曖昧さ回避
- もしかして⇒900系
- 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の900形については営団500形の記事を参照。
- 京王電鉄の「クヤ900形」「デヤ901・902形」「サヤ912形」についてはDAXの記事を参照。
- 名古屋鉄道モ900形は当該記事を参照。
- 国鉄トキ900形は当該記事を参照。
国鉄900形蒸気機関車
1898年(明治31年)に国鉄の前身の1つ、日本鉄道がアメリカのスケネクタディ社(Schenectady Locomotive Works)から26両購入した1B1のタンク式蒸気機関車。動輪直径が1422ミリと大きく固定軸距1676ミリと短いため小回りの利く快速な機関車だったが、最大軸重が重いとよく言われたB6形を超える14.09tもあったせいで機関区移動はあまり行なわれず、戦前の時点で営業列車に使用されなくなり、半数以上が廃車となった。戦後も固定軸距の短い本形式でなければ入線できない急曲線が隅田川駅構内に残っていた関係で入換用として使われたが、老朽化が進み主台枠に亀裂が入るようになったため、隅田川駅構内の線路を改良して2120形やDD11に置き換えられて1955年(昭和30年)1月に保存されることなく全廃となった。
余談ではあるが、『ルパン三世 風魔一族の陰謀』ではパトカーを蹴散らす機関車として907号機が登場している。
阪急電鉄900形
神戸線での特急運転の開始に際し、現在の阪急電鉄の前身にあたる阪神急行電鉄が製造した通勤形電車。
阪急を代表する電車として活躍したが、1978年までに全廃。現在はトップナンバーの900号車のみが正雀工場で保管されている。自走は出来ないが、イベント時には100形(通称P-6)116号車に牽引されて走行することもある。
西日本鉄道900形
西鉄天神大牟田線向けに導入した事業用車。初代と2代目が存在。
- 初代の901編成は600形614編成を種車に改造。2009年には架線検測が可能なように機器を追加している。2015年に911編成に置き換えられ、旅客用の600形に復元されて貝塚線へ転属した。
- 2代目にあたる911編成は5000形5123編成を種車に改造した車両で、こちらも初代と同じく架線検測も出来る救援車である。
近江鉄道900形
2013年6月に運用を開始した近江鉄道の通勤形電車。2両編成1本のみが在籍。
ベース車両は西武新101系であるが、同系を改造した近江鉄道100形とは改造メニューが異なり、この編成のみブレーキ方式を電磁直通式から電気指令式へ変更、また車端部には転換クロスシートを備えている。
「淡海号」の車両愛称で紺色を基調としたカラーリングで運行を開始したが、近江鉄道700系「あかね号」が2019年に運行を終了するのに合わせ、車両愛称とカラーリングを700系から引き継いだ。
大阪市営地下鉄900形
イラスト左端の車両。大阪市営地下鉄中央線の弁天町~本町間開業時に6100形として登場した車両を堺筋線開業時に60系との重複を避けるために改番した車両。
基本的に6000形(800形)と似ているが、細かな部分に違いがある。
1991年までに全廃。
広島電鉄900形
大阪市電2601形を譲り受けた。大阪市電時代にワンマン化改造を受けていたため、広電初のワンマン仕様車となった。
また、広電最後の非冷房車であったが、冷房化改造されなかった車両は2000年までに新型車の導入で廃車されたため、冷房車化された車両のみ現存している。
名古屋市交通局900形
元々は呉市電が木南車輛製造に発注した車両だったが注文流れになってしまい、輸送力増強に努めていた名古屋市交通局が購入。散水車の改造名義で1943年から1944年にかけて計7両が導入された。
形式名は「くれ」の語呂合わせだったとされる。
907号車のみ緑一色の塗装を纏っていた。
3扉車で車体前後の扉が折り戸、中央の扉が両開きの引き戸になっているのが特徴だったが、折り戸では乗降に手間取るとして運用側では不評だった。
またブレーキの利きが悪かったとされ、戦後にいずれも改造され前後の扉は外吊り式の引き戸になった。
モーターは単車のSLA形の中古品を搭載していたが末期は1400形の中古品に交換されていた。制御器も単車の廃車発生品を流用していたとされる。
名古屋大空襲で905号車が被災廃車となり、907号車が戦後に2代目905号車となった。
1963年4月に全車廃車となり豊橋鉄道に譲渡された。豊橋鉄道では800形(初代)として運用され、1968年にモ3800形に改称。1989年まで運用された。
京都市交通局900形
京都市交通局(京都市電)の路面電車。製造はナニワ工機、東洋工機、日本車輌。
全長12.9mのボギー車で、同時期に製造された800形より窓1個分車体が長い。
車体前面中央の窓が広くなり、方向幕も拡大された。この形態は京都市電では標準スタイルとなり、重厚で貫禄のある外観は人気が高かったとされる。
1955年にナニワ工機で製造された15両は間接制御、1957年にナニワ工機・東洋工機・日本車輌で製造された20両は直接制御と制御方式が異なっている。これは京都市電で単車の置き換えが急務だったことから、従来車と同じ直接制御が好まれたといわれている。
間接制御車については叡山本線への乗り入れも想定していたのか「宝池」の方向幕を備えていた。
このほか間接制御車は当時最新の弾性車輪も備えていたが、保守の問題で1965年から1966年にかけて通常の車輪に交換された。
1970年に直接制御車のうち16両がワンマン運転対応工事を施され1900形に改称。ツーマンのまま残った車両は間接制御車が1971年、直接制御車が1974年までに全車廃車となった。
ラストナンバーの935号車が梅小路公園に保存されている。