現行の東急3000系(2代目)は東急3000系の記事を参照。
概要
1942年の大東急発足時、目黒蒲田電鉄・池上電気鉄道・東京横浜電鉄の3社が運用していた車両に3000番台が附番されたのが始まり。
この際に小田急電鉄の車両は1000番台、京王電鉄の車両は2000番台、京浜電気鉄道の車両は5000番台が附番され、1948年の大東急解体時に京急は独自の形式名に附番し直したものの東急・小田急・京王の3社は大東急時代の形式名を踏襲した。京王井の頭線の車両に1000番台が附番されていたのはこの名残である。
当時の東急では旅客用電車はもちろんのこと電動貨車や電気機関車、さらには貨車に至るまで3000番台が附番されていたが、便宜上「3000系」としてくくられたのは以下の特徴を持つ旅客用電車である。
- 間接自動加速抵抗制御
- ツリカケ駆動
- 自動ブレーキ
- 全長16~18m級車体
- 3扉ロングシート
形式各説
デハ3100形
1925年に東京横浜電鉄の開業に備え藤永田造船所で5両が製造された車両。製造時の形式名はデハ100形。
ただし実際には目黒蒲田電鉄に導入され、東京横浜電鉄には目黒蒲田電鉄の中古車デハ30形が導入された。
1926年には目黒蒲田電鉄用に7両が増備された。
16m級半鋼製車体で両運転台、3扉ロングシートであり、京浜電気鉄道デ51形(京急140形)に続く鋼製車である。
当初は集電装置にパンタグラフのほかトロリーポールを装備していたが、後に撤去されている。
1927年から1928年にかけて東京横浜電鉄に譲渡され、以後は東横線で活躍。1942年にデハ3100形に改称された。
後に車体延長改造が行われ、乗務員室も全室運転台に改造された。
1957年に9両が運転台を撤去、電装を解除し中間車化されサハ3100形に改称。1958年に電動車のまま残っていた3両が上田丸子電鉄に譲渡された。
1970年までに全車が廃車となり形式消滅した。
加悦鉄道に譲渡されたサハ3104が加悦SL広場で休憩所に転用された。側面の外板のほとんどが撤去されトロッコ列車のような外観になっているが、足回りはそのまま残されている。
1両が近江鉄道に譲渡されサハ101となり、その後小田急1600形の車体に載せ替えられモハ203となった。
他にも熊本電気鉄道と日立製作所に各1両が譲渡され、熊本電気鉄道では運転台が再設置され制御車として、日立製作所では職員輸送客車として使用されていた。
デハ3150形
1927年に目黒蒲田電鉄が大井町線開業に備え6両を導入した車両。製造は川崎造船所で製造時はモハ200形を名乗った。
全長17m級車体で定員もデハ100形の110名(座席44名、立席66名)から120名(座席44名、立席76名)に増えている。
川崎造船所が1920年代後半に阪神急行電鉄600形以降製造した「川造形」の1形式。阪急電車と共通する設計を採用した点では小林一三と五島慶太の関係に始まる東急における阪急の影響力がうかがえる。
6両が製造され、1929年に3両が東京横浜電鉄に譲渡された。この際に目黒蒲田電鉄でのラストナンバーとなったデハ203は「3」が「惨」に通じるとして忌み番を回避するためデハ200に改番されている。
1942年にデハ3150形へ改称。皮肉にもかつて回避したはずの「3」で始まる形式名となった。
このうちデハ3152・3154は戦災で損傷し、1947年にクハ3220形として復旧。全室片運転台に改造された。しかし運転台が狭かったことから1954年に車体を交換している(後述)。
残る4両も1953年から1954年にかけて全室片運転台に改造されたが、こちらは運転台に余裕のある設計となった。
1954年に車体を交換しサハ3360形に改造されたクハ3224の車体は元住吉検車区で詰所として使用されていたが、1958年に碑文谷工場で改修され上田丸子電鉄に譲渡。伊那電気鉄道の木造車クハ260形の車体更新に使用され、クハ270形として1969年の丸子線廃止まで使用された。
残る4両は1957年の昇圧を経て池上線で使用され、1967年までに廃車。近江鉄道および熊本電気鉄道に譲渡された。
デハ3200形
1927年に目黒蒲田電鉄が導入した車両。製造は川崎造船所で電動車デハ300形と制御車クハ1形各5両が製造された。
デハ200形の増備車だが、モーター出力が75HPから100HPに強化された。
1928年にクハ5が電装されデハ306となり東京横浜電鉄に譲渡、残る4両も1930年に電装されモハ311-315となった。この際にモハ200形同様「3」を忌み番としモハ303がモハ307に改番され、モハ311-315もモハ313が欠番となったが、形式名自体は300番台となっている。
1942年にデハ3200形に改称。デハ3203と3206は戦災で損傷し、1947年にクハ3220形として復旧、池上線で運用された。
しかし運転台が狭かったことから1953年から1954年にかけて車体を交換している(後述)。
このうちサハ3360形に改造されたクハ3222の車体は碑文谷工場で詰所として使用されていたが、1958年に改修され上田丸子電鉄に譲渡。伊那電気鉄道の木造車モハ5260形の車体更新に使用され、モハ5270形として1969年の丸子線廃止まで使用された。
残る8両は1954年から1955年にかけて全室片運転台に改造。1957年から1958年にかけて昇圧対応工事がなされた。
サハ3100形や3350形を中間に挟んだ3両編成で主に池上線で運用され、1968年から1970年にかけて全車廃車となった。
デハ3204が1969年に荷物電車に改造されたほか、2両が日立製作所に、1両が東急車輛製造に譲渡された。
デハ3250形
池上電気鉄道が1928年に導入したデハ100形と1930年に導入したデハ200形が前身。いずれも製造は汽車会社。池上電気鉄道初の半鋼製車である。
1934年の目黒蒲田電鉄合併時にそれぞれモハ120形・モハ130形に改番された。
元々は白金・品川方面への延伸計画に乗じて導入されたが、この計画自体は東京地下鉄道や京浜電気鉄道を巻き込んだゴタゴタの末に頓挫している。
両形式はほぼ同型車だったが、デハ100形は前面貫通型、デハ200形は前面非貫通型など車体構造に変化があったため別形式となった。
1942年にいずれもデハ3250形に改番された。
しかし他の3000系がゼネラル・エレクトリック系列の日立製作所製MMCや国鉄CS-5などの制御機器を装備していたのに対し、本形式はイングリッシュ・エレクトリック系列のデッカー式制御器を装備していたため他の形式との併結ができず運用上の制約となった。
戦後に東急は運輸省規格型車両の3700系やモハ63形、さらには戦災国電などを割り当てられたことから全車両が1949年までに地方私鉄に譲渡された。
デハ3251と3252が静岡鉄道クモハ16・17、デハ3253と3258が庄内交通デハ103・101、デハ3254-3257が京福電気鉄道ホデハ304・301-303となった。
17m級の大型の車体だったことから主力として重用され、静岡鉄道では1969年に大規模な車体修繕が行われ300形に近い外観になり、1000形に置き換えられるまで活躍した。
庄内交通の車両は1975年の庄内交通廃止まで活躍した。
京福電気鉄道の車両は1978年まで活躍し、池上電気鉄道最後の生き残りとなった。
デハ3300形/サハ3350形(東急3300系)
元々は目黒蒲田電鉄のモハ150形と東京横浜電鉄のサハ1形。製造は川崎車輛、日本車輌。
いずれも大元は目黒蒲田電鉄及び池上電気鉄道が大正末期に輸送力増強のために購入した木造の旧型国電。目黒蒲田電鉄は22両、池上電気鉄道は10両を購入したが、目黒蒲田電鉄では半数以上が短期間のうちに他社に譲渡されている。
1936年に元池上電気鉄道デハ20形(国鉄デハ6310形)4両が運転台撤去・電装解除の上鋼体化されサハ1形に、1937年から1949年にかけて目黒蒲田電鉄モハ20形(国鉄デハ6260形)5両と池上電気鉄道デハ20形6両が鋼体化されモハ150形となった。
1942年にモハ150形はデハ3300形、サハ1形はサハ3350形に改番された。
サハ3350形は後述のデハ3450形をベースにした車体で同形式と併結されていたのに対し、デハ3300形は木造車の台枠をそのまま流用した全長15.9mの小型車であった。
デハ3302と3303は戦災で損傷し、電装解除されてクハ3230形として復旧したが、車体の歪みが著しかったことから1958年に車体を更新されサハ3360形となった。
残る9両はモーターの出力が低かったことから電動車同士の3両編成を組み池上線で運用された。
1979年までに全車廃車となり形式消滅した。
デハ3306-3309は京福電気鉄道に譲渡されモハ281形となり、2両編成を組んで運用された。1986年にモハ2201形に置き換えられ全車廃車となった。
デハ3301・3304・3305は福島交通に譲渡されデハ3300形となり、池上線時代と同様3両編成で運用された。5000系に置き換えられる形で1986年までに全車廃車となった。
デハ3310は上田交通に譲渡され、デハ3300形として運用された。3300系の項も参照。
一方のサハ3350形は製造時は国鉄でも珍しい鋼製車体の中間車で異彩を放ち、桜木町事故発生後はその教訓から全車両の妻面が貫通化されデハ3450形と併結された。
こちらも全長が短く車体幅が狭かったことから1965年に全車両が上田丸子電鉄に譲渡され形式消滅した。
このうち2両はサハ60形として真田傍陽線で使用され、同線廃止後は別所線に転属。サハ61は1980年に廃車となったがサハ62はクハ290に置き換えられるまで活躍し、1986年の昇圧まで在籍していた。
残る2両は結局上田丸子電鉄では使用の見込みがなくなったことで1967年に西武建設が購入。西武所沢工場で外板張替え・広幅貫通路化・金属サッシ窓化・台車取り換えなどの改造を受け伊予鉄道に売却、サハ500形として2000年頃まで活躍した。
デハ3400形
目黒蒲田電鉄が1928年に5両を導入した電車。製造は川崎車輛。製造時はモハ500形を名乗った。
従来の川崎造船所スタイルを踏襲した深い屋根とリベットの目立つ車体だが、二段上昇窓や扉配置などは3450形や3500形に受け継がれる初代東急3000系列の標準スタイルの原点となった形式である。
戦後一時期神中線(現:相模鉄道)の応援車両として、湘南線デハ5230形と共に運用されていた時期がある。この際デハ5230形は足回りを狭軌に改造した上で自動連結器に交換していた。
1957年に車体更新が行われ、車体外板の張替えや運転台の全室・片運転台化、前面貫通化が行われたが、デハ3405は両運転台のまま残された。同車は1967年にこどもの国線に投入され、白地に黄色と赤の専用塗装(上画像参照)で異彩を放った。
他4両は池上線に投入され、いずれも1975年までに廃車となった。
デハ3403と3404は弘南鉄道に譲渡され、デハ3405は東急車輛製造の業務用車両となった。
デハ3450形
メイン画像の車両。東急初代3000系の中では代表的な形式である。
目黒蒲田電鉄および東京横浜電鉄が1931年から1936年にかけて計50両を導入した電車。製造は川崎車輛、日本車輌。製造時はモハ510形を名乗った。
川崎製の車両と日車製の車両では妻面の形態が異なり、川崎製は丸妻、日車製は三面折妻。台車も異なるものを履いていた。
初期に製造された10両はパンタグラフを2基搭載できる仕様になっていた。当時はパンタグラフの信頼性が不十分だったため、故障が多発した場合は片方を予備として使用できるようにしていたという。
初年度に導入された車両は川造BC-乙形または三菱P-900-A形と呼ばれる大型のパンタグラフを装備していた。このタイプは阪和電気鉄道や吉野鉄道でも使用されていたが、後継モデルの存在しない特殊なパンタグラフである。
一方モーターの日立HS267系は小型で出力は600V時75kW(1500V時は94kW)とそこそこながらも回転数1000rpmと比較的高めで、以後の東急3000系列でも採用された。
主制御器は製造時は日立製作所製電空カム軸式のPB-200などが使用され、昭和40年代後半に電動カム軸式のMMC-H-10Gに統一された。
製造時は片隅式運転台で、運転台側の前面窓に庇を持つ独特の前面形態であった。大東急合併時にデハ3450形に改称され、庇が撤去された。
戦後の1950年代から1960年代にかけて全室運転台化され、デハ3450、3498、3499以外の車両は片運転台化された。
更に大部分の車両が前面貫通化され、窓の拡大・アルミサッシ化、室内壁面のアルミデコラ化、床のリノリウム張り化などの更新が行われた。
デハ3472は大井町線の二子橋にあった併用軌道でダンプカーと接触事故を起こし、碑文谷工場で製造されていたデハ3600形用の車体に更新された。
両運転台のまま残されていた3両は事業用車に改造される計画があったため、屋根鋼板の張替えや床板の鋼板リノリウム張り化などの更新が行われた。
このうちデハ3498はデワ3043に改造され、ほか2両は国鉄からマヤ34を借り入れて軌道検測などに使用されていた。
更新時期が長期にわたるため50両全ての車両に何かしらの差異が存在し、全く同じ形態の車両は1両も存在しなかったとされる。
運転台には当初速度計がなかったが、ATS設置と同時に追加された。
旅客運用では新玉川線以外のすべての路線で使用されており、田園都市線では開業当時の主力形式だった。また東横線でも1972年まで使用されていた。
田園都市線・大井町線分割後は全電動車または4M1Tの5両編成で1981年まで運用された。
末期は目蒲線、池上線で下り方に制御車、または中間に付随車を連結した形で2M1Tの3両編成で運用されていた。
このうち中間に付随車を連結した編成は3両ユニットに改造され、黒地白抜きの電照式方向幕が設置された。ただし他形式のように張り上げ屋根化や前照灯・尾灯の変更はされておらず原形を保っていた。
両運転台のまま残されていた3両は前述の軌道検測のほか、検査入場時の代車や機関車・荷物電車代用、こどもの国線での単行運用などに活躍した。
1981年から廃車が始まり、1989年3月18日に全車両が運用を離脱した。
末期は3両編成3本が1950年代中期から1960年代後期まで採用されていた黄色と紺色のツートンカラー(厳密には窓周りの黄色の赤みが不足していたとされる)に復刻され、腰板部にはT.K.K.標記や前面の行先標掛け(営業運転では使用されなかったとされる)なども再現された。
運用離脱後も事故復旧車デハ3472を含む編成は1989年8月まで池上線用予備車として在籍していた。
廃車後は以下の車両が保存・利用された。
- デハ3450
製造時の姿に復元され電車とバスの博物館に保存。
- デハ3456
車体を切断し電車とバスの博物館に保存。前部は末期の状態で駆動装置の教材、後部はモハ517に復元されシミュレータとなっていた。シミュレータは2016年のリニューアル時に撤去された。
- デハ3455・3469
千葉県いすみ市のいすみ学園で保存。デハ3455は休憩所および入所者の自立支援プログラムの一環として電車の乗車方法の訓練教材として使用されている。
デハ3469は倉庫となっていたが撤去され現存しない。
- デハ3464
日立製作所に譲渡され、VVVFインバータ制御の試験車両となっていたデハ3552と併結されていた。末期はシングルアームパンタグラフを搭載していた。
- デハ3466
1985年の第1回東京国際映画祭の開催時に渋谷東急本店駐車場に派手なグラフィティが施されて展示。店舗として使用されていたともいわれている。
その後は国土計画(現:プリンスホテル)によって長野県北佐久郡軽井沢町に移送されたがほどなくして解体された。
- デハ3460・3480
東急車輛製造に移送されたが牽引車としても使用されず、ほどなくして解体された。
- デハ3499
構内入換、新車搬出時の牽引車としてデヤ3001とともに東急車輛製造に移送。7000系に置き換えられる形で使用停止となり、2010年8月まで保管されていたが搬出。
現在は群馬県前橋市富士見町でデハ3499号車保存会によって保存されており、2020年にはアルピコ交通に譲渡された5000系も同所に移送されている。
- デハ3498→デワ3043
東急社内に残った最後の初代東急3000系。小荷物輸送廃止後は長津田車両工場で入換機械として使用されていたが、2009年6月に解体された。
このほか富士急行が上田交通モハ4257を引き取り富士山麓電気鉄道モ1として復元した際にデハ3458の台車を転用したとされる。
デハ3500形
東京横浜電鉄が1939年に22両を導入した電車。製造は川崎車輛。製造時はモハ1000形を名乗った。
鋼製車体の製造技術が円熟期を迎えたころの車両であり、一部にリベットが残るが窓が大きく均整の取れた外観が特徴。
当時の東横線では標準軌に改軌して横浜駅から京浜電気鉄道・湘南電気鉄道線(現:京急本線)への乗り入れを想定していたことから台車に長軸が組み込まれ、日本の電車としてはいち早く電動カム軸式多段制御器を搭載していた。
当初は片隅式の両運転台車だったが、戦後は全室・片運転台に改造され、中間車を連結するため偶数車の方向転換が行われた。
デハ3450形とは異なり前面貫通化などの改造が施されなかったこともあって車両ごとの個体差は少なく、前面中央窓や客用扉の窓の形態に差異がある程度である。
デハ3508は戦時中の火災からクハ3657として応急復旧され、1950年にシルバーに赤帯の試験塗装編成に組み込まれ、1959年に本形式では唯一の前面貫通型、ノーシルノーヘッダー車体に更新改修された。
デハ3513は元住吉工場で改修中に全焼し、1951年に東急横浜製作所で復旧。本形式では初めてリベットレス・全室片運転台・蛍光灯照明を採用したが、後に他車でもこの形態が採用されたためベンチレーターの配置以外には大きな差異はなかった。
そのほか窓のアルミサッシ化などの更新修繕を経て中間に付随車を組み込んだ3両固定編成に改造。電源設備を中間車に集中し電動発電機を撤去するなどの改造を施された。
末期は屋根を張り上げ屋根にし前照灯・尾灯をユニット化、行先表示の電照方向幕化など大規模な改造が行われた。当初方向幕は前面上部に設置する予定だったが実現せず、前面の大きな丸いおでこから「海坊主」というあだ名がついた。
デハ3501が市立サレジオ学園で売店として使用されていたが現存しない。
標準軌に改軌可能であったことから高松琴平電鉄から譲渡の打診があったが、長尾線・志度線の重量制限を超過していたことから実現しなかった。
デハ3550形
本来は後述のクハ3650形とユニットを組む制御電動車として製造されていたが、井の頭線が東京大空襲で壊滅的被害を受けたことからデハ1700形となり、東急としては幻の車両となった。
戦後に導入されたデハ3550形を名乗る車両は4両あるが、デハ3551・3552とデハ3553・3554ではそれぞれ由来も車体形状も異なる。
デハ3551・3552は1953年から1954年にかけてデハ3200形の戦災復旧車クハ3220形の車体を東急車輛製造で新造したものに交換、再電装を施したもの。
車体形状はクハ3850形に準ずるが、台車とモーターはデハ3150形の流用品でありいささか貧弱な印象があった。
両車が同方向に連結した状態で運用され、クハ3850形と連結すると同形態の編成美を見せた。
デハ3553・3554は井の頭線から編入された車両で、それぞれ元帝都電鉄車デハ1401と元小田急電鉄車デハ1366を東横車輛工業で車体更新したもの。車体形状はデハ3600形全金属車体車と同様のノーシルノーヘッダー構造だが、1959年改造のデハ3553は取付式前照灯で連結面が切妻、1964年改造のデハ3554は埋込式前照灯で連結面が平妻丸屋根という差異があった。
デハ1366の旧車体は木造車デワ3041の車体更新のため改造され、1981年まで使用された。
しかしこの2両は一体鋳造型の川崎K-3という独特の形態の台車を装備し、モーターも帝都電鉄由来の東芝SE-139Bというそれぞれ東急では他に例のない足回りだった。このため保守面で問題があり早期に運用を離脱したとされる。
デハ3551・3552も昭和初期に製造されたデハ3150形の足回りを流用していたことから、全車両が1975年に運用を離脱した。
デハ3551は1977年に日本の民鉄では初とされる架線検測車デヤ3001に改造。1993年まで活躍した。
デハ3552は日立製作所でVVVFインバータの試験車両として運用。のちに地下鉄用リニアモーターの基礎試験にも使用された。
デハ3553とデハ3554は豊橋鉄道に譲渡され1730系となった。
降圧改造のほか3554は方向転換、電装解除を行い、モ1731+ク2731の編成を組んだ。豊橋鉄道への甲種輸送時にはすでにストロークリームに赤帯の新豊鉄色で塗装されている写真があり、東急側での改造時に塗り替えられたと思われる。
末期はモ1731のみ旧型国電の廃車発生品であるDT12台車とMT30電動機に交換されていた。
1997年に廃車となった。
デハ3600形/クハ3670形/クハ3770形(3600系)
1948年から戦災で焼失した旧型国電の払い下げを受け、再生復旧工事を施した車両。
種車は17m級車体の30系・50系であり、デハ3600形16両、クハ3670形9両、クハ3770形12両が改造された。
クハは2形式あるがクハ3670形は直流600V専用、クハ3770形は直流600V/1500V対応の複電圧車だった。これは当時東急にはまだ直流600V電化の路線が残っていたためで、昇圧後にクハ3670形も直流1500V対応改造を受けている。
焼失した通称「焼け電」の構体を叩き出しで復旧した応急復旧車と、台枠のみを流用して車体を新造した車両に大別される。
デハ3601・3602・3067・3608、クハ3671-3675、クハ3771-3775が応急復旧車、その他が車体新造車に該当する。
当然ながら車体規格は国電と同じ車体幅2800mmのため、車両限界の拡張を行った東横線と目蒲線のみで運用された。
応急復旧車は種車がまちまちなうえに損傷具合も異なっており、事故復旧車だったが車体は焼損していなかったモハ31087を復旧したデハ3601のような車両もいれば、明らかに痛みや凹凸が目立つ車両まで存在した。
クハは屋根の高さが国電のままの車両と東急の車両規格に合わせられた車両が混在しており、東急の車両規格に合わせられた車両はパンタグラフ台が備えられていた。
台枠流用車はモハ50形の流れを汲みながら屋根が若干低い形態が基本となっている。種車はさらに混沌を極めており、17m級車体の車両はもちろんのこと20m級車体のモハ40形や木造客車の台枠を流用したもの、メーカーのストック品を流用して車体を事実上新製した車両まで存在する。この新製車はデハ3616、クハ3678・3679とそれぞれラストナンバーを飾っていた。
種車が20m級車体だった車両は台枠を切り詰めており、木造客車を種車とする車両は台枠裾にその名残があった。
車体のメーカーは新日国工業(現:日産車体)、汽車会社、日本車輌、東急横浜製作所でそれぞれディティールや仕上がりに差異があった。
1961年の伊豆急行開業時に車両が不足したことからデハ3608・3612、クハ3677、クハ3780の4両が貸し出された。デハ3608は両運転台に改造され、開業前の試運転にも使用された。
当初は黄色と紺色の東急色のままだったが後にハワイアンブルーとペールブルーの伊豆急色に塗り替えられた。
東急からの借入車には新車の7000系もあり、新車を期待した伊豆半島の観光客には不評だったものの100系が増備される1965年まで活躍した。
1958年には台枠流用車のデハ3609-3611の3両が両運転台化・運転台の右側移設改造を受け定山渓鉄道に譲渡、同社の2200形となった。
1957年にクハ3771が事故に遭い大規模修繕が行われ、1960年にはほかの応急復旧車13両も東横車輛工業で更新工事が行われ、ノーシルノーヘッダーの全金属製車体に更新された。この際に車体規格が地方私鉄用の車体幅2744mmとなったため大井町線や池上線でも運用可能となった。
この際に先に更新されたクハは前照灯が大型の白熱灯だったのに対し、デハはシールドビームの前照灯で直径が小さくなっている。
また同時期に接触事故を起こしたデハ3472に本形式用の車体が転用されている。
モーターは製造時は種車のMT7・9・10やMT30・40をそのまま搭載していたが、末期は日立製作所HS269を搭載。出力142kWとデハ3450形の1.5倍を誇った。
末期は主に田園都市線と目蒲線で運用され、1975年にはそれまでのクハ3662+デハ3405に代わってデハ3608+クハ3772がこどもの国線専用車となり専用塗装に変更。1980年に7200系に置換えられるまで活躍した。
デハ3608はこどもの国線運用離脱後に廃車になったが、クハ3772はライトグリーン単色に戻され目蒲線に転属。1982年まで活躍した。
車体の老朽化が進んでいた台枠流用車とクハ3771は1971年から順次廃車され、1976年までに全車廃車となった。このうちデハ3606・3612・3614・3616、クハ3679・3776-3778・3780・3781は弘南鉄道に譲渡された。
デハ3604は長津田車両工場で入換車として1982年にデワ3043に置換えられるまで使用された。
車体更新車は1979年から廃車が始まり、1982年までに全車廃車となった。デハ3601・3602・3607・3608、クハ3672・3674・3675、3773-3775は弘南鉄道に譲渡された。
クハ3772は上田交通に譲渡され3300系のデハ3310と編成を組んだ。クハ3671は3700系とともに名古屋鉄道に譲渡され3880系ク2887となった。
弘南鉄道に譲渡された3600系はその大出力を活かして1M2T編成を組み、弘南線の主力として活躍したが7000系に置換えられる形で全車廃車となった。
クハ3773が弘前市の高屋根レクリエーションの森スキー場で休憩室として使用されており、碑文谷工場製の車体としては唯一の残存車だったが2018年にスキー場が営業終了となってからの消息は不明となっている。
クハ3650形
1942年に6両が製造された制御車。デハ3500形の派生形式で製造は川崎車輛。
前述のように本来これに対応する形式としてデハ3550形が製造されたが、井の頭線が東京大空襲で壊滅的被害を受けたことからデハ1700形となり、本来のMT編成は実現しなかった。
両車はトムリンソン式密着連結器で連結する予定だったとされ、連結器部分の車体裾の切り欠きが特徴。
台車もデハ3500形同様標準軌対応の長軸を備えていた。
当初はこのMT編成をデハ3450形に匹敵する大量増備する計画があり、電装品を元住吉工場に確保していた。計画自体は頓挫してしまったが終戦直後の疲弊した状況下で車両の修理に役立てられ、大東急分割後の京急・京王でも活用された。
前述のように火災から復旧されたデハ3508は復旧後一時本形式に編入されたが、1958年に車体更新・再電装されデハ3508に改番されている。
当初より2両固定編成となる予定だったため片運転台で、広幅の貫通路を有している。
戦後しばらくの頃は車両前部が進駐軍専用車に設定され、仕切りが設けられて白帯が巻かれたこともあった。
1952年に電装されデハ3650形に改称。広幅貫通路が塞がれたままデハ3450形などと併結されていたが、1958年にサハ3360形3両が本形式に合わせた広幅貫通路となったことでデハ3650-サハ3360-デハ3650の3両固定編成となった。
後年固定編成化されたデハ3450形・デハ3500形と同様に電源集中化と車体改修が実施されたが、この際中間車は戦災復旧車を改修したものであるため早期に廃車になることを見越して偶数車の前面が貫通化された。
最初に更新されたデハ3653・3654が普通屋根・取付前照灯で登場したのに対し、残る4両は張り上げ屋根・ユニット前照灯の海坊主スタイルで登場。デハ3653・3654も追ってこの形態になった。
1983年には電照式方向幕が設置された。
目蒲線で運用されたデハ3500形に対し池上線で運用されていたが、運用末期に約2週間だけ目蒲線に姿を見せた。
デハ3655は両運転台化され十和田観光電鉄に譲渡、同社モハ3603になった。
新設された運転台は灯具類の配置こそ既設側と同一だが平妻だったため前後で異なる印象の顔つきだった。
2002年に7700系へ置換えられるのを控えて東急時代のライトグリーン単色に塗り替えられ、その後も動態保存車として残存。路線廃止後に保存団体「七百レールファンクラブ」に引き取られ車両区建屋内に保存されている。
デハ3700形/クハ3750形(3700系)
1948年に導入された電車。製造は川崎車輛。
先に導入された3600系は車体幅が国電と同じ2805mmで、地方鉄道法の規定を上回っており特別認可を受けた目蒲線と東横線でしか運用できない制約があった。
本形式は戦後の混乱期に運輸省傘下の鉄軌道統制軌間「日本鉄道協会」によって策定された「A`形」に相当する車体長17000mm、車体幅2700mmを採用、東急の全路線で運用可能とした運輸省規格型電車である。
電動車のデハ3700形が15両、制御車のクハ3750形が5両製造され、大東急解体後の東急では初の新車となった。
製造時は直流600V対応であったが、将来的な昇圧にも対応可能な構造になっていた。
従来車は車体長16-16.5mが標準だったため、車体長17mは当時の東急では最長クラスだった。
運転台は全室片運転台で、窓配置も従来形式に準ずるが、製造時にガラスが不足していたこともあって窓が小さく鈍重な印象になっている。
制御装置は国鉄制式の電空カム軸式自動加速制御器CS5、モーターは東洋電機製造製TDK-528/9-HM。台車は扶桑金属工業(のちの住友金属工業)製鋳鋼組立形釣り合い梁式台車KS33E。いずれも運輸省規格型の指定機種であり、東急では導入実績のないものだったが、制御装置については東急でも日立製作所製の仕様の近似した電空カム軸式自動加速制御器を搭載した形式があったためCS5を採用したのではといわれている。
モーターは端子電圧600V時の定格出力が90kWで、従来車の75kWより向上している。
おもに東横線で運用され、デハ2両+クハ1両の3両編成を組成したが、余剰となるデハ5両は3600系のクハ3770などと併結された。
1952年の架線電圧1500V昇圧に際して制御装置を改造して昇圧に対応。この際にモーター出力は112.5kWに向上している。
さらに桜木町事故を契機として妻面に貫通路を設置することとなり、3両編成を組成した際に中間となるデハ3700形は前面貫通扉が設置された。
戦後の混乱期に製造されたために製造直後は台車の釣り合い梁に亀裂が生じるなど各部の欠陥が明らかとなり、1961年には構体の劣化が早かったために戦前製のデハ3450形に先行して更新修繕が施工されている。
この際に窓が拡大されてデハ3500形・デハ3650形と同サイズとなり、窓枠のアルミサッシ化、内装のアルミデコラ化が行われた。また全車両に前面貫通扉が設置された。
制御装置は日立製作所製MMC-H-10G電動カム軸式自動加速制御器に交換され、並列弱め界磁制御に用いる界磁接触器はすでに5000系など後継形式の投入に伴い東横線の急行運用から離脱していたことから撤去された。
そのほか一部車両では客用扉の窓を小窓化し、前面にあったアンチクライマーの撤去など小改造も施された。
以後の運用は同型のモーターを搭載するデハ3800形はもとより性能が大幅に異なるデハ3450形やデハ3600形との混結も目立った。東急初代3000系列は東横線の長編成化に伴う車両不足から共通運用されており、東横線から撤退してからも1両単位で検査入場していたためデハ3450形両運転台車と混結していることが多かった。
末期は全車両が目蒲線で運用され、1980年までに全車両が廃車となった。
その後は同じく運輸省規格型A'電車である3800系を運用する名古屋鉄道に譲渡され、同社3880系となった。
実はこのとき東急側は5000系の売却を希望したのだが、名鉄は過去に難儀した直角カルダン駆動を採用していた5000系を敬遠し、あえてツリカケ駆動の本形式を希望したといわれている。
デハ3800形
1953年に導入された電動車としては最終グループ。製造は東急横浜製作所。
ノーシルノーヘッダーで張り上げ屋根、バス窓という当時流行のスタイルを採用し、東急横浜製作所製コイルバネ台車のYS-M1を装備していた。
東急でイコライザーのない台車を装備していたのは最初期の小型車両を除けば本形式とデハ3700形のみとされる。
モーターもデハ3700形と同じ東洋電機製造TDK-528系列の110kW電動機。
翌年には5000系の製造が始まったため製造は2両にとどまった。
性能が同等のデハ3700形と組み合わせて運用されることが多かった。
その後の更新改造で側面窓はアルミサッシ化され、前照灯も窓下2灯の海坊主スタイルになるなど従来車に近い形態となった。
また編成の中間に組み込まれることが多かったデハ3802は東急初代3000系の電動車では唯一運転台を撤去され、デハ3801+デハ3802+クハ3855の3両編成で運用された。
1981年にクハ3855を含めて3両全車が十和田観光電鉄に譲渡された。
十和田観光電鉄では2両とも両運転台化され、増設側は全面が切妻、半室運転台となっていた。
2002年に7200系、7700系に置換えられる形で廃車となり全車両が解体された。
デハ1350形/デハ1400形/クハ1550形(井の頭線編入車)
幻の初代デハ3550形の代わりに1947年に入線した車両で、小田急電鉄や帝都電鉄の車両を由来とする。3000番台に改番されることもなく小田原線・帝都線系統の1000番台のまま使用されており、一時的に神中線から入線した車両を除けば東急屈指の異端児であった。
デハ1350形は小田原急行モハ250形(小田急1400形(左画像))を由来とする車両で、1930年川崎車輛製。小田原急行クハ564→モハ251(電装)→東急デハ1366(大東急合併に伴う改番)。
同型のデハ1367と共に井の頭線に転属するが、デハ1367は1945年5月の東京大空襲で焼失、生き残ったデハ1366が東横線に渡ってきた。
実はこの車両は相当の曰く付きである。井の頭線時代に無人で暴走し、渋谷駅の車止めに突っ込み床下機器を大破する事故を2回も起こしている。
この2回目の事故の復旧の際にデハ3550形用にストックされていた電装品を利用して復旧したため東横線に転属したとされる。
台車とモーターは帝都電鉄モハ100形(京王1400形)用の川崎K-3台車、東芝SE139Bモーターを装備していた。
入線時は2扉だったが、使い勝手が悪かったため1950年に3扉に増設されている。
デハ1400形は帝都電鉄モハ100形(右画像)を由来とする車両で、1933年川崎車輛製。帝都電鉄モハ100→東急デハ1401(大東急合併に伴う改番)。
当時としては斬新な大窓が特徴で、製造時のデハ3450形と同じく運転台前面の窓上に庇を備えていた。
東京大空襲で焼失し、デハ1366同様東横線用の電装品で復旧したため東横線に転属した。台車とモーターは帝都電鉄モハ100形のものをそのまま使用している。
クハ1550形は帝都電鉄クハ250形を由来とする車両で、1938年日本車輌製。帝都電鉄クハ253・254→東急クハ1553・1554(大東急合併に伴う改番)。
2両とも東京大空襲で被災し、応急復旧の後東横線に転属した。台車は日車D-18。
いずれも製造時は両運転台だったが復旧時に片方の運転台が撤去された。撤去側の乗務員扉もしばらくは残されていたが、時代が落ち着くにつれて全室運転台化、乗務員扉の撤去などの改造が行われた。
デハ+クハの2両編成で運用されていたが、桜木町事故を契機にデハ1366の両側とデハ1401の連結面側に貫通路と幌が整備され、クハ3671と組み合わせた3両編成で東横線に投入された。
クハは連結面非貫通のままデハ3450形などと併結し大井町線、池上線で運用された。上り向きのクハとしても東急では異質だった。
1959年にデハ1401が、1964年にデハ1366がデハ3550形3553・3554に車体更新され、クハ1554が1959年に、クハ1553が1963年にサハ3360形3365・3366に車体更新された。
デハ1366の車体はその後木造荷物電車デワ3041の鋼体化に流用されたが、ほか3両の車体は状態が悪かったため解体された。
クハ3660形
大元は1947年に小田原線デハ1158の復旧用車体として川崎車輛で製造されたもの。
本来復旧対象となったのはデハ1158のみだったが、なぜか2両分の車体が製造。しかもデハ1158は譲渡先である相模鉄道で復旧してしまったため、小田急・相鉄では使うアテがなくなってしまった。
そこで戦災廃車となった旧型国電の木造車サハ25形のTR10形と組み合わせて東横線用の車両に転用したのが本形式である。
当時は独自設計の新車の製造は禁止されていたため、書類上は京浜線クハ5213・5222の改造扱いとなっている。
本来の種車である小田急デハ1150形と同じ15m級車体で、半室片運転台、前面は平妻型となっている。もともとは電動車用に製造されたためパンタグラフ台を持つがパンタグラフは最後まで搭載されなかった。
昇圧に合わせて前面・連結面の貫通化、全室運転台化、室内蛍光灯取付などが行われたが、側面窓のアルミサッシ化は行われなかった。
東急では珍しい上り向きのクハだったため下り向きのデハ3450形と組み合わせられた。
田園都市線には開業時からクハ3661が投入され、クハ3662はこどもの国線専用車となった。当時のこどもの国線はデハ3405の単行運転で、多客時にクハを増結する形になっていたが、当初使用していたクハ3850形のクハ3866は下り向きであり、上り方向に留置線が広がる鷺沼検車区の構造上上り向きのクハ3660形が好まれたという経緯がある。
1975年に運用を離脱。クハ3661は上田交通に譲渡され、デハ3310と共に上田交通3300系としてクハ3772に置換えられる1982年まで活躍した。
デハ3310より廃車が早かったのは終戦直後の製造だったため車体の材質が悪かったためとされている。
クハ3662は乗り物好きとして知られる作家・精神科医の斉藤茂太に引き取られ、東京都府中市の斉藤病院敷地内の売店として使用されていたが、病院の改築に伴い解体された。
クハ3850形/サハ3370形
1953年に川崎車輛で5両、東急横浜製作所で12両が製造された車両。
運輸省規格型の束縛がなくなった時期で、戦後初の東急独自の新車である。
同時期に製造されたデハ3800形とは似て非なる独立した形式。
当時の東急は直流600Vの路線も多かったこともあって電動車が圧倒的に多く制御車・付随車が少なかったため、昇圧後の効果的な長編成化のために制御車のみが製造された。
基本的な形態はデハ3700形と同様だが、当初より前面貫通型で乗務員室の奥行きが拡張、それに伴い客室側の窓割りが後ろに寄っており連結面が平妻になっている。
窓の寸法はデハ3700形と同じく小さいが、戦後の混乱からひと段落した時期の製造だったこともあって鋼体も内装も丁寧な仕上げが施されている。
前照灯は埋込式で、台車も当時熾烈な開発競争が行われていた新型のものを採用。川崎車は軸梁式の川崎OK-6、東急車はペデスタル式のYS-T1を装備していた。
黄色と紺色のツートンカラーを採用したのは本形式が最初である。
川崎車はクハ3854以外は幌枠がなく、貫通扉上部にウィンドウヘッダーが巻かれている。東急車は全車両が幌枠を装備しているなどの相違点がある。
トップナンバーが3850と0で始まっているのは本形式とデハ3450形のみの特徴。デハ3450形は50両が製造されたためデハ3500形との干渉を避けるための措置だったが、全17両の本形式のトップナンバーが3850となった理由は不明。
登場後はデハ3400形以降の3000系列と併結され、新玉川線以外の全線で運用された。
クハ3866は開業時のこどもの国線専用車となった。この車両はこどもの国線開通式でテープカットを務めた常陸宮正仁親王や政府関係者、当時の東急社長五島昇ら要人の乗用となった車両でもある。
後に閑散時にデハ3405による単行運転を行うにあたり鷺沼検車区の配線の都合上下り向きのクハでは入換作業が必要となることからクハ3662と交代で本線に復帰したが、内装はこどもの国線仕様のままであり異彩を放っていた。
1973年から更新修繕が実施され、窓寸法の拡大・アルミサッシ化、内装のアルミデコラ化、張り上げ屋根化、前照灯・尾灯のユニット化などが行われ海坊主スタイルになった。
この際に編成の中間に組み込まれていた5両は運転台を撤去されサハ3370形となったが、運転台跡は丸妻のままで窓配置も後ろに寄っているなど運転台の撤去跡が残る形態になっていた。
また3両ユニット化に伴い補助電源を集中化し、5.5kVAの東芝CLG319電動発電機を搭載した。これは大阪万博モノレールの廃車発生品とされている。万博開催時にモノレールを東急が運行管理し、万博閉幕後はこどもの国または田園都市線沿線にモノレールを移設する計画だったが、これが中止となったため転用されたとされている。
末期はいずれも目蒲線、池上線で運用され、1989年の初代東急3000系列一斉廃止まで活躍した。末期にはクハ3861・3866・サハ3375が黄色と紺色のツートンカラーに復刻されたが、更新修繕後の姿でツートンカラーを纏ったのはこのときが唯一だった。
廃車後はクハ3855・3861が十和田観光電鉄に譲渡され、デハ3800形と共に運用された。
クハ3856とサハ3375はしばらく長津田検車区に留置されていたが1994年頃までに解体されている。
サハ3372は1985年の第1回東京国際映画祭でデハ3466とともに渋谷で展示され、終了後に軽井沢町に移送、ほどなくして解体された。
サハ3250形
1965年から1966年にかけて東横車輛工業碑文谷工場で7両が製造された電車。東急初代3000系列では最後の新造車である。
大正末期から昭和初期に製造されたサハ3100形・サハ3350形の置換えを目的に製造され、東急としては最後の鋼製車である。3250形を名乗る形式としては元池上電気鉄道車のデハ3250形に続いて2代目である。
全金属製のノーシルノーヘッダー車体で、丸屋根のサハ3366とほぼ同型。サハ3251はサハ3351の改造名義で製造され、デハ3700形の改造予備台車の住友金属工業製FS15台車を、他は新造車として東急車輌製TS322台車を装備していた。
全車両がデハ3500形の中間に組み込まれ、電源集中化の際にサハ3251は大阪万博モノレールの廃車発生品とされる東芝CLG319電動発電機を、ほか6両は静止型インバータ(SIV)を搭載した。
サハ3251は1984年にクハ3850形の廃車発生品であるYS-T1台車に交換された。
末期は目蒲線・池上線で運用され、1989年までに全車廃車となった。
サハ3256は車籍を残したまま長津田検車区に留置されていたが、1994年に除籍・解体された。
サハ3360形
1954年から1963年にかけて東横線系統・井の頭線の戦災復旧車を車体更新したもの。
サハ3361・3362はデハ3150形・3200形の戦災復旧車クハ3220形のクハ3222・3224の車体更新車。製造は東急横浜製作所。台車は種車の川崎製弓形イコライザー式台車。
サハ3363・3364はデハ3300形の戦災復旧車クハ3230形の車体更新車。製造は東横車輛碑文谷工場。台車は国電譲りのTR10台車。
サハ3365・3366は元帝都電鉄クハ250形のクハ1550形クハ1553・1554の車体更新車。製造は東横車輛碑文谷工場。台車は日本車輌製D18。
サハ3361-3363の3両はデハ3650形に合わせて広幅貫通路で製造され、外観もシル・ヘッダー付き、半鋼製車体とデハ3650形と合わせられていた。デハ3650形の中間に組み込まれ、最後まで固定編成を組んで運用された。
サハ3364-3366は狭幅貫通路、ノーシルノーヘッダー、アルミサッシの全金属製車体。製造時期が3両ごとに離れているため仕様が異なり、サハ3364は切妻でベンチレーターが2列、ランボード付き、サハ3365が切妻でガーランド型ベンチレーターが6個、ランボードなし、サハ3366は丸屋根平妻でベンチレーターが6個となっていた。この3両はデハ3450形・3500形と組んで運用された。
固定編成車の電源集中化に伴い大阪万博モノレールの廃車発生品とされる東芝CLG319電動発電機を搭載している。
一方サハ3365・3366が装備していた日車D18台車はこの2両が東急で唯一の採用例だったことから、1975年にサハ3366の台車がデハ3300形の廃車発生品に交換された。1981年には全車両がデハ3450形の廃車発生品の台車に交換された。
サハ3361-3363は早期廃車も予定され、デハ3650形の偶数車は前面貫通化も行われたが結局廃車は撤回され、初代3000系列としては最後に室内更新が行われた。張り上げ屋根化は実施されず、側面窓は上段下降・下段固定で中桟が窓中央にある構造になった。
壁面のアルミデコラ化と床のリノリウム化は他車と同様。客用扉はステンレス製の小窓のものに交換された。
1989年までに全車廃車となった。
デヤ3000形
1977年に休車となったデハ3551を改造した私鉄初とされる本格的な電気検測車。
両運転台化の上検測用パンタグラフの新設、中扉と車端寄り1ヵ所の扉の閉鎖、屋根中央部を低屋根化し検測ドームとサーチライトを新設している。
ドーム部分の車内にはやぐらが組まれ、架線を目視するための革張りの椅子と工業用テレビカメラが取り付けられた。
台車とモーターはデハ3150形のものを流用していたが、後にデハ3450形の廃車発生品に交換された。
普段は奥沢検車区の目黒寄りに留置されていたが、デハ3450がモハ510に復元されて保存されたことに伴い長津田検車区に転属。デハ3499とともに動力車として使用された。
1992年にデヤ7200形に置換えられる形で廃車。その後は東急車輛製造で入換車として使用され、2代目3000系との共演も見られた。
7000系に置換えられて使用を停止され、2010年に解体された。
デワ3040形
小荷物輸送用に改造された荷物電車。「デニ」ではなく「デワ」となったのは目黒蒲田電鉄由来の電動貨車の後継形式だったためとされる。
かつては大岡山駅や田園調布駅などに荷物ホームがあり、ここで荷物の積み下ろしを行っていた(両駅とも地下化により現存せず)。
3両が存在したがいずれも由来の異なる車両である。
デワ3041は旧型国電の木造車モニ13012の改造車。ダブルルーフの屋根が東急の車両規格を突破していたが特認で運用された。
モーターは種車由来の英メトロポリタン製MT12、他の電装品は新品とされた。
1964年にデハ1366が車体更新された際に余剰となった旧車体に交換され鋼体化。両運転台化と中扉の拡張、客室設備の撤去と一部側面窓が埋められた。
台車は後にTR14からTR22に、モーターは142kWのHS269Crに交換された。
デワ3043に置換えられて廃車・解体された。
デワ3042は1967年にデハ3204を改造。田園都市線開業時に手小荷物取扱量が一時的に増大したこと、旅客輸送量が増大したことから荷物電車の予備車確保のため改造された。
種車の老朽化が激しいため改造に際し外板が張り替えられリベットのない外観となった。
当初はダークグリーン塗装だったが1979年にライトグリーンに前面に黄帯を巻いた塗装になった。
デワ3043に置換えられ廃車となり、以後は東急車輛製造の入換車として使用されていた。
デワ3043は1981年にデハ3498を改造。すでに小荷物取扱量は減少していたため座席の撤去など小規模な改造だったが、改造からわずか1年で荷物列車が廃止されてしまった。
その後はデハ3604を置換えて長津田車両工場の入換機となり、山側に大型の両開き扉を新設。青と黄色のツートンカラーで東急最後の初代3000系として活躍した。
2009年に解体された。
運用
7000系が登場した1970年代初頭までは東横線で運用され、開業当時の田園都市線では主力形式としてそれぞれ最大5~6両編成で運行された。
末期は目蒲線・池上線で3両固定編成で運用された。
大都市近郊路線で戦前製の車両が1980年代まで使用されていたという事例は日本はもちろん先進国でも珍しい事例で、アメリカ・シカゴサウスショアーラインやドイツ・ベルリンSバーンなどわずかである。
もともと1970年代の東急は徹底した物資統制を働きかけ社長の五島昇からも「ケチ副」と称された副社長の田中勇や、東急特有の額縁スタイルを推し進めたことでも知られる工務担当の横田二郎など上層部の節約志向の影響が強かったとされるが、東急初代3000系列自体が以下の要因で非常に物持ちが良かった点も挙げられる。
- 頑丈な構造だった。
- 車体構造と性能が東急の実情に合致し、機器類の互換性・信頼性に優れ安定していた。
- 田園都市線の開業と爆発的な旅客需要増により車両不足に陥り、新車を製造しても旧型車を廃車にするわけにはいかなかった。
- 目蒲線や池上線などのローカル線の存在。
- 地方私鉄への譲渡も5000系への希望が集中し、さらには戦後製の3700系が先に名古屋鉄道に譲渡されるなどして戦前製の車両が残存した。
復刻塗装まで施されて華々しい引退を飾った初代3000系だったが、晩年は空気ばね台車のステンレスカーに対し起動時のショックが大きい、ツリカケ駆動の騒音が他社のそれより大きい、高速走行時のピッチングが激しいなど乗り心地の悪さが指摘され、非冷房だったこともあって乗客から不評であった。
「板張り電車」と揶揄された東武7800系同様関東私鉄の旧型電車として際立っており、おおくぼ良太のコミックソング「目蒲線物語」や西島三重子の「池上線」など旧型車両の状態の悪さを揶揄したような曲も発表されていた。
しかし本形式が東急から淘汰されて10年以上が経過した2000年代には旧型車両がノスタルジーの対象として注目を集め、東急初代3000系最後の地である池上線・東急多摩川線に東急初代3000系の塗装を復刻したラッピング電車が運行されるようになった。
楽曲「池上線」の顛末は東急池上線の項を参照。