曖昧さ回避
1400形とは、鉄道車両の形式名のひとつ。
本項では以下の事業者の1400形を紹介する。
内閣鉄道院1400形
1895年に現在の福知山線の前身にあたる阪鶴鉄道がドイツのクラウス社から輸入した軸配置0-6-0の飽和式サイドウェルタンク機関車。
ほぼ同時期の1890年から1898年にかけて九州鉄道が同型の蒸気機関車を輸入しており、いずれも国有化後の1909年に1400形・1440形となった。
当初は動輪直径の差で識別されていたが後に水槽容量の差で識別されるように変更され、国有化当初は1440形だった機関車が1400形に変更されたりその逆もあった。
国有化後は全車両が九州で運用され、1925年に全車廃車となった。
ボイラーの爆発事故で廃車になった1413号機を除くすべての車両が譲渡され、地方鉄道やセメント工場の専用線で使用されていた。
鹿島参宮鉄道に譲渡された1412号機が栃木県壬生町のトミーテック本社に保存されている。
小田急電鉄1400形
小田原急行電鉄が1929年の江ノ島線開業時に導入した車両。製造は川崎車輛。
製造時は両運転台の201形、片運転台の501形・551形と附番された。小田急では初の片運転台車だった。
501形はセミクロスシート、201形と551形はロングシート。501形は1935年に運行を開始した週末温泉列車にも投入された。
501形・551形はいずれもモーターのない制御車だったが1942年に551形2両がモーターを搭載し251形となった。
小田急が東京急行電鉄に合併されたことにともない201形と251形はデハ1350形、501形と551形はクハ1300形となった。
東京大空襲で井の頭線が壊滅的打撃を受けた際には井の頭線の救援運用に就き、1948年時点でも東横線と井の頭線に各1両が残存していた。この2両はそのまま東急と京王の所属となっている。
1948年に小田急が分離独立後、1951年に称号が改正されそれぞれデハ1400形・クハ1450形となった。
小田急HB車としては最大勢力であり、戦後も箱根登山鉄道への直通列車に投入されていたが、1960年代に通勤輸送が激化してくると16m級車体の中型車は扱いづらくなり、ATSや列車無線装置の搭載も困難であったことから4000形にモーターを転用し1969年までに全車廃車となった。
デハ1406のみ当時の標準塗装だった青と黄色のツートンカラーに塗り替えられて教習車として使用されていたが、1995年に解体された。
井の頭線に残ったデハ1367は空襲で被災したが1949年にデハ1460形として復旧された。その後1952年にデハ1560形に改称、1964年に電装を解除して中間車サハ1560形となり1978年に廃車となった。
東横線に渡ったデハ1366は1950年に片運転台・3扉化され、1964年には車体を載せ替えてデハ3550形となり、1975年に豊橋鉄道に譲渡され1730系となった。
このほか越後交通、新潟交通、弘南鉄道、岳南鉄道に譲渡された。
京王帝都電鉄デハ1400形
現在の京王電鉄井の頭線の前身にあたる帝都電鉄が1933年の開業時に導入したモハ100形と吉祥寺駅延伸に備えて1934年から1936年にかけて導入したモハ200形が原型。
下段上昇式の大きな側面窓、幕板中央部の前照灯に浅い鋼板製の屋根と湘南電気鉄道デ1形(後の京急230形)に似た車体構造だが、運転台側の前面窓に庇を備えた半流線型の前面形態は目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄モハ510形(後の東急デハ3450形)に類似しており、両形式を折衷したような外観が特徴である。
リベットの少ない軽快でバランスの取れた外観が当時の鉄道ファンの注目を集めたとされる。
製造時の塗装はあずき色で、パンタグラフ以外は屋根も車体も台車もあずき色に塗られていたとされる。
製造時より自動ドアを備えており、扉には「此扉は自動的に開閉致しますから御注意下さい」と注意書きが記されていた。
モーターはモハ100形が芝浦製作所SE-139-B(公称定格出力125馬力)、モハ200形が東洋電機製造TDK-516(公称定格出力75馬力)。モハ100形は東京山手急行電鉄計画に対応して大出力のモーターを搭載していたが、モハ200形は計画が頓挫してから製造されたこと、当時の帝都電鉄線は昭和恐慌の影響で路盤状況が悪かったことからモーター出力が下げられている。
制御機器はデッカー式電動カム軸式自動加速制御器の東洋電機製造ES-509。
台車はモハ100形ボールドウィンA形台車をもとに台車枠を一体鋳鋼製部品とした釣り合い梁式台車(後のK-3形)、モハ200形は日本車輌D-18形。
モハ100形9両、モハ200形8両が導入されたが、派生形式として日本車輌で制御車のクハ250形が10両製造され連結運転を行うようになってからはモハ200形の低出力が問題視され、渋谷駅~永福町駅間の運行はモハ100形+クハ250形またはクハ500形、吉祥寺駅までの直通運転はモハ200形2両編成で運行された。
帝都電鉄が小田原急行電鉄を経て東京急行電鉄に合併され、モハ100形がデハ1400形、モハ200形がデハ1450形、クハ250形がクハ1550形と改称されたが、1945年5月の東京大空襲で永福町車庫が被災したため大部分が焼失。
焼失を免れた7両のうちデハ1457とクハ1560は接触事故で休車となっており、井の頭線で稼働する車両はデハ1404・1405・1458、クハ1502と小田急からの転入車デハ1366の計5両となってしまった。
そこで東京急行電鉄は1945年6月に代田連絡線を陸軍の手で敷設、小田原線と井の頭線を接続して小田急の車両や国鉄青梅線からの借入車を投入、1946年には京浜線用のクハ5350形を電動車に計画変更し、東横線向けの電動車デハ3550形(後の京王1700形)と共に井の頭線に投入。その間に被災した井の頭線の電車の復旧が行われた。
とはいえ焼失した車体に再び電装を施すのは強度の問題で難しく、制御車も新しく導入した車両が互換性のない日立製作所製の制御機器を装備していたことから、デハ1400形3両とデハ1450形7両は制御車クハ1570形として復旧された。
電動車として復旧されたデハ1400形4両は制御機器も交換され、デハ1401は東急デハ3450形と同型の日立製作所製の制御機器を搭載した。
井の頭線の車両不足が一段落した1947年にデハ3550形を1700形として捻出した東横線と本来予定していた増備車の割り当てを井の頭線にあてた小田原線に搬出した。ちなみに京浜線にはデハ5400形が新造された。
東横線にはデハ1401とデハ1366、そしてこの2両とコンビを組んだクハ1553・1554が日立製作所製の制御機器に交換されていたことから搬出された。
小田原線には空襲での被災を免れたデハ1458とクハ1502が転出した。
1950年にはデハ1760形の竣工で井の頭線の車両に余裕ができたことから、東急横浜製作所と日本車輌で車体更新が行われた。
1950年に東急横浜製作所で更新された3両は戦災を免れたクハ1560とほぼ同型の17m級車体だが、1951年に東急横浜製作所・日本車輌で車体更新された8両はデハ1760形と同型の18m級車体になった。
1952年に井の頭線で3両編成の運行が開始され、デハ1800形5両が新造。デハ1400形3両も同型の車体を新造してデハ1800形に編入された。この時点で残っていたクハ1570形未更新車5両は中間車サハ1300形に改造された。
最後に更新されたクハ1572・1578・1582の旧台枠や柱などの構体の一部は状態が比較的良好だったため、相模鉄道クハ2500形2508・モハ2000形2015・2016に流用されたとされる。
空襲の被災を免れた3両の電動車は全室運転台化と制御機器の日立製MMC-H-200Bへの交換、自動空気ブレーキのA動作弁への換装、デハ1457の台車とモーターの交換などの更新を行い、車番をデハ1401-1403に振り直している。
これによって制御機器の相違によって連結相手ごとに区分する必要もなくなった制御車も改番を実施。17m級車体の4両がクハ1200形、18m級車体の8両がクハ1250形となった。
1963年から1964年にかけてクハ1200形は全車運転台を撤去されサハ1200形となったが、1967年にサハ1203・1204は運転台を復旧。台車を2700系の東急車輛TS-101に交換しデハ1400形・デハ1800形とともに京王線に転属した。
電動車8両、制御車2両の布陣だったため、電動車2両編成が2本、電動車+制御車の編成が2本組成され、2両編成または2+2の4両編成で動物園線、競馬場線、高尾線で運用され、1969年にはATSが設置された。
井の頭線に残ったクハ1250形は1970年に中間車化されサハ1250形となり、デハ1900形の編成の中間に組み込まれた。
京王線に転出した車両は6000系の増備に伴い1974年までに、井の頭線に残った車両は1984年までに全車廃車となった。
デハ1402・1403とクハ1203・1204は伊予鉄道に譲渡されモハ130形となり、1988年まで活躍した。
帝都高速度交通営団1400形
1953年に丸ノ内線開業に備えた試験車両として2両が製造された営団地下鉄の車両。製造は汽車製造。
アメリカのウェスティングハウス・エレクトリック社が開発した単位スイッチ式制御器と電磁直通空気ブレーキ、そしてWN駆動を採用。日本で初めてWN駆動を採用した車両となった。
試験の終了後はこれらの機器類は300形へ転用され、1300形と同様のツリカケ駆動に改造、1964年頃に中間車に改造され01系に置き換えられる1985年まで活躍した。
横浜市交通局1400形
戦後復興期の乗客急増に対応するべく1949年に導入された横浜市電の車両。
製造は木南車輛だが、同年に木南車輛が倒産したため同社が製造した最後の車両となった。
1943年に製造された1200形と類似した車体構造だが、ノーシルノーヘッダーで丸みを帯びた外観が特徴。
日立製作所製のドアエンジンを備え、横浜市電では初めて自動扉を採用した。
日本貿易博覧会開催時には反町公園と野毛山公園の間のシャトル便に投入され、その後も大型の車体を活かして活躍したが、3扉車だったためワンマン対応工事は実施されず、1970年代までに全車廃車となった。
静岡県の静岡ドライブインに1410号車が保存されていたが解体され現存しない。
名古屋市交通局1400形
※ 豊橋鉄道譲渡後の形態
1936年から1942年にかけて名古屋市交通局(名古屋市電)が導入した路面電車車両。
1937年3月の開催を控えた汎太平洋平和博覧会の観客輸送に備え1次車20両が製造され、その後日本車輌、木南車輛、新潟鐵工所により計75両が製造された。
名古屋市電の新たな標準形式を目指して開発され、日本車輌の技術者を顧問に招いて10数回もの設計変更の末に完成した。
12m級車体の3扉中型車で、その窓配置はその後の名古屋市電の標準的な形態となった。
モーターは33.6kWのものを2基搭載していたが、従来車の36.8kWより出力が低いため車体の軽量化にも力が入れられた。
イエローオーカーとグリーンのツートンカラーは本形式から採用された。
戦後も和製PCCカーと称される新型車両1900形・2000形の増備が進む中、使い勝手の良さから名古屋市電の主力車両として活躍。3扉であることから連接車と共に池下車庫、浄心車庫、安田車庫に集中配置され栄町線を中心に運行された。
地下鉄東山線開業後は各車庫に転出。下之一色線や港車庫配置車両はワンマン対応工事が施され、名古屋市電のボギー車では唯一全線で活躍した。
1974年の市電廃止まで全車両が活躍。廃止後は豊橋鉄道に9両が譲渡されモ3100形として2006年まで主力車両として活躍した。
また民間施設などにも多くの車両が譲渡され、1401号車が名古屋市科学館に、1421号車がダイエー上飯田店を経て交通局に引き取られ、日進市赤池駅付近にある「レトロでんしゃ館」に保存されている。
ラストナンバーの1475号車が藤が丘駅付近の名古屋市電展示場に保存され、1979年の展示場閉鎖後は東山動植物園に保存されていたが老朽化に伴い1995年に解体された。
民間施設に譲渡された車両は多くが倉庫となったが、1411号車は八開村(現:愛西市)で「でんしゃラーメン」という屋号のラーメン屋の店舗として使用されていた。
豊橋鉄道モ1400形
1926年に渥美電鉄デテハ1000形として製造された車両。製造は日本車輌。
全鋼製車体の試作車だったが、各部の腐食が目立ったため1952年に半鋼製車に改造。1964年には2両編成運転に備えて連結面貫通路と乗務員扉を新設。
1966年にHL制御化と集電装置のパンタグラフ化などが行われ、1968年にモ1400形と改称された。
1971年にAB制御に改造。他形式と併結して運行された。
1980年代半ばには事実上休車状態となり、1986年に廃車となった。
大阪電気軌道デボ1400形
近畿日本鉄道の前身にあたる大阪電気軌道が皇紀2600年の橿原神宮参拝需要に備えて1939年から導入した車両。製造は日本車輌。
電動車デボ1400形が16両、制御車クボ1500形が5両製造されたが、違いは電装品の有無の身でいずれも両運転台の20m級3扉ロングシート車。
系列の参宮急行電鉄も同様に伊勢神宮参拝需要に備えてデ2227形を導入しており、ほぼ共通設計の姉妹形式だった。
当初の予定通り参拝客輸送に活躍し、1944年の近畿日本鉄道設立後はモ1400形・ク1500形に改称。戦後混乱期には急行運用に就くこともあったがもっぱら区間運転の普通列車に投入された。
大阪線の長編成化に伴い1961年から1962年にかけてモ1400形の一部とク1500形全車の片運転台化が実施された。
1974年から2800系に置き換えられる形で廃車が始まり、1976年には残存車両が電動貨車に改造。1990年までに全車廃車となった。