1200形
せんにひゃくがた
鉄道車両において使用されている形式のひとつ。
1896年に讃岐鉄道、七尾鉄道、総武鉄道の3社がイギリスのナスミス・ウィルソン社から輸入した車軸配置0-6-0の飽和式タンク機関車。
讃岐鉄道は1904年の山陽鉄道への事業譲渡を経て1906年に、残る2社は1907年に国有化され、1909年の車両称号規定改正に伴い1200形となった。
このほか北海道鉄道にシリンダ直径が異なる準同型車1両が1900年に導入され、国有化に際し1170形と改称されている。
1918年から1922年にかけて除籍され、八幡製鉄所や私鉄に払い下げられた。
このうち私鉄に払い下げられた3両はそれらの私鉄が国鉄に買収されたことでふたたび国鉄籍となり、陸奥鉄道に払い下げられた1両を除いて国鉄時代の番号に復旧している。
鉄道省が1936年に導入したタンク車。製造は大阪鉄工所、新潟鐵工所。
濃硫酸および発煙硫酸専用20t積みタンク車で23両が製造された。
その後1941年から1951年にかけて12両が希硫酸専用タンク車タラ300形に改造された。
このうち4両は1954年から1955年にかけて本形式に戻されており、3両は原番号に戻されたがタサ1206→タラ306のみ新たにタサ1223が附番されている。
1943年に4両がカセイソーダ液専用タンク車タム5700形に改造された。
1955年に1両がカセイソーダ液専用タンク車タラ420形に改造された。
一段リンク式の三軸車であり、貨物列車の速度向上に対応できなかったことから1970年までに全車廃車となった。
JR貨物が2010年から2011年にかけて導入したタンク車。製造は日本車輌
亜鉛焼鉱専用40.3t積みタンク車で、従来まで亜鉛輸送列車、通称「安中貨物」に使用されていたタキ15600形の老朽化に伴い20両が製造された。
積載荷重はタキ15600形の40tから0.3t増加しており、タキ15600形同様12両編成を組んだ場合約3.6tの増量となる。
台車はタキ1000形と同様のFT21A形を採用、最高速度95km/hを実現した。
落成直後に東日本大震災が発生したこともあって試運転は2011年6月に行われ、10月から正式に安中貨物の運用に就いた。
身延線の前身である富士身延鉄道が1927年から1928年にかけて導入した電車。製造は日本車輌、新潟鐵工所。
富士身延鉄道時代は日車製のものはモハ100形、新潟製のものはモハ110形を名乗った。
メーカーは異なるが同型車であり、両運転台車であるものの扉を極力車端部に寄せて内装をボックスシートにしている。
非自動間接制御で定格出力100kWのモーター(→鉄道省MT35形)を4基搭載していた。
勾配区間に対応するため歯車比18:70(≒1:3.88)と低速仕様(同時期の旧型国電は25:63(=1:2.52))であり、鈍足ではあるが出力が高く1M2T運転が可能であった。
台車はモハ100形は日車F形→E16形(ブリル27MCB-3形模倣品)、モハ110形は鉄道省TR14(DT10)形同等品。
モハ102が1937年9月に土砂崩れに巻き込まれ廃車になったほかは全車両が1941年の国有化により国鉄に引き継がれ、モハ93形に改称された。
1944年から1945年にかけてモハ93011が試験的に飯田線で運用され、1947年からは順次飯田線に転属していった。
1951年に更新修繕が行われ片運転台化、パンタグラフをPS13形に交換、台車をTR14(DT10)形に統一などの標準化改造が行われた。
1953年の車両称号規定改正に伴いモハ1200形に改称。1958年までに全車廃車となった。
JR四国1200形
1000形気動車のうち2006年に運行を開始した1500形気動車との併結運用に対応する改造を施した車両。
連結器を電気連結器併設の密着連結器に交換し、扉の半自動扱い時の開閉ボタンを設けている。車体塗装も1500形に合わせて濃淡グリーンを基調としたものに改められている。
定山渓温泉への観光客や通勤・通学客の増加に伴う車両増備として電動車モハ1200形と制御車クハ1210形各1両が製造された。
前面は当時流行していた湘南顔、側面はバス窓で内装はオールロングシート。
当初は準急・急行列車に用いられたほか、従来車との混結も見られた。
1969年の定山渓鉄道線廃止後は十和田観光電鉄に譲渡された。
当時の十和田観光電鉄は十和田湖への観光客や通学客の増加、さらには正面衝突事故に伴う廃車が発生し車両不足に陥っていた。
車両譲渡の候補にはほかに近江鉄道や名古屋鉄道などが挙がったが、車両の状態や性能が良かったことと予備部品が豊富だったことから譲渡が決まった。
導入に際し車両番号はそれぞれ従来車の続番としてモハ1207・クハ1208に改番された。
しかし制御装置が従来車と異なっていたため混結ができず、主にモハ1207単独またはクハ1208との2両編成で運用されていた。
その後も連結器の交換、保安ブレーキの搭載、車内放送装置の更新などが行われたが、混結ができない仕様が災いしたがより旧型の東急3000系(初代)に置換えられる形で1990年に廃車となった。
津軽鉄道が1965年に導入した客車。
大元は旧西武鉄道が村山線(現:西武新宿線)開業時に導入した制御車クハ600形(西武151系)で、1928年川崎造船所製。
3両が譲渡され運転台を撤去。主に気動車に牽引して運用されていたが、輸送量の減少に伴い運用が減少、1995年にナハフ1201が廃車された。
残る2両はイベント用として状態は良くないものの車籍が残されている。
福島交通が1950年代に導入した電車。製造は日本車輌・宇都宮車両(旧日本車輌蕨工場)。
戦前に製造された木造ボギー車モハ100形を鋼体化した車両で9両が製造された。
車番は改造順ではなく種車の車番を踏襲しており、改造時期ごとに扉間の窓配置も異なる。
改造時期と窓配置は以下の通り。
車両番号 | 種車 | 改造時期 | メーカー | 側面窓配置 |
---|---|---|---|---|
モハ1201 | モハ101 | 1955年 | 日本車輌 | 広窓9枚 |
モハ1202 | モハ102 | 1955年 | 日本車輌 | 広窓9枚 |
モハ1203 | モハ103 | 1955年 | 日本車輌 | 広窓9枚 |
モハ1204 | モハ104 | 1948年 | 手塚製作所 | 狭窓11枚 |
モハ1205 | モハ105 | 1948年 | 手塚製作所 | 狭窓11枚 |
モハ1208 | モハ108 | 1950年 | 日本車輌東京支店 | 狭窓13枚 |
モハ1209 | モハ109 | 1952年 | 宇都宮車両 | 狭窓13枚 |
モハ1210 | モハ110 | 1952年 | 宇都宮車両 | 狭窓13枚 |
モハ1211 | モハ111 | 1952年 | 日本車輌 | 狭窓13枚 |
モハ1206・1207は欠番である。
モーターはモハ1201が45kWのものを4基、モハ1202・1203が63.75kWのものを4基、他は63.75kWのものを2基搭載していた。
1991年の昇圧時点では1202・1203・1209~1211の5両が残存していたが、昇圧に伴い全車廃車となった。
※イラスト中央の車両
1979年から1987年にかけて旧型車の置き換えのため総武流山電鉄(現:流鉄)に導入された通勤形電車。元は西武鉄道501系・551系で、4両編成だった501系は3両編成に短縮、551系は2両編成のものを譲受している。
一般公募により各編成ごとに愛称と塗装を制定しており、これは現在の流鉄にも受け継がれている。
車両番号 | 編成愛称 | 塗装 |
---|---|---|
クモハ1201-サハ61-クモハ1202 | 流星 | 橙色+白帯 |
クモハ1203-サハ62-クモハ1205 | 流馬 | 水色+白帯 |
クモハ1206-サハ63-クモハ1207 | 銀河 | 銀色+橙帯 |
クモハ1208-サハ65-クモハ1209 | 若葉 | 黄緑色+白帯 |
クモハ1210-クハ81 | なの花 | 黄色+緑帯 |
クハ71-クモハ1301 | あかぎ | 臙脂色+白帯 |
「あかぎ」号のみ電動車の向きが逆になっており、1300番台が与えられていることから1300形として扱われることもある。
2000形に置き換えられる形で2001年までに全車廃車となった。
現在の京王電鉄井の頭線の前身にあたる帝都電鉄が1933年の開業時に導入したモハ100形が原型。
帝都電鉄が小田原急行鉄道を経て東京急行電鉄に合併され、デハ1400形と改称されたが、東京大空襲により大部分が焼失。井の頭線で稼働する車両がわずか5両という大打撃を受けた。
クハ1200形は被災した車両を17m級車体で復旧させた車両である。もともとの電動機出力が低かった車両だったため電動車としては復旧されず、制御車として復旧された。
1963年から1964年にかけて運転台を撤去しサハ1200形へと改称され、1966年にはサハ1202のみ京王線に転属、1967年には2両が運転台を復元した上で京王線に転属している。
1984年までに全車廃車となり、京王線に転属した2両は伊予鉄道に譲渡されモハ130形として1988年まで運用された。
小田急電鉄の前身にあたる小田原急行鉄道が1927年4月の開業時に導入した電車。製造は日本車輌。
12両が製造され、開業時はモハニ101形を名乗った。
同年9月に藤永田造船所で荷物室のないモハ121形3両と荷物室を有するモハニ131形3両が製造された。
このほか101形は前面非貫通、121・131形は小田原側のみ前面貫通型となっている、荷物室を有する2形式は荷物室側の戸袋窓が丸窓になっているのが特徴であった。
内装は101・121形はセミクロスシート、131形はオールロングシート。
電空単位式間接非自動制御、ツリカケ駆動で定格出力93.3kWの三菱電機製MB-146-A形モーターを4基搭載していた。
新宿駅~稲田登戸駅間の運用に就いたロングシート車1形に対し新宿駅~小田原駅間の運用に就いた。
1935年から新宿駅~小田原駅間ノンストップの週末温泉列車の運行が行われ、これが現在に至る小田急ロマンスカーの原点である。
荷物室は需要がなかったことから131形は1930年、101形は1941年から1942年にかけて撤去され、同時期には101形・121形もオールロングシート化された。
1942年に東京急行電鉄に合併されたことに伴い1200形に改称。101形から順に連番で附番された。
小田原線・江ノ島線は空襲の被害が少なく、本形式も全車両が戦争を生き延びた。
一方で空襲で壊滅的な打撃を受けた井の頭線の救援のために3両が一時的に同線で運用されている。
1948年に小田急電鉄が分離独立するが、形式名は1200形のままとなった。
1950年から小田急電鉄車両の箱根登山鉄道線への乗り入れが開始され、当初は1600形・1900形・1910形が運用に就いたが、短期間のみ本形式も運用に就いた。
入生田駅付近の急勾配に対応できない恐れがあるため試運転が行われ、2M1Tの3両編成で乗り入れる形になった。
1956年から東急車輛製造で更新修繕を実施し、前面に貫通扉を設置、片運転台化などが行われ1400形とほぼ同型になった。
その後は主に各駅停車の運用に就いたが、通勤輸送が激化する中で小型車は扱いづらくなり、4000形に機器類を供出する形で1968年までに全車廃車となった。
東京メトロ銀座線の前身にあたる東京地下鉄道が1934年の銀座駅~新橋駅間延伸に合わせて導入した地下鉄電車。東京地下鉄道としては最後に新造された車両である。
従来車の1000形・1100形と共通の設計だが、溶接技術の向上により屋根の曲線が滑らかになり側面のリベットも少なくなっているのが外観上の特徴。
運転室の仕切り扉が運転機器をカバーできるように折りたためる構造になっていた。
機器類は従来車がゼネラル・エレクトリック製であるのに対し国産の三菱電機製に変更された。
戦後は2000形の登場に伴い1964年頃に中間車に改造され、浅草方から2両目に連結されたウィンドウシル・ヘッダーの残るレトロな外観が異彩を放っていた。
01系の量産に伴い1986年までに全車廃車となった。
東京市電気局(東京市電)が老朽化した木造の旧1000形の台車と電装品を流用して1936年から1942年にかけて導入した路面電車車両。
当時の流行だった流線形を意識してか1100形から雨どいをなくして張り上げ屋根にした外観が特徴。このスタイルは戦後の6000形にも連なる都電の標準スタイルの原型となった。
乗降用扉は二枚折戸を採用していたが、二次車のみ後部扉に三枚折戸を採用している。
109両が製造されたが戦災で二次車全車両を含む45両が焼失。うち25両が復旧されている。
1000形や1100形で試験的に行われた車体大型化改造が本形式46両に行われ、1500形となっている。
1964年に14両が廃車となり、残存全車両が広尾車庫に集中配置。1967年の広尾車庫廃止まで運用された。
横浜市交通局(横浜市電)が1942年に5両を導入した路面電車車両。製造は木南車輌製造。
製造時は皇紀2600年=西暦1940年を記念し2600形とされ、戦後に1200形に改称された。
木南車輌特有の張り上げ屋根と大きな3枚の前面窓が特徴的な3扉車で、従来の横浜市電の車両と一線を画す外観だった。
ワンマン運転対応改造は行われず1970年までに全車廃車となった。
1983年に導入された江ノ島電鉄1000形の3次車。当初より冷房を搭載して運用された。
日本の狭軌鉄道としては最後のツリカケ駆動で完全新造された電車で、外観上は角型の前照灯が特徴。
腐食対策に屋根部にステンレスを採用している。
老朽化した3100形および5700形の置き換えを目的に富士急行(現:富士山麓電気鉄道)が1993年から導入した車両。
元々は京王5000系(初代)のうちカルダン駆動を採用していた5100系先頭車で、京王時代のロングシートを流用した1000形に対し転換式セミクロスシートを採用している。
2両編成7本が在籍し富士急行の主力形式だったが、6000系に置き換えられる形で「富士登山電車」に改造された1205編成を残し全車両が2020年までに廃車となった。
1927年から1928年にかけて名古屋市電に導入された路面電車車両。製造時は低床ボギー車であることから「BLA形」とされた。
ドイツ・AEG社製の電動機を搭載し、リベットの並んだ半鋼製車体と雨どいを備えた丸屋根、曲線通過時の張り出しを抑えるため絞り込まれた車端部が特徴。
2両が戦災廃車となり残る8両は港車庫に配置された。
戦後復興輸送を担うため規格型の路面電車が日本車輌に発注された際、全長12.5mの大型車体を備える本形式の設計をもとにした日車標準型路面電車が多数製造された。函館市電500形や札幌市電600形がこれに相当する。
後継形式の量産に伴い1963年には2両が花電車に改造され、4両が豊橋鉄道に譲渡された。残る2両はワンマン運転対応工事を施され下之一色線に導入され1967年まで活躍した。
豊橋鉄道に渡った4両は形式名を700形(1968年に3700形へ改称)へと改め、1977年までに3両が廃車となるも残るモ3702は「レトロ電車」として2007年まで活躍した。同車は豊橋市松葉町の「こども未来館」に保存されている。
名古屋市営地下鉄4号線(現:名城線)金山駅~新瑞橋駅間開業に備えて日立製作所・日本車輌で製造された地下鉄電車。
1000形の最終グループで、SIVを搭載した中間車1800形、コンプレッサーを搭載した中間車1900形と組み合わせた固定編成で運用された。
このため末期は組成変更が相次ぎ編成ごとに車両番号がバラバラになっていた1000形・1100形とは異なり整った車両番号を維持していた。
2000年までに全車廃車となり、集電装置を第三軌条式から架線集電式に改めたうえで福井鉄道、高松琴平電気鉄道、ブエノスアイレス地下鉄に譲渡された。
福井鉄道では600形・610形として2018年まで運用され、高松琴平電気鉄道では600形・700形として活躍。
ブエノスアイレス地下鉄に譲渡された車両は形式名をそのままに「Nagoya」シリーズと命名され、2019年まで運用された。
元々は静岡電気鉄道(現:静岡鉄道)が1930年に導入した日本車輌製の車両で、大柄な車体を持て余して渥美電鉄に譲渡されデホハ120形となった。
渥美電鉄が名古屋鉄道と合併したことで名鉄の車両となり、モ1200形と改番。1954年に渥美線が豊橋鉄道に譲渡されたことに伴い豊橋鉄道の車両となった。
その後1959年に西武鉄道に渡っていた同型車が編入され、後に1600系へと改番、1988年まで運用された。
ちなみに1200系で1200番台を名乗る車両は「サ1200」である。
大元は阪堺電鉄(新阪堺電車)が1926年と1929年に導入した101形。製造は大阪鉄工所。
低床式の3扉大型ボギー車で、1926年に製造された2両は神戸市交通局(神戸市電)500形に似た形態で中央扉の戸袋窓の丸窓が特徴だった。
1929年に製造された4両は大阪市交通局(大阪市電)1601形に似た形態であった。
台車はブリル77E-1形、モーターは定格30kWの物を2基搭載していた。
当初は101~106を名乗ったが、1943年の増備車4両が2代目103~106となり、本形式の増備車4両は113~116に改番された。
しかし車両増備や大阪市電からの車両の借入れをもってしても阪堺電鉄の慢性的な混雑は改善に至らず、1944年3月に阪堺電鉄は大阪市に買収され、本形式も大阪市電の車両となった。
大阪市電では1201形に改称。1201・1204・1206が戦災で廃車となり、残った3両のうち1205が2代目1201となった。
その後は集電装置をビューゲルに交換。1959年に2601形に車体更新される形で全車廃車となった。
大阪市営地下鉄(現:OsakaMetro)1号線(現:御堂筋線)の6両編成化と3号線(現:四つ橋線)の玉出駅延伸に備えて日本車輌、川崎車輛、ナニワ工機、日立製作所で製造された地下鉄電車。
1100形に準ずる設計だが両開き扉を採用しているのが特徴。本形式から車体塗装がクリームとオレンジのツートンカラーとなり、従来車より明るい印象になった。
製造時期によって「1200A形」と「1200B形」に区別されており、1200B形は電動発電機が交流式に変更しコンプレッサーを小型化している。外観上は標識灯(尾灯)が1200A形は上部、1200B型は腰板部についているのが相違点。
運用は1100形と共通だったが、大阪万博に備え御堂筋線に30系が投入されたことに伴い四つ橋線に転出。1975年に200形へと改称された。
近鉄京都線の前身である奈良電気鉄道が1954年に導入した電車。製造はナニワ工機。
近畿日本奈良駅~京都駅間の特急運転開始に伴い2両が製造された。
奈良電気鉄道としては唯一のWN駆動車で、近鉄が翌年以降量産する新性能車のテストヘッド的な役割を担っていた。
奈良電気鉄道最大の18m級車体でセミモノコック構造を採用、前面貫通型だが片隅式運転台で車掌台側をパイプ仕切りにしていた。
対面式配置の固定クロスシートで戸袋付近のみロングシートのセミクロスシート、側面窓はバス窓だった。
これまでの奈良電気鉄道の車両は京阪電気鉄道同様東洋電機製造製の機器を搭載していることが多かったが、本形式はモーター、制御装置共に三菱製のものを搭載している。
モーターは三菱電機製MB-3020-A形でこちらも後の近鉄電車では標準型となった。
制御装置は単位スイッチ式多段自動加速制御器の三菱電機ABFM-154-6EDA形。
台車はオールコイルバネ台車の近畿車輛KD-10形でこれが量産第1号である。
本形式の導入にあたって地上設備も強化され、最高速度105km/h、表定速度66.8km/h、所要時間35分で京都~近畿日本奈良間を走破した。
これは当時阪神電気鉄道3011形に次ぐ第2位で、経営状態の悪化していた奈良電気鉄道がこのような高速運転を行ったことは驚きを持って迎えられたとされる。
好評であったことから特急も増発が行われることになったが、財政状況の悪化に伴い本形式の増備は出来ず、従来車の機器流用車デハボ1350形で賄われることになった。
基本的にはクハボ600形とベアを組んで運用されたが、1961年10月13日に皇太子ご夫妻が利用された際には本形式2両編成が組まれた。
1963年に奈良電気鉄道が近鉄に吸収合併されたことに伴い680系に編入された。
南海電気鉄道の前身である南海鉄道が1934年から1943年にかけて投入した電車。
初期は木造車の鋼体化名義、中期以降は新製あるいは火災被災車の復旧名義で製造され、戦災復旧名義を含めて総数72両が製造された。
戦時を挟んで複雑怪奇な経歴をたどり、四国連絡急行「なると」、「あわ」や国鉄紀勢本線直通車の牽引特急などにも投入された。
南海本線・高野線の直流1500V昇圧に伴い一部は貴志川線に転出、残りは廃車となったが水間鉄道や京福電気鉄道(現:えちぜん鉄道)に譲渡された。
貴志川線の車両は1986年に車体整備を行い、1995年に2270系に置き換えられるまで活躍した。
詳細はモハ1201形の記事を参照。
西日本鉄道が福岡市内線向けに導入した路面電車車両。西鉄1000形シリーズのひとつ。
輸送力増強と木造車置き換えのために1962年から1963年にかけて導入した。製造は日立製作所と汽車製造。
従来車の1001形・1101形は半鋼製車体で中空軸並行カルダン駆動だったが、本形式は全鋼製車体でツリカケ駆動となっている。
排障器とバンパーの形状が北九州線用の1000形と同型になっており、初期に製造された車両は3車体連接車への改造を前提に設計されていたが福岡市内の道路状況が悪化したことから認可が下りず実現しなかった。
廃車後は1編成が筑豊電気鉄道に譲渡され2000形になったほか、広島電鉄に譲渡された車両は3車体連接車に改造され3000形となった。
長崎電気軌道が老朽化が進んでいた150形および800形(元都電3000形)置き換えのため、1982年に導入した路面電車車両。製造はアルナ工機。
「軽快電車」2000形と同型の車体だが、導入コスト削減と従来車との部品統一の観点から中古品と予備品を活用した直接制御・ツリカケ駆動の機器更新車である。
2003年に1201号車以外の3両が西鉄600形の廃車発生品の台車と主電動機、制御装置に交換され、1200A形に改称されている。
熊本市交通局が1958年に導入した路面電車車両。製造は東洋工機。
製造時は200形を名乗ったが、1966年にワンマン運転対応改造を受け1200形となった。
熊本市電のボギー車としては最多の10両が製造された。
1970年代の路線縮小時も全車が残存。1978年には冷房化が実施、路面電車としては日本初の冷房車となった。
1985年から翌年にかけて4両が8500形に機器を譲る形で廃車となったが、残る6両は現在も現役であり、2022年からは延命工事を実施。1205号車はクラウドファンディングにより寄付を募り製造時の塗装に復刻されている。