東京市電とは、1911年に民間3事業者を東京市が買収、公営化して誕生した市電。
1943年に東京都政が施行されると、現在の名称である東京都電車(都電)となった。
東京市電誕生まで
東京馬車鉄道
東京の最初の都市交通は明治初期の日本最初の鉄道の開通とほぼ同時期に運行を開始した乗合馬車と人力車とされる。1876年ごろには乗合馬車は170台、人力車は2万4000台以上が活躍していたといわれている。
そこで1880年2月に新橋から日本橋本町、上野、浅草を経由して日本橋本町に至る馬車鉄道が計画され、同年12月に「東京馬車鉄道」が設立された。日本初の私鉄はこの東京馬車鉄道という説がある。
1882年6月25日に新橋~日本橋間が開通。同年10月には全線が開業した。東京の人口増加や上野・浅草への行楽輸送などにより成功をおさめ、多客時には1時間に6~70台が運行される高頻度運転が行われた。
1897年12月には品川~新橋間に品川馬車鉄道が開業したが、1899年に東京馬車鉄道に吸収合併された。
しかし馬車ということはそれを引くウマが必要になる。運行本数が増えるにつれて馬の飼育費用も増大し、蹄によって路面も損傷、さらに馬糞交じりの砂塵が沿道に飛び散ることから沿線住民から苦情が殺到していた。
三社時代へ
そこで近代的な交通機関として路面電車の計画が持ち上がり、1889年に東京電燈関係者らによって政府に敷設計画が出願されたが、当時電気鉄道は誕生して間もない技術であり時期尚早とみなされてしまった。
そこで東京電燈の藤岡市助は1890年に東京・上野公園で開催された第三回内閣勧業博覧会の会場に170間(約300m)の軌道を敷設、米国視察の折に購入したスプレーグ式電車のデモ走行を行った。
これを機に1895年の京都電気鉄道を始め各都市で路面電車が敷設されるようになった。
しかし東京ではこの間実に35社もの会社が市内に路面電車を出願。特許権を巡って争っていた。許認可を巡って政争が起きたり路面電車をそもそも民営とするか市営とするかでも議論が紛糾した。
最終的には対立していた企業の中でも特に有力だった東京電車鉄道・東京電気鉄道・東京自動鉄道が合同した「東京市街鉄道」と信濃町から青山・渋谷・池上を経由して川崎に至る路線を計画した「川崎電気鉄道」、そして既存の東京馬車鉄道の3社に特許が与えられることとなった。
- 東京電車鉄道
東京馬車鉄道は1903年8月に品川~新橋間を電化、社名を「東京電車鉄道」へと改めた。1904年3月に全線の電化が完了して馬車鉄道の営業は終了した。
東京電車鉄道は「東電」あるいは「電鉄」、果ては単に「電車」という愛称で呼ばれていた。
- 東京市街鉄道
1903年9月には東京市街鉄道が数寄屋橋~神田橋間を開業。やがて日比谷、両国、新宿へも路線をのばし、3社中最大勢力となった。
通称は「街鉄」。
- 東京電気鉄道
残る川崎電気鉄道は社名を東京電気鉄道へと改め1904年12月に土橋~御茶ノ水間を開業。皇居の外堀に沿って飯田橋、赤坂、四谷を経由して土橋に至る環状線を建設した。
外堀に沿って敷設されたことから通称は「外濠線」だった。
3社によって路線網は整備されていったが、3社が別々に運賃を徴収していたため乗り換えの度に運賃がかさむことが問題となった。折しも日露戦争に伴う増税で3社側も経営の負担が高まるばかりであった。
東京鉄道への合併
そして1906年9月に3社は合併、「東京鉄道」へと改められた。しかし同時に運賃が3銭から4銭に値上げされることとなり市民は猛反発。
値上げに対する反対運動が起き、やがてそれがエスカレートして暴徒化した市民が電車に投石するなどの事件が発生した。
このころにはすでに大阪市が市営電車を開業するなど路面電車の市営化の動きが広まっており、東京でも路面電車を市営化すべきとの世論が高まっていた。
市営化
1907年には市営化推進派だった尾崎行雄市長の音頭で本格的に東京鉄道の市営化に乗り出し、一度は東京鉄道との間で買取の仮契約が締結された。しかし内務省の認可が下りなかったことからこの仮契約は破棄されてしまった。
さらに同年12月には東京鉄道が運賃の更なる値上げを申請したことから再び市民の間で暴動が起きてしまい、政府も本格的な対応を迫られることとなった。
1911年に買取仮契約が締結。月末に政府からも認可が交付され、翌1911年8月1日から東京市内の路面電車は東京市電気局、通称東京市電へと引き継がれることとなった。