレア形式。

製造からわずか8ヶ月でアンモニア水専用のタ1800形へと形式変更された。


2代目は初代同様濃硫酸専用25t積みタンク車として1935年から1937年にかけて導入された。製造は大阪鉄工所新潟鐵工所汽車製造

7両が製造されたが、1942年に5両が苛性ソーダ専用車タサ1300形に改造され、残る2両は1968年に廃車となり形式消滅した。


国鉄ホキ2500形編集

国鉄が1967年から1969年にかけて導入したホッパ車。製造は日本車輌

大型化を図った結果地上設備との適合性が悪かったホキ2900形・ホキ2000形(初代)に対し、地上施設との適合性を重視して再設計が行われた。

青梅線南武線東海道本線美濃赤坂支線などで石灰石輸送に使用された。東海道本線で使用されていた車両は焼結鉱用の粉末状石灰石も輸送していたため、飛散防止のために天蓋を設けていた。

1999年までに形式消滅したが、一部の車両はホキ9500形に編入改造された。

ホキ2500の記事も参照。


国鉄ヨ2500形編集

国鉄が1947年に導入した車掌車。製造は日本車輌汽車製造帝国車輛工業ほか。

GHQからの命令ですべての貨物列車に車掌車を連結する必要があったが、当のGHQが新規の車両製造を認めなかったことから明治期に製造された2軸有蓋車のワ1形を改造して導入したもの。代用車掌車という通称があった。

物資不足ということもあって改造は必要最低限であり、内部の設備も木製で粗末な作りだった。走行装置も当然ながら明治期のもので乗り心地は非常に悪かった。

あまりにも急ごしらえの改造だったことから1948年には側引戸や階段などの改造が施されたものの、それでも窓は片側1枚と暗い室内にはすき間風も吹きこむ劣悪な車内環境から「緩急車」をもじって「寒泣車」と揶揄された。

ヨ3500形などの新造車掌車が出そろってきたことから1959年までに全車廃車となった。


国鉄ナニ2500形編集

国鉄が1949年に導入した荷物車

大元は戦前に製造された有蓋車ワキ1形で、戦後に連合軍専用列車のホミ810形販売車・ホミ830形冷蔵販売車・ホシ860形部隊料理車への改造を経て国鉄に返還されたものである。

車掌室を設けて専用の開き戸を設けたのが外観上の変更点。種車には側面の引き戸が片開きになっている車両もあったが両開きに改造されている。

ワキ1形自体が客車との混結を想定して設計されていたがゆえにできた芸当だが、外観上は貨車そのものの車両が急行列車に連結されているという奇妙な光景を現出させていた。

改造時はナニ6330形とされ、松川事件の当該車両となったナニ6336が廃車。1953年に車両称号規定改正によりナニ2500形となり1967年まで運用された。

その後5両が新幹線救援車935形に改造され1977年まで在籍した。


国鉄リ2500形編集

国鉄が1953年にトム1形およびトム5000形を改造して導入した土運車

種車中央部の開き戸をあおり戸に変更し作業の効率化を図っている。

外観は無蓋車そのものだが用途が雪捨用とされたため土運車に分類された。

北海道内に配置され雪捨用車として運用されたが、種車が大正初期に製造された車両だったこともあって老朽化しており、改造からわずか1年で廃車になった車両もあった。

1960年までに全車が廃車となり形式消滅した。


京王帝都電鉄2500形編集

大元は京王電鉄の前身にあたる京王電気軌道が1939年から1940年にかけて導入した501形と1931年に雨宮製作所で製造された貴賓車500号。500号は雨宮製作所が最後に製造した車両である。

500号は14m級半鋼製車体の2扉車で、京王電気軌道の車両としては唯一乗務員扉を備えていた。

窓上にアーチ状の飾り窓を設けるなど手の込んだ造形だったが、実際には中央本線東浅川駅が開業したことからあまり使用されず、1938年に3扉化されて一般車に格下げされた。

501形は4両が製造されたが、501号は雨宮製作所製電動貨車101号、他3両は新潟鐵工所製電動貨車の改造車で、車体は501号は木南車輛製造製だが他3両は梅鉢鉄工所製と形態に差異があった。

14m級半鋼製車体を備えた3扉車という特徴は一般車改造後の500号と共通しており、モーター2個を備えている点も共通する。500号の続番が与えられたのはそのためといわれている。

1944年に東京急行電鉄併合に伴いいずれもデハ2500形となったが、1945年5月の東京大空襲でデハ2500とデハ2501が焼失、1946年1月の桜上水車庫の火災でデハ2502が焼失。京王帝都電鉄の分離までそのまま休車状態となっていたが、1949年に日本車輌で車体を新造し復旧した。

戦災を逃れた2両も前照灯の移設や方向幕廃止、ドアステップ撤去、パンタグラフの交換などの改造が施された。

当時の京王では3両編成対応工事として従来車のブレーキシステムをSME直通ブレーキからAMM自動空気ブレーキに変更しドアを自動化する工事を行っており、復旧車3両は復旧時点で、その他の2両は1950年から1951年にかけて工事が施行された。

京王線の1500V昇圧が進められる中、本形式はその対象から外れたが新宿駅初台駅間の地下化工事も並行して行っている京王の財政事情もあって2000系の中間付随車に改造。1960年にサハ2500形としてデハ2504以外の4両が2010系の中間に組み込まれた。

デハ2504はデハ2307へと改番されてデハ2300形に編入された。

中間車改造車は丸囲みの「t」、通称スモールマルティーと呼称され、2700系を改造したラージマルティーに置き換えられる1968年まで活躍した。

デハ2307は同じく2010系の中間車であるサハ2573に置き換えられ1962年に廃車となった。


東京市電気局2500形編集

阪神電気鉄道1形、東京市電気局2500形電車 ※ イラスト下の車両

東京市電気局(東京市電)が関東大震災で焼失した電車を補うために30両を導入した路面電車車両。製造は日本車輌

大元は1905年に製造された阪神電気鉄道1形で、路面電車でありながら軌道法の法定速度を大幅に上回る猛スピードで爆走していたインターアーバンである。

東京市電・都電を通して唯一他の事業者から譲渡された車両だったが、阪神時代に酷使していたこともあって老朽化が深刻化しており、機器類を交換しても故障が相次いだこと、全長約13.5mの比較的大型な車体は東京市電では持て余しがちだったこともあって就役からわずか1年ほどで廃車となった。

当時の電気局長長尾半平の名を取って「ハンペイ電車」という通称があったが、これは身の丈に合わない電車を購入した長尾の責任問題を揶揄したものとされている。

書類上の製造年は1912年となっていた。


東京都交通局2500形編集

東京都交通局(都電)が1958年に導入した路面電車車両。

8000形同様コスト削減を目指し、バス車体の工法を採用した。


東京都交通局2500形を参照。


名古屋鉄道ク2500形編集

1942年に製造された名古屋鉄道初代3500系の制御車。


名鉄3500系を参照。


広島電鉄2500形編集

短時間挑戦 294

広島電鉄が1961年から1967年にかけて導入した路面電車車両。

当時1両編成だった2000形では輸送量不足が懸念されたことから2車体連接車として製造された。広島電鉄としては初の新造連接車である。

1961年に製造された2501-2502号と2503-2504号はナニワ工機製、2505-2506号以降の3編成は導入コスト削減を目的に自社工場で製造された。

しかし当時広島市で地下鉄の建設構想があり、路面電車そのものの存続が危ぶまれたことから製造は5編成で打ち切られた。

その一方で宮島線の木造車の老朽化が深刻化してきたこと、宮島線の市内線直通需要が増加してきたことから大阪市電1601形4両を譲り受け、これを連接車に改造、2500形に編入した。連接化改造を除けば原形を保った外観だったため新造車とは大幅に異なる外観となった(上画像の車両)。

その後3車体連接車の増備に伴い本形式の新造車は3車体連接車に改造され、3100形と改称された。大阪市電の改造車は1985年に廃車となった。


島原鉄道キハ2500形編集

正面画 島原鉄道キハ2500形

老朽化したキハ55形・キハ26形キハ20形の置き換えを目的に1994年から2000年にかけて導入した島原鉄道の気動車。

新潟鐵工所NDCシリーズ第2世代に当たる車両で、JR九州キハ125形と同型。

2001年に保安ブレーキを二重化した改良型キハ2550形が製造された。

2009年に2512号が踏切事故で廃車、代替として2553号が新造されている。

2013年に2553号以外の全車両に自動ドレン分油器、及び除湿装置にヒーターが設置され、それぞれキハ2500A、キハ2550Aへと改称されている。


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