東京都交通局5500形
とでんごせんごひゃくがた
1953年より東京都交通局(都交)が都電に導入した路面電車。都交においても、当時アメリカで一世を風靡していた高性能路面電車「PCCカー」の導入が検討されたことがきっかけとなり、輸入した技術ならびに国産技術を用いて製造された。2024年現在の都電の車両は、すべてWN駆動車であり特段珍しい存在ではないが、当時としては時代の最先端を行く存在であった。それゆえに、アナログな車両が多かった当時は扱いきれないところが目立ち、1967年の都電第一次撤去と運命を共にした。
ここでは純粋なPCCカーとして製造された5501号と、国産技術を用いて造られた5502号-5507号を分けて解説する。
両者に共通する特徴としては、都電初の前中扉をもつ全金属製車体を採用し、前面2枚窓で流線型の前面形状をもつ。尾灯は角形のものを採用し、系統板はアクリル製の電照式(5501号-5502号はひし形で、5503号以降は7000形同様の四角形)を初採用した。車内はファンデリアを使用した換気装置をもち、都電で初めてマイクを使用した放送装置を採用した。車輪も全車が防振ゴムを用いた弾性車輪を採用している。形式は5501号と5502号が5000形と同じ車幅であったことから、5500形と命名されたが、車体長は都電史上最長の14.3m(5503号以降は14.36m)であった(参考までに、現行の8900形は全長13mである)。
5501号
1953年からPCCカーの研究を行っていた都交であるが、当初はGE(ゼネラルエレクトリック)およびWH(ウェスティングハウス)式の完成車を1両ずつ輸入することを目論んでいた。しかし日本の工業技術の視察に来た、アメリカ人技術者のデビス氏により「日本の工業技術をもってすればPCCカーを製造可能」との意見により、技術を輸入したうえで国内で製造することとした。そこで都交、運輸省(現在の国土交通省)、三菱電機、住友金属(現在の日本製鐵)、ナニワ工機などの官民合同で委員会を構成し、WH式のパテントを購入したうえで製造に着手した。
しかし、送られてきた図面は初見の技術ばかりで、苦心して製造した部品の取付にすら苦労するほどで、製造にはとても難儀していた。またアメリカ式で都合の悪いところを国内用へ手直しする必要もあり、それゆえに完成予定が当初より遅れることとなり、登場したのは1954年のことであった。
アメリカから購入したパテントをもとに造られたため、運転操作は自動車のごとくペダルで行う仕組みであったほか、台車はインサイドフレーム式のFS-501形を装着する。駆動装置は直角カルダン駆動を採用し、車体裾は一直線状で、台車等の床下機器をすべて覆い隠すような形状であった。
これゆえに1両だけであったことも相まって、運転操作に慣れない乗務員からは不評であったという。またパテントの購入の際に予算不足のため、電装品の艤装に必要な分を購入しなかったことから、性能が中途半端なものとなってしまい、機器類の故障も多いため、5502号や6500形6501号、7000形7020号などとともに休んでいるときのほうが多かったという。そのため1960年の7月から10月にかけて、芝浦工場にてマスコンとブレーキを一般的な電車と同じ仕様へと改修を行い、以後は乗務員にも喜ばれて使用されたという。
1967年にハイポイド・ギアの故障で長らく運用を離脱するも、第一次撤去直前の11月に復帰。12月9日の最終電車で有終の美を飾った。
5502号-5507号
上述のとおり、5501号は製造に難儀した影響で予定までの完成が間に合わず、事前に発表していたお披露目までに用意できる見込みが立たなくなっていた。そこで都交の車両課で開発していた防音台車・WN駆動を採用した高性能車(後述の6500形)の機器を用いて、5501号に準じた車体を組み合わせたPCCカーを登場させることとなり、1953年11月に5502号車が登場した。
運転台機器は一般的なマスコンとブレーキによるものであり、台車も国産のD-19形(FS-351形)が採用された。車体裾は台車構造の都合から、そこだけ切欠きが入る形状であった。この車は製造メーカーの頭文字を採って「MSN車」と呼ばれたという。
その後、1960年に5502号の増備車にあたる5503号-5507号が導入された。これらは台車が改良型のFS-353形に変更されたほか、主電動機出力も41kWでは過大と判断されたことから、約3/4の出力である30kWにデチューンされたものが採用された(ただし1台車あたり2基装備していたため、編成出力は荒川線で使用される現行車両と同一の120kWである)。車体も窓の間隔が狭くなり、多少はスマートな見た目になっている。また上述のとおり、系統板も7000形と同一の四角形へ変更されている。
5502号車は1965年頃に運用を離脱していたが、第一次撤去を前に復帰、1967年12月9日の最終運行で有終の美を飾った。
7両とも当時としては特殊な構造であったため、芝浦工場にほど近い三田車庫へ配置された。また大柄な車体であったことや、メインストリートを走らせたい思惑から、1系統(上野駅-日本橋-銀座-三田-品川駅)でのみ運用された。
当初は全車通常型のパンタグラフを使用していたが、1961年に5503号車がZパンタへ変更されたのを皮切りに、1963年までに全車がビューゲルへ変更されている。
特殊車であったことから、都電の撤去が取り沙汰された際の車両計画においては、急速に撤去が進んだ場合は廃車になると見込まれていた。しかし1967年の都電第一次撤去で走行していた1系統が廃止されることが決定してしまい、特殊な性能のほか大柄で他線区への転用が困難な本形式も、それと運命を共にした。
なお、都電にふたたびWN駆動の高性能車が導入されるのは、1990年の8500形まで待つことになる。上述のとおり、現行の車両はすべてWN駆動車となった現代の都電の状況からすると、本形式は生まれた時代が早すぎたのかもしれない。
トップナンバーの5501号は、しばらく三田車庫内で保管されたのち、上野公園の不忍池付近に静態保存された。しかし、屋外での保存だったことや、あまり整備が行われなかったことから荒廃が進んでしまい、1989年にひとまず荒川車庫へ回収され、車庫の裏手に保管された。1991年にはいったん整備が行われたものの、倉庫として用いられたこともあって再度荒廃してしまい、車内の部品も愛好家向けに売却される始末であった。その後2007年に再整備のうえで、荒川車庫に隣接する「都電おもいで広場」内で静態保存されている。このときに片側の運転台のみ登場時のペダル式の運転台機器が復元されているが、車内の座席やもう片側の運転台等は撤去され、ギャラリーとして用いられている。2020年6月からは片側の運転台が撤去された跡に、7000形の廃車発生品を用いたシミュレータが設置されている。
6000形の最終増備車6291号として計画され、住友金属製の防音台車と三菱電機製のWN駆動を採用した高性能車の試作車として計画されていた。しかし先述のとおり本形式のために用意されていた機器類は5502号へ流用されてしまい、完成した車体はしばらく日本車輌の工場内で保管されていた。その後、1954年に再度製造した機器を組み合わせて登場したため、当初の予定より大幅に遅れて登場した。当初は付随車を連結した、いわゆる「親子電車」の試作車として計画されていたが、信号の通過時間の兼ね合いから中止となってしまった。
※ ただし親子電車の計画に関する公文書は確認されておらず、どのような計画だったかは不明である。
6000形と比して前面は5500形や7000形のような2枚窓となり、側面にスカートが装備された(のちに撤去された)ほか、ビューゲルを使用していながらレトリバー(トロリーキャッチャー)を装備していた(ゆえに別形式の6500形に区分された)。
本形式も特殊車であることから三田車庫へ配置され、主に1系統で使用されていたが、1964年からは2系統や37系統でも使用されていた。その後三田車庫が1967年の都電第一次撤去の影響で廃止されることが決まると、本形式も同時に廃車された。
こちらは検査期限切れになってしまったようで、12月9日の最終運行には充当されなかったとされる。