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本稿では、ほぼ同一の車体をもつ更新3000形更新4000形についても記載する。

概要

1947年より東京都交通局都電に導入した路面電車。総勢290両の大所帯で、戦後の都電最盛期から荒川線成立まで、長い間「都電の顔」として活躍した。

太平洋戦争の終了後、都電においても例に漏れず、多くの被災車や老朽化した木造車を抱えており、早急な体質改善が求められていた。そこで戦災車の復旧名義で登場したのが本形式である。長きにわたって増備が行われたため、後述のような形態差が多いのが特徴。後天的な改造も行われたため、同じ製造ロットの車両でも、異なる形態差を有する。

また、戦前からの3000形4000形の車体も、本形式とほぼ同一のものへ更新することとなり、それぞれ3000形と4000形の更新車となった。

3形式ともに丸みを帯びた前面で前面窓3枚、正面上部に行先表示器、正面下部に1個の前照灯を備える「昭和の路面電車」を象徴するスタイルの車両であり、他の鉄道事業者の路面電車にも影響を与えた。

製造年次による形態差

ここでは製造年ごとの形態差について記す。

1947年度製造車

6001号-6050号

戦時中に被災した3000形の更新名義で登場した。終戦とはいえ物資に乏しい時代だったため、外板厚1.6㎜で、側窓10枚、集電装置トロリーポールであった。台車は種車が使用していたD-10形を継続して使用する。前面の救命装置には在来車同様のストライカーとロックフェンダー(人間を巻き込んだときに電車を緊急停止させる装置)が装備されていたが、翌年から現在の簡易排障器へと交換された。当時は設計図を細部まで煮詰めていなかったため、下記に代表されるメーカーごとの微妙な形態差が存在した。

  • 6001号から6005号は内装(デコラ)の一部にジュラルミンを使用したため、「ジュラルミン電車」と呼ばれた。
  • 6006号-6010号と6041号-6045号はスチールサッシのメーカーが造ったため、内部に製造番号の刻印が入ったアルミ製の銘板が取り付けられていた。

製造当初は全社が三田車庫へ配置された。

1948年度製造車

6051号-6134号

救命装置が簡易排障器へと変更された以外は、前年度の車両とあまり変化はないが、前面のバンパー中央へ車庫内で接触した際に、前照灯のガラスが割れるのを防ぐため、厚さ50㎜の木片を追加したため、図面上で全長が100㎜長くなっている。またこの当時も引き続き物資不足であったため、前年度の車両同様に側窓下段にジュラルミンの板を嵌めた車両があったという。

製造当初はほとんどが青山車庫、一部は南千住車庫へ配置された。

1949年度製造車

6135号-6174号

外板厚が2.3㎜へ変更され、ビューゲルの採用に合わせて車体中央にビューゲル台が設置された。またメーカーごとの形態差もあまりなくなった。

  • 一番最後まで現役だった6152号はこのグループである。

製造当初は青山車庫、南千住車庫のほか大久保車庫にも配置された。

1950年度製造車

6175号-6241号

台車が旧来のD-10形からD-16形へ変更され、乗り心地の向上が図られた。つり革に「リコ式」吊り手(営団地下鉄などで採用された発条仕掛けのもの。6175号-6181号を除く)が用いられたほか、電灯にグローブが付いたり、窓に日除けが付いたり、シートが改良されたりするなど、質の向上が見られる。

  • 6214号は室内灯に蛍光灯が初採用されたり、床材にゴムタイルが使用(のちに撤去)されたりした。

製造当初は三田車庫、青山車庫、南千住車庫へ配置された。

1952年度製造車

6242号-6290号

25両ずつ2回に分けて発注されたが、ラストナンバーの6291号となるべき車両は高性能車の試作車・6500形として登場したため、本稿では除外する。このグループで側窓が9枚となり、台車もD-17形へ変更された。最後に製造された車両ながら次の形態差が存在する。

  • 6281号-6290号は交通局芝浦工場で製造され、屋根が平たいため遠くからでも判別できた。
  • 上記のうち6289号と6290号はドアエンジン付きで、後者はさらに方向幕の照明にも蛍光灯を採用した。

製造当初は目黒、広尾、早稲田、大塚、荒川以外の車庫へ分散配置された。

さらなる形態差

本形式は使用条件に合わせた改造が逐一行われた結果、次のような後天的な形態差を生み出した。

ビューゲル化

都電では1949年からビューゲルが使用されたのは先述のとおりであるが、それに伴いトロリーポールを使用した車両は交換が進められた。その際には1エンド側のトロリースタンドに直接ビューゲルを取り付けた車両が存在したり、ポールとビューゲルを両方乗せた車両が存在したりした。

また1958年以降の巣鴨車庫所属車13両は、架線の都合からZパンタが採用されており、これも1エンド側に取り付けられていた(ただし3両を除いて中央移設時にビューゲルへ変更)。

ドアの交換

元々装備されていた外板に鋼板を使用した「フラッシュドア」を、鋼板の貼られていないパネルドアへ交換したものがあり、2枚1組になっているうちの片側だけ交換したものが多かったという。

更新修繕

本形式がさらなる形態差を生み出すきっかけでもある。

1961年6月以降に初期製造車の車体に疲労が見られたことから、以後は適宜修繕や大規模な更新工事を施すこととなった。

1961年度には3両が施工された。

  • 1961年9月に検査を受けた6044号が腐食箇所の修繕のほか、窓下の継目板をなくす工事が施工された。
  • 1962年3月には6038号と6042号が出てきたが、これらに変化はなかったという。

1962年度には、芝浦工場と交通協力会で計15両更新されたが、それぞれ次の形態差があった。

  • 芝浦工場製の5両(6037号、6043号、6049号、6050号、6099号)は窓下の継目板の消去のほか、方向幕上へ縁の追加や妻面上の水切りの撤去、コードズリが左窓上だけになるなどがなされた(後ろ2つの改造は6043号、6050号、6099号のみ施工)。
  • 交通協力会製の10両(6040号、6051号、6084号、6091号、6098号、6102号、6103号、6108号、6109号、6111号)は羽深式と称される大型方向幕の取付が行われ、6051号の側面上部の水切りが撤去された以外は変化がない。

1963年度には交通協力会と芝浦工場で11両に施工された

  • 6045号、〇6068号〇6077号〇6079号〇6080号6081号〇6089号6107号6114号6115号が対象で、太字のものは交通協力会製で、窓保護棒が追加されている。また〇付のものは窓下継目板が消去されている。

1965年度には芝浦工場と大栄車両で16両に施工された。

  • 芝浦工場製の6両(6070号、6071号、6106号、6122号6128号、6129号)は1962年度更新車とほぼ同様のメニューで施工されたが、方向幕に縁が付かず、妻面窓上水切りもそのままであった。太字のものは側窓がアルミサッシ化されている。
  • 大栄車両製の10両(6087号、6092号、6093号、6096号、6100号、6105号、6113号、6123号、6124号、6127号)は1963年度に交通協力会で施工されたものと同様のメニューに加え、側窓のアルミサッシ化や、コードズリの形状変更も施工された。また6096号-6123号の5両は雨どいが窓下までで、ほかはバンパー上まであった。

1966年度には芝浦工場と大栄車両で15両に施工された。

  • 芝浦工場製の10両(6053号、6059号、6060号、6063号、6065号、6069号、6074号、6088号、6116号、6119号)は、1965年度更新車と同様のメニューであったが、太字の車両はキャピタルクリーム地の旧塗装で出場している。
  • 大栄車両製の5両(6052号、6054号、6061号、6076号、6086号)も芝浦工場製同様に1965年度更新車と同様のメニューが施工された。

これ以降は都電の撤去が行われたため、更新工事の施工は行われていない。ただし側面窓下の継目板の消去は継続して行われたという。

このほか1959年度より、屋根に水切りの取付が施工されており、こちらは未更新車にも取り付けらている。施工したのは芝浦工場と交通協力会で、やはり両者で仕上がりに微妙な差異が存在した。

運用

上記の通り、製造当初は目黒、広尾、早稲田、大塚、荒川以外の車庫へ分散配置された。その後は転属によって広尾車庫や荒川車庫にも配属されるようになり、元西武新宿軌道線ゆえに狭軌1067㎜であった杉並線(14系統)と、江戸川区内で離れ小島的な一之江線(26系統:トロリーバスに置き換えられて廃止)以外のほとんどの線区(ただし目黒、早稲田、大塚には一度も配属されていないため、当然それらの車庫が所轄の路線では使用されていない)で活躍した。転属は3~5回は普通で、中には10回も転属したもの(荒川車庫で保存されている6086号など)がいれば、一度も転属していないものが11両(6012号、6182号-6188号、6190号、6244号、6260号)存在する。

都電の撤去計画が浮上したころには、まず本形式の未更新車を1000形などの小型ボギー車とともに淘汰し、次いで本形式の状態不良車を3000形のそれと合わせて淘汰する車両計画が立てられていた。

その後は都電の撤去に伴いだんだんと数を減らしていき、1972年の第五次撤去終了間際の荒川車庫には6045号6063号6077号6080号6086号、6152号、6166号、6167号、6171号、6175号、6177号-6179号、6181号、6189号、6191号、6194号、6196号、6209号-6213号、6219号、6229号、6234号(太字は更新車)が残存した。しかしすぐに整理されてしまい、その後は6063号6080号6086号、6152号、6181号、6189号、6191号、6209号-6213号、6219号が残存し、7000形7500形とともに活躍した。

1977年に始まった荒川線のワンマン運転開始に伴う車両改造のころまでは運用に入っていたが、ワンマン運転開始後は後述の花電車用に改造された乙6000形と、応急車として唯一残存した6152号を除いて廃車された。

乙6000形

荒川線新装営業を記念した花電車を運転することが決定し、1978年に車歴の新しい6209号-6213号の5両を種車に改造された。他都市の花電車専用車同様に、車体の上半分を撤去して下半分だけとし、必要に応じて装飾を施して使用した。なお、都電では無蓋電動貨車に「乙」の形式を与えており、この車両も無蓋電動貨車ということになる(ちなみに、かつては花電車専用の「花形」が存在しており、これは普段は芝浦工場内の入換機械扱いでイベント時のみ車籍が与えられていたとされる)。

花電車としての使用が終了後は荒川車庫で保管されていたが、急場しのぎで無理矢理改造した結果、車体にねじれが生じたらしく、1981年に廃車・解体されている。

6152号

ただ1両のみ応急車として救援や除雪用に残された6152号であるが、1986年に映画『瀬戸内少年野球団』の撮影に使用されたことがきっかけで、保安ブレーキの設置や車内の営業運転に必要な仕様へ改修されたうえで、営業用として復帰した。その後1988年にアルナ工機にて更新工事が施工され、MGの設置や直管蛍光灯への交換、ドアエンジンの撤去(手動ドアへ復元)を行い、塗装を昭和30年代の緑とクリームへ変更した。1993年には蛍光灯をカバー付き輪形蛍光灯へ交換、1994年には列車無線の設置など、時代ごとに改修を行いイベント用として活躍していた。この時期に塗装の緑色がやや淡い色合いに変更されている。

前照灯が白熱球1個であることから「一球さん」という愛称が付けられ、列車無線の識別番号も語呂合わせで「93」とされていた。

しかし2000年に入り、京福電気鉄道福井支社(現在のえちぜん鉄道)にて予備ブレーキがない車両が衝突事故を起こした影響で、非常時における安全性の問題が指摘され、改修には3000万円の費用が必要であった。交通局は財政難でこの費用を負担できないため、止む無く2001年をもって引退させることを決定。これにて都電における本形式の運用にピリオドが打たれた。

廃車後は荒川車庫内での保存も検討されたが、その際も5000万円の費用が必要なことから断念。インターネットで譲渡先を募集したところ、沿線に所在するあらかわ遊園からオファーがあったことで、同園での保存が決定。2003年から現在に至るまで保存されている。

2022年のあらかわ遊園のリニューアルに伴い車内はカフェに改装され「カフェ193」の屋号で営業している。「193」の由来は前述の愛称「一球さん」である。

なお同車はもともとD-10形台車を装着していたが、応急車になるにあたり比較的新しいD-16形へ交換されており、これは6191号から流用されたものと考えられている。

保存車

現在までに次の車両が保存されている。

  • 6001号…個人が保存していたが、現在は撤去。
  • 6009号…埼玉県川口市の芝中田南公園で集会室として使用されていたが、現在は撤去。
  • 6063号…文京区の神明町電車庫跡公園にて乙2形と保存。2023年に美しく整備された。
  • 6080号…北区飛鳥山公園にて保存。窓ガラスが撤去されるなど状態はあまりよくないが頻繁に再塗装が行われている。
  • 6081号…錦糸町駅高架下の寿司店で前頭部のみ保存されていたが、現在は撤去。
  • 6086号…個人宅にて保管されていたが、2008年に荒川車庫へ搬入され以後同所で保存。綺麗な状態で保存されている。
  • 6152号…荒川区のあらかわ遊園で保存。車内をカフェに改装し「カフェ193」の屋号で営業している。
  • 6159号…町田市内の幼稚園にて利用されていたが、現在は撤去。
  • 6162号…豊島区の南大塚公園で保存。前面方向幕が埋められるなどあまり状態は良くないが何度か再塗装が行われている。
  • 6175号…三鷹市内の団地で集会室として使用されていたが、現在は撤去。
  • 6177号…西東京市内でプールの更衣室として使用されていたが、現在は撤去。
  • 6181号・6189号…静岡県熱海市熱海城で保存されていたが、1993年頃の崖崩れによる損傷で撤去(駐車場の工事に伴い撤去されたという説もある)。
  • 6191号…府中市の府中市郷土の森公園で保存。ただし整備が中断しているため状態はよくない。台車が6152号と振り返られたらしく、D-10形を装着している。
  • 6219号…埼玉県宮代町東武動物公園にて保存していたが、1998年頃撤去。ウサギ小屋として使用されていたといわれている。
  • 6263号…世田谷区内の個人が保存していたが、現状は不明。
  • 6267号…あきる野市内で個人が6272号と保存していたが、現在は撤去。
  • 6272号…府中市内の個人が保存していたが、あきる野市内へ移転し6267号と保存されたのち現在は撤去。

更新3000形

1949年から1953年にかけて、戦後間もないころに老朽化した車体を使用していた木造3000形を6000形に類似した車体へ更新して登場した。種車には木造3000形のほか、1400形や4000形、荒川線の前身にあたる王子電気軌道の車両も使用された。製造は芝浦工場のほか、民間6社が担当した。

改造初年に3001号が大塚車庫へ投入されたのを皮切りに、まずは213両が駒込、三ノ輪、早稲田、大久保、荒川、柳島、錦糸堀、神明町へ配置された。番号を車庫別に揃える計画で投入されたものの、目先の体質改善を優先したためひとまずは適当に投入し、後から整理を行うといったこともなされた。このため転属の回数も多く、8-10回も転属したものがいる反面、やはり一度も転属していない車両もある。これらのグループは台枠の都合で4000形より一回り小ぶりで、台車もD-10形を用いていた。

その後は1953年度までに3214号-3242号の29両が増備された。これらには次の形態差が存在する。

3214号-3218号

芝浦工場の手持ち部品を用いて造られた完全新造車。

3219号-3226号

3219号-3223号はトロリーポールを装備せずに登場した最初の車両。このうち2両は新造車であるが、ほかの2両と3224号-3226号は王子電気軌道引継ぎの150形を改造したものである。

3227号-3232号

木造4000形の改造車。側窓が10枚から9枚へ変更され、車体幅が杉並線用の2000形と同じ2124mmへ変更されており、これ以降に登場した車両も同一である。この車両から都電の標準型になるビューゲルスタンドが採用されたほか、都電で初めてドアエンジンを採用している。3232号は蛍光灯を採用した2番目の車両であった。

また、どういうわけかこの頃には採用されなくなったロックフェンダが取り付けられていた(のちに簡易排障器へ変更)。

3233号-3242号

このグループは大型方向幕とドアエンジンを採用している。3233号-3235号は王子電気軌道引継ぎの170形と木造3000形の改造車。3236号-3237号からは完全新造車となり、台車がD-16形へ変更された。この2両は側面スカートを取り付けていた。3238号-3239号は全鋼製車体で側窓が8枚の変形車であった。最後に増備された3240号-3242号は芝浦工場製で、3240号のみ側面スカートを取り付けていた(のちに撤去)。

本形式は5年に亘る増備により、総数242両と6000形に次ぐ大所帯になった。

その後は7両のみ側窓がアルミサッシ化されたほか、適宜更新修繕が行われた。

これらも杉並線(14系統)と、一之江線(26系統)以外のほとんどの線区で使用されたが、都電の撤去に合わせて数を減らしていき、1972年の第五次撤去に合わせて全廃された。

譲渡車

本形式のうち5両(3185号、3215号、3240号-3242号)が、1972年に当時路線延長を計画していた長崎電気軌道へ譲渡された。しかし当時の長崎電軌では、在来車のワンマン化改造が優先して行われたうえ、肝心の路線延長が道路の幅員の問題から中止されたこともあって、移籍から3年が経過した1975年に、台車の振替を行った2両が800形として登場した。さらに悪いことに、同時期に仙台市電ワンマンカーが購入されたこともあり、801号と802号の2両以外は入籍しないまま、車番と塗装の変更ならびに台車の振替がなされたのみで、車庫内に放置された。

入籍した車両も大柄な車体(入籍した車両は、2000形を譲受した700形と同じ狭い車幅のものではなかった)が持てあまされ、ラッシュ時に走るのみで大した活躍をすることもなかった。また現車はワンマン化改造の認可を受けていたが、始終ツーマン車として運転された。

1982年長崎大水害で被災したことがきっかけとなり、冷房車の登場もあったことなどから、同年内に全車が廃車・解体された。

余談だが、こちら葛飾区亀有公園前派出所コミックス26巻収録の「ガンコ電車の巻」作中において、登場する轟が本形式に対し「日本のどこかで解体を逃れて走っていると思います」と希望を語っている。しかし上述のとおり、執筆当時の1981年においては、解体こそ免れたもののあまり使用されておらず、皮肉にも不憫な余生を送っていたことになる。

更新4000形

戦後間もないころに老朽化した車体を使用していた木造4000形を、6000形に類似した車体へ更新して登場した。種車には4000形のほか4100形や4200形、荒川線の前身にあたる王子電気軌道の車両も少数使用された。

1949年度に117両が投入された。製造は4001号-4049号が日本車輌、4050号-4103号が帝国車両、4104号-4117号が日本建鉄で、やはりメーカごとの差異が見られた。詳細は次のとおりである。

日本車輌製

1949年にトップナンバーの4001号が柳島車庫へ投入されたが、日車でストライキが起こったことから、納車が遅延したという。続いて4045号-4049号が大久保車庫へ投入されたが、これらには6000形の特徴が見られるため、その見込み生産車であると考えられている。

その後製造された4002号-4044号は、ウィンドシルの幅が広く、側面窓上に水切りがないといった特徴がある。

帝国車両製

最初に4051号が投入されているが、これは同社が割り当てられた車番を勘違いしたのが原因といわれている。

車体に差異はないが、D-10形台車を装着したもののうち4071号、4073号、4075号、4076号の4両はD-11形を装着するつもりで製造したため、台車と車体の間に隙間があるだけ若干車高が高かったという。

日本建鉄製

6000形と概ね同一の車体をもつが、若干の変化があるという。発注当初は予定より多く増備する予定があったらしく、同社から最初に出て来たのは4126号と4127号であった。117両へ下方修正されてからは、4114号と4115号に改番されている。またその次に出て来た4018号も合わせて4013号へ改番されている。これにより、メーカ側の製造番号と実際の車両番号との間に乱れが生じている。

その他の特徴

特に更新修繕などが施工されたわけではないが、1959年に4071号、4082号、4087号、4096号の4両が側窓をアルミサッシへ交換している。また6000形同様に屋根の水切を取り付けている。

種車によって台車がD-10形とD-11形の2種類が存在し、前者が40両、後者が77両に使用されていた。

4033号-4034号、4037号-4043号、4051号-4055号は王子電気軌道引き継ぎの120形が種車で、警笛もホイッスルを用いていたことから、聞き慣れない人が驚いたという逸話もある。

本形式は大久保、巣鴨、柳島の3ヶ所にしか配属されず、他は一時的に三ノ輪と南千住で活躍したのみであり、基本的には3ヶ所内で転配属が行われていた。都電の撤去に合わせて数を減らしていき、1969年の第四次撤去に合わせて全廃された。

現在は江戸東京博物館にて、本形式で使用されていた台車が1基展示されている。

影響を受けたとされる車両

日本最大の路面電車である都電の主力形式だったことから、後に製造された他の事業者向けの路面電車にも類似した形態の車両がみられる。

具体的には以下の形式が挙げられる。

関連タグ

路面電車 都電 都電荒川線

都電6000形…表記ゆれ

こちら葛飾区亀有公園前派出所…作中に本形式が登場するほか、2006年に放送されたTVスペシャルでは本形式ならびに両津が組み立てていた3000形の模型が話のキーとなる。

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