3880系
さんぜんはっぴゃくはちじっけい
元をたどると東京急行電鉄が1948年に導入した運輸省規格型電車の3700系。上り向き(東横線基準で渋谷向き)制御電動車のデハ3700形が15両(3701~3715)、下り向き(同、桜木町向き)制御車のクハ3750形が5両(3751~3755)の計20両。
主要機器は国鉄制式の電空カム軸式自動加速制御のCS5(これは東急時代に日立製のMMC-H-10Gに換装されている)、モーターは東洋電機TDK-528/9-HM直流直巻電動機(90kw/600V→112kw/750V)、ブレーキはAMM/ACM自動空気ブレーキと運輸省規格型の指定機種を採用している。
東急時代は東横線や目蒲線(当時)で運用されていたが、1975年に12両、1980年に残りの8両が廃車となり、20両全車が名古屋鉄道(名鉄)に譲渡された。
1970年代の名鉄は会長の土川元夫を筆頭にクロスシート指向が根強く、新車はパノラマカーメイン、旧式のAL車やHL車も車体更新と同時にクロスシートへ改装することも珍しくなかった。
ラッシュ対応は長編成化で行っていたが、第一次オイルショックの影響で鉄道利用者が激増し、クロスシート車での運用が限界点に達しつつあった。
現場からはロングシート車の導入が熱望され、ちょうどその頃『民鉄旬報』の第96号に東急が旧型車の売却を行う広告を掲載。それを見た名鉄の役員が会議の議題に取り上げ、購入を決定した。名鉄が購入を決めたのは新車価格の10分の1という売却額と自社3800系と同じ運輸省規格型電車に属する点、モーターがAL車と共通する点などがある。
東急側は『民鉄旬報』で改めて比較的新しい5000系の売却を希望したが、5000系は直角カルダン駆動であり名鉄は過去に直角カルダン駆動の実用試験で不具合が多発したことから敬遠したと言われている。
当初は他のAL車との併結運転や共通運用も検討されたが、弱め界磁制御が東急時代に撤去されており復元も困難だった(モーターのタップごと除去していた)事、ジャンパ栓の仕様が異なるために併結・共通運用は断念し、元3700系だけで2M1Tの3両編成を組むこととなった。
なお東急3700系は20両しか存在しなかったため、不足分の補充として第2次導入時に東急3600系のクハ3671(クハ3670形)もセットで譲り受けている。
導入に際しては塗装を名鉄スカーレットに変更し、ATSの載せ替え、先頭に出るモ3880形(3881~3893の奇数)とク2880形を対象に後部標識灯を取り替え、行先表示板受けを増設、モ3880形の貫通幌撤去を実施。
編成中間に組み込まれるモ3880形(3882~3894の偶数)については前照灯・マスコンなど運転台機器の一部撤去を行い、事実上の中間電動車化が行われている。
また第2次導入分については制御車が1両(クハ3755→ク2885)しか存在しなかったため、デハ3713を方向転換して電装解除・制御車化改造を行いク2886とし、上記のクハ3671をク2887としている。
名鉄では、名古屋本線上で豊橋方の形式をもって系列を定義している。吊り掛けのAL車ではこれが制御電動車(3000番台)だったが、元が東急由来の本系列は構造上向きが逆(渋谷方がデハ)だったこともあり、例外的に岐阜方に制御電動車(モ)が来る状態のまま運用された。
車番の新旧対応
名鉄←東急の順
並行路線がなく、混雑が激しい犬山線が主な活躍の場となり、2編成併結の6両編成で最混雑時間帯の列車へと集中投入された。
その威力は絶大で、クロスシート4両編成のSR車だと遅延が発生したのに3両編成AL車の3880系だと遅延がウソのように解消したというエピソードも伝えられている。
報告が上がると、導入プロジェクトを主導した役員は、「2X4と3X3、どっちが多い?」とこともなげに返したという。
3880系の実績で名鉄役員の考えも変わり3ドアラッシュ対応構造の6000系の設計・製造のゴーサインが降りる形となった。ただ、6000系導入時点では引き続きクロスシートを存置した、国鉄で分類するならば近郊型に近いものを「通勤型」とした。
2M1TというMT比の高さから起動加速度こそ他のAL車と比較すると優れていたが、全界磁定格速度が低い上に弱め界磁制御がないために中速域以上の加速力は悪かった。このために当初は普通列車運用のみに使用されていたが、後年は急行や準急、正月ダイヤ期間中の豊川線特急に充当されることもあった。
6000系及び改良型の6500系の増備が進行すると、役目を終えるがごとくに廃車が進み、1986年までに全廃となった。
車体は全車両解体されたが、台車についてはHL車の3780系とAL車の3800系へ、扇風機は車内送風機のない従来車へと転用された。