東京都交通局2000形
とでんにせんがた
1943年より東京都交通局が都電に導入した路面電車。木造3000形の改造によって投入されたのち、車体の老朽化により1951年から車体更新がなされ、杉並線用に用いられた。
本稿では改造から引退までの経緯ならびに、譲渡後の長崎電気軌道700形についても記載する。
1943年に早稲田車庫にて木造3000形12両が焼失してしまい、これを復旧する際に車体長の延長と屋根の改造を日本車輌東京支店と自局芝浦工場にて6両ずつ行い、最初に芝浦工場製が3両出場した。この3両は登場時は原番号であったが、すぐに2000形と改称された。
以後は資材不足の影響で改造がはかどらず、1944年までに5両が登場しただけにとどまり、青山車庫に配置されていたが、東京大空襲の影響で4両が焼失してしまい、2003号のみ残存した。同時期に同型車2両の改造が進められていたものの、これも東京大空襲の影響で被災している。
1945年6月には2004号-2006号が登場し、1946年には日本車両製の6両も青山車庫へ配置された。その後は番号の整理が行われ、戦災車の番号の穴埋めが行われたほか、1951年には全車の台車を狭軌(1067mm)用へ改造のうえ杉並線へ転用された。
1951年から西武軌道からの引継ぎ車ならびに木造3000形、4000形、2000形の改造と新造によって登場した、杉並線用の車両。
最初に2001号-2010号が日本車輌で製造され、翌1952年に日本鉄道自動車にて2次車にあたる2011号-2012号が製造された。続いて3次車にあたるナニワ工機製の2013号-2015号が登場したが、これらは新造車であり、側面スカートの装着や大型方向幕の採用のほか、ビューゲルスタンドの装着や、台車も新造のD-16N形が採用された。これ以降の製造分はすべてドアエンジン付きとなっている。
4次車にあたる2016号-2017号は、1954年に木造2000形を鋼体化したもので、側窓の8枚化が行われたほか行灯式の系統板を採用したが、後者はのちに通常型へ変更された。台車は従来のD-10N形であった。1955年に登場した最終グループの2018号-2024号はナニワ工機と東洋工機製の新造車で、台車はD-16N形であった。乗降ドアや塗装などは、同時期の7000形3次車に準じている。これは7000形3次車7両分の予算を本形式へと転用したためである。
集電装置は2012号まではダブルポールを採用し、2013号-2017号はシングルポール、2018号以降は最初からビューゲルを採用していた。
本項では更新車登場後から廃車までを記す。
杉並線においては2500形と共に使用されていたが、1961年に丸ノ内線(当時は荻窪線)開業の営業で杉並車庫が閉鎖となり、活躍の場を失ってしまった。このとき仙台市電や秋田市電から譲渡のオファーがあったものの、結局は自局で継続使用することとなり、書類上は12月に三田車庫へ移籍したことになっていたが、現車は三田車庫や広尾車庫で保管されていた。
使用中止後に大栄車両にて改軌工事を行うとともに車両の改修も行われ、2001号-2012号のビューゲル取り付け位置が車体中央へ移されたほか、台車の交換を行い2001号-2014号はD-10形、2015号-2024号はD-16形と揃えられた。この影響で再使用は1965年9月からとなり、三田車庫と広尾車庫の所轄する路線で使用された。11月には2両が三田車庫から目黒車庫へと転属している。
廃車は1968年10月の2001号-2012号と2016号を皮切りに、1969年に残りの車両が廃車されて全廃された。
譲渡車
廃車になった本形式のうち、1969年に2018号-2022号と2024号は長崎電気軌道へ譲渡され、700形701号-706号として使用された。
入線にあたっては九州車両にて、台車はそのままに輪軸を標準軌へ改造したほか、ワンマン化改造などを行った。
ワンマン車として重宝された一方、車体幅が狭いことから混雑に拍車をかけるため、利用者から不評であったことで、1982年の1200形登場後はあまり使用されなくなったという。1990年代に入ると廃車が進行し、そのうち702号と706号は1999年に1700形へと更新され、以後は唯一701号のみ残存した。
701号は1985年に創業70周年記念の一環で都電時代の塗装へ戻され、唯一残存してからは動態保存車として運用されていた。しかし、老朽化などの要因で動態保存車の維持が困難になったため、2019年3月末に150形(元小田急箱根)や1050形(元仙台市電)とともに引退。車体にアスベストが使用されていたことから、保存は断念され廃車後は解体された。なお、同時に廃車になった1050形は奇しくも杉並線の原点である西武グループ傘下の西武園ゆうえんち内にて、都電に類似した塗装で保存されており、皮肉な結果となってしまった。
現在までに譲渡車を含めて次の車両が保存されたが、いずれも現在は撤去されている。