P-6
ぴーろく
- 新京阪鉄道P-6形電車のこと。本項にて解説。
- Pentium Proの開発コード名。
- P6マイクロアーキテクチャ - Pentium Proの流れを組むマイクロアーキテクチャ。
- PC-6001の愛称。
- 第6周期元素 (period 6 elements) のこと。
- ローバー・P6 - ローバー社の乗用車。
- スーパーリアル麻雀PVIのこと。
阪急京都本線の前身である新京阪鉄道が、1927~1929年にかけて6番目に製造した旅客車両であり、それを英字で表した「Passenger car 6」の略称。同形式の付随車については「T-1(Trailer car 1)」および「T-2」とも呼ばれた。最初の30両は全鋼製車体で製造されたが、のちに登場した22両は予算の都合からか半鋼製車体へとスペックダウンしている。前者をP-6A、後者をP-6Bと呼ぶ。また一部のT-1を電装して電動車にしたグループはP-6Cと呼ばれる。なお、最初の30両の中には貴賓車500号も含まれていた。
車体は直線的な構造で、当時のアメリカのインターアーバン電車を髣髴とさせるものであった。戦後の1949年には中間車の1550形(当時は550形)が製造され、最終的には73両を数えるまでになった。
なお、全鋼製のグループであるP-6Aの電動車はその構造ゆえに車体が重く、さらに高速運転を想定した重装備が施されていたために1両あたりおよそ52tもある超ヘビー級の電車だった。
電動機出力は当時としては大出力の150kw(≒200PS)×4というもので、大重量をものともせずかっ飛ばすことができた。
当時の鉄道省の優等列車を牽いていた蒸気機関車の出力が、1100馬力そこそこ、日本最強の蒸機である戦中のD52、戦後のC62で1600馬力級だった事を思えば、これがどういうことかお分かりいただけると思う。
新京阪鉄道が京阪電鉄の新京阪線となってからはデイ100、フイ100、フキ500と呼ばれたのち、阪急の仲間入りを果たした以後は100系と呼ばれるようになった。
投入後はさっそく、新京阪線の最速達列車である「超特急」をはじめ優等列車に数多く使われた。室内はセミクロスシートで、当時としては珍しい停車駅表示機が車内に取り付けられていた。P-6ならではの高速性能を生かした花形の運用であった。国鉄の急行や特急『櫻』を抜き去ったこともある。この性能のために「『燕』を追い抜く新京阪」とまで言わしめたほどである。
新京阪の「超特急」は燕の走行時間帯には走っていないなど、P-6充当列車のダイヤ自体は追い抜きを設定したものでは無かったようだが、当時は新京阪の列車本数も少なく、現代より運行管理が緩いなど路線状況的にも運転士が即興で「追い抜き」を演出することは可能だった模様。
「燕」に遭遇した列車の運転士が、その場で乗客サービス的に行ったとも言われる。
実際に追い抜いたかはともかくとして、性能的に見れば大阪~京都間を(死重を搭載した状態であるにもかかわらず)27分で走破出来る(実運用でのダイヤ設定では34分で走破)ほどのものであったというから、あながち間違いではなさそうである。
戦後の特急運用時には上半分をオレンジ、下半分をマルーンに塗装され、間に銀色の帯が入れられたが、後にマルーン一色+窓の上下に銀帯となり、最終的には他の車両と同じくマルーン一色になっている。東海道新幹線開業直前の、いわゆる「新幹線の線路を走行した阪急電車」のうちの一つでもある。
他の京都線旧型車輌が淘汰されていく中で、P-6は車体が大型なため万博輸送などでも効果を発揮、新型車に交じって活躍した。結果的に京都線釣り掛け車の中では長持ちしたほうで、1973年に全車両が引退したのちも116号が正雀工場に動態保存(車籍は無し)されている。実は大手私鉄は元より動態保存とは言え(ナローゲージ用や路面電車など特殊用途を除く)、動く釣り掛け車両として稀少な存在である(SLなどと違って、日本ではこの分野での動態保存がほとんど行われていない)。
なお、出自が阪急ではなくライバルの京阪出身だったということもあり、当初、保存するかどうかについては阪急社内で反対意見が出るかとも見られたが、上層部でも「P-6じゃしょうがないな」と別格扱いで、保存がすんなり決まったという逸話がある。