五島慶太
ごとうけいた
生没年 1882(明治15)年~1959(昭和34)年
長野県殿戸村(現青木村)出身。本人曰く「寒村の村一番の資産家」出身との事で、家を継いだ兄の虎之助は後に青木村村長、長野県会議員を務める地元の名士となった。
経済的理由から21歳で東京高等師範学校(現筑波大学)へ進み、25歳で東京帝国大学政治学科→法学科へ進み、29歳で卒業。在学中に子息の家庭教師を務めた縁で知己を得た加藤高明の斡旋で、農商務省に入省し後に鉄道院へ移動。
1912(明治45)年、久米万千代(工学博士・久米民之助の娘)と結婚し曾祖母の実家である五島家を復興し、姓を五島に改める。
1920(大正9)年、武蔵電気鉄道(現在の東急東横線)社長の郷誠之助に請われて鉄道院を辞め、常務として入社。1922(大正11)年には阪急グループ総帥の小林一三に請われて目黒蒲田電鉄(現在の東急目黒線、東急多摩川線)の専務を兼務した。
両社は当時渋沢栄一らが進めていた田園調布開発の主要路線とされており、関東大震災で焼け出された人々が移住してきたことにより経営不振だった業績が好転することになった。五島は付加価値を付ける為に娯楽施設や学業施設を誘致し、更に私財を投じて学校法人五島育英会を設立し、教育振興を晩年までおし進めた。
1936(昭和11)年に東京横浜電鉄(1924年に武蔵電気鉄道を改称)と目黒蒲田電鉄の社長に就任し、1939(昭和14)年に両社を合併し(新)東京横浜電鉄とする。さらに1942(昭和17)年に京浜電気鉄道と小田急電鉄を、1944(昭和19)年に京王電気軌道を合併しいわゆる大東急となった。
1944年、東条英機首相に請われて、第二代運輸通信大臣を務めたがこれが災いし、戦後公職追放の対象となった。1951(昭和26)年に追放解除となり、翌52年に東急電鉄会長として復帰。東映の再建や北海道、伊豆、箱根、軽井沢の観光開発を推し進めた。同様の開発を推し進めていた西武グループ総帥の堤康次郎とは、「伊豆戦争」「箱根山戦争」と称されるほどの競争を繰り広げ対立した。なお堤も「ピストル堤」の異名を持つほどの強引な経営手腕で知られた人物であるが、女性関係に関しては堤が自身も分からないほどの愛人を侍らせ多くの子供を作ったのに対し、五島は万千代が1922年に亡くなった後は再婚せず2男2女を儲けたのみ(次女は早世、次男は太平洋戦争で戦死)と対照的であった。