神戸市電
こうべしでん
神戸市の路面電車は1890年代から敷設計画が始まっていたが、当初は時期尚早論が強く、軌道敷のスペースが確保できないとして市会でも反対されていた。
その後1900年代に計画が本格始動。市営とするか民営とするか議論の末、財政上の問題から民間企業による敷設やむなしと判断、将来的に市に事業譲渡することを条件に民間企業を募った。
当初より市内で路面電車の建設を計画していた神戸電気鉄道(初代)のほか多くの企業が名乗りを上げ、阪神電気鉄道が三宮駅からメリケン波止場までの延伸を出願するなど出願者が続出した。
協議の結果神戸電気鉄道(初代)を中心に合資協力を行うという形で落ち着き、1910年に開業。開業当日は沿線の軒先に開業を祝う提灯が並び、見物人が殺到する祝賀ムードだったとされる。
神戸電気鉄道(初代)は開業から4年以内に総延長26kmを敷設することを条件に提示されており、それを目指して路線延長が繰り返されたが、1914年になっても計画の半分にも満たなかった。建設中に内務省の軌道敷設基準が厳しくなり、用地買収の費用が増大したためであった。
しかし市民からは路線延長の要望が高まる一方で、神戸市は市の発展に追いつけないとの判断から公営化を決断。1917年に市営化され神戸市電気局となった。
市営化後は本来は1912年までに建設する予定だったとされる熊内一丁目~上筒井間の建設に着手、1919年に開通。第2期工事は計画の見直しを経て1925年3月に当初の予定から約10年越しに全線が開通した。
1920年には系統表示を開始。当初はイロハ表記だったが1924年に神戸を訪れる外国人に配慮して数字表記に変更した。
またこの時期に短期間だが婦人専用電車が運行されたこともある。
日本初の低床ボギー車であるC車(後の500形)や、日本初の鋼製車であるG車(200形)など先進的な車両を導入し続け、1935年には500形の鋼体化改造によって路面電車としては珍しい「ロマンスカー」の異名を持つ700形を導入。
同様に先進的な車両を導入する一方旧型の木造車が多く残っていた大阪市電、未だ開業時の旧型車両が走り大正期の車両が主力となっていた京都市電に対し、グリーンとベージュのツートンカラーの神戸市電は「東洋一の路面電車」と称されるなど神戸市民の誇りとなっていた。
後年大阪市電から余剰車を譲渡された際には、運用側が仕様の相違から苦労しただけでなく、利用者側も「カッコ悪い」、「神戸市電のイメージダウンにつながる」と酷評するなど他都市への対抗意識が強かったことがうかがえるエピソードがある。
1942年に配電事業の移管に伴い神戸市交通局に改称。
1945年の神戸大空襲で車庫が被災するなど甚大な被害を受けるも、1948年には大部分の路線が復旧。1953年には路線網は35.6kmに達した。
しかし1960年代からはモータリゼーションの影響で利用客が減少。定時確保のため一部路線の高架化まで計画されたが実現せず、1971年に全線が廃止された。
廃止後余剰となった車両が須磨沖に漁礁として沈められたほか、当時輸送力強化を目指し各地の路面電車を買い取っていた広島電鉄が29両を購入。このうち500形が570形として、1150形は形式名をそのままに現在でも各1両が運行されている。
また広島電鉄で2001年まで運行されていた1100形が御崎公園に保存されているほか、神戸市営地下鉄名谷車両基地には700形と800形が、小寄公園に広島電鉄に譲渡されず廃車となった1150形が保存されているなど市内各所に保存車両が存在する。
神戸市電のシンボルだったツートンカラーは市バスや地下鉄に引き継がれ、地下鉄に至っては車両番号の書体までも市電のものを踏襲している。
廃止から50年後の2021年、久元喜造神戸市長は市の中心地である都心・三宮地区の回遊性を高めるためLRTの整備が必要という見解を打ち出し、神戸市では「LRTが走る未来のKOBEを考える座談会」を設置、報告書が2022年に提出されている。
1920年代までは他都市の路面電車同様製造順に連番で附番され、形態ごとにアルファベットの形式名が付けられていた。1923年にG車が200番台に改番され、鋼体化改造された車両も形態ごとに300形・400形・500形となった。