概要
名古屋鉄道(名鉄)が保有していた特急車両7000系・7500系の愛称。
1961年(昭和36年)6月に運行を開始。当時進行していたモータリゼーションへ対抗するための切り札として製作された。
イタリア国鉄の車両ETR300「セッテベッロ」を参考に、日本で初めて運転席を前面屋上に上げて展望席を配置するという屋上運転台式の前面展望構造を取り入れたことが最大の特徴であり、「パノラマカー」の愛称の所以となっている。
1960年秋ごろに企画責任者である白井昭とデザイナーの萩原政男が新聞の取材を受けた際に「パノラマカー」と呼称し、それが大見出しで報道されたことで広まったとされる。
車両設計においては、例外的な認可箇所を減らすべく監督官庁の指導を仰いだ上で検討が行われたが、なにぶん日本初ということもあり、当の監督官庁も扱いに困ったという。
開発当時は近鉄ビスタカー同様にブルーリボン賞受賞を目指すとされ、実際に1962年にブルーリボン賞を受賞した。
車両デザイン
1960年8月ごろからクレイモデル3案とモックアップが製作され、同年9月にはデザイン画が公開されたが、いずれも前頭部に後述のオイルダンパーを備えたボンネットが突き出た国鉄特急形のような造形になっていた。デザインを担当した日本車輌の関係者はどこが悪いと憤ったとされるが、白井は当時の名鉄副社長土川元夫にデザインのやり直しを進言、日本車輌から国鉄を通じて萩原に依頼された。
実は萩原は小田急3000形(初代)で展望車の相談を受けていたが実現しなかった過去があり、さらに国鉄ではデザイナーの名前が表に出ることがなかったことから引き受けたとされる。
萩原もボンネットが突き出た案については「乗客に事故を連想させて不安を与える」として全面ガラスを先端部まで延長し、オイルダンパーを車体の中に収納するデザインを採用した。
ちなみに当初は車体側面に「パノラマ」と描かれたロゴマークを入れる案もあったが、萩原は「泥臭い」と却下したという。
運転台
前述のように運転台を前面屋上に配置したのが特徴だが、「セッテベッロ」および後発の小田急ロマンスカーは客室内に運転室への階段を設けていた。
しかしパノラマカーは「すべての人が前を見られる」をコンセプトとし運転室の出入りには車体側面のステップを用いることとした。ステップには夜間の乗降用に階段灯も内蔵し、運転室から車内へ非常用の折り畳み梯子を備えていた。
運転室の車内容積はスバル360を参考にしたとされ、詰めれば5人は入るとされる。
構造上駅構内で運転士が出入りを行う際に頭をホーム上屋にぶつけないように注意する必要がある。そのため乗務員交代で運転士が出入りする機会の多い神宮前駅では1984年の構内配線改良時にホーム上屋の端部を持ち上げる2重構造にして頭をぶつけないように改良した。
警笛
名鉄の車両で初めてミュージックホーンを搭載し、豊橋駅~平井信号場間(飯田線との共用区間の為)を除く全線で使用された。この装備は、今日でも名鉄の特急専用車に受け継がれている。
このミュージックホーンはトランジスタを用いた発振回路で波形を生成し、増幅器を通してスピーカーから音を出すという形式であり、当時は「トランジスタホーン」として宣伝されていた。
実は登場当初は現在よく知られるものと音程が微妙に異なっていたとされる。
回路を応用した電気警笛(電笛)も装備され、発車時は電笛→ミュージックホーン、到着時はミュージックホーン→電笛と組み合わせて鳴らされることも多かった。
徹底した事故対策
登場当時の名鉄沿線ではダンプカーなどトラックの踏切冒進による列車事故が非常に多く(1959年内には確認できるだけで5件)、乗客乗員が死傷する事例も少なくなかった。
特に1958年12月24日には一ツ木駅付近で3850系が踏切を冒進したオート三輪と衝突し、積み荷のシンナーに引火。車体が全焼し乗員乗客36名が死傷する大惨事となった。
そんな状況下で展望席を列車前頭部に設けるとなれば、従来の構造では乗客保護には不足と考えられ、社内からは企画に反対する声が相次いだ。
そこで、沿線の萱場工業からの提案で事故対策として標識灯横、ダンプカーのバンパー(更にはダンプの台枠主構造)に高さを合わせて大容量の油圧緩衝器(バンパー)を配置することとした。エアコンユニットの一部も緩衝材の意図を持って油圧緩衝器近くに置かれている。これらの対策をとり、名鉄は「10トンのダンプカーが80キロのスピードでぶつかっても大丈夫」としていた。
その対策の真価が問われる事故が、運転開始後すぐに訪れる。
運転開始から約半年後の1961年11月29日、実際に木曽川堤駅付近の踏切で砂利を満載したダンプカーとの衝突事故が発生した。ところが、車両への被害は展望席窓ガラスのひび割れ程度で(展望席に座っていた乗客は無傷)、それどころかダンプカーを40mも跳ね飛ばし大破させている。乗客への被害は、跳ね飛ばされたダンプカーが側面にぶつかった際に側面窓ガラスが割れたことによる破片で8人が軽傷を負っただけだった(ダンプ側も死者ゼロ)。この一件は地元紙に「ダンプキラー」として取り上げられている。
事故後、この結果を受けた名鉄部内ではダンプカーとの衝突以上に当時残っていた半鋼製車および木造車との衝突を恐れていたそうで、列車同士の衝突事故でパノラマカーが絡んでいないと安堵したとまで言われている。
事故当該車のモ7004は復旧時に客室内にニキシー管式の速度計を設置したが、好評だったため後の増備車にも設置された。
機器類
5500系を基本形とした東芝製MC-11C形多段電動カム軸式パッケージ型制御器を搭載。これは5500系同様全電動車で冷房車であることから床下に冷房用電源の搭載スペースを捻出するために採用したとされる。
モーターも5500系と準同型の東洋電機製造TDK-825/1-A形(出力75kW)。駆動方式は中空軸並行カルダン駆動。ブレーキは発電ブレーキ併用のHSC-D形電磁直通ブレーキを採用した。
台車は住友金属工業製ペデスタル式空気ばね台車のFS335形。
編成
1次車は全て6両固定編成で、3次車以降は4両固定編成も登場した。設計上は10両編成も可能で、実際に10両編成で試運転が行われたこともあった。
- モ7000形
展望席を備えた先頭車。
- モ7050形
中間車。
- モ7150形
中間車だが工場内の入換用に簡易運転台を備える。
豊橋方2両目と3両目に連結され、4両と2両に分割して入場した。
後に設備が更新され6両固定編成のまま入場可能となったため1968年9月に簡易運転台は撤去された。
このほか末期は7700系の中間車モ7750形を組み込んだ編成もあった。
製造時期ごとの変遷
長期間にわたって製造された上に頻繁に編成を組みかえたため、末期は編成内に製造時期の異なる車両が混在していた。
編成番号は豊橋方先頭車を基準とする。
1次車
6両編成3本(7001F~7005F)。前頭部に「Phoenix」のエンブレムを取り付けていた。これは「ダンプカーに衝突しても無事であるように」という願いが込められたとされる。
当時は名古屋本線でのみ運用に就いたため行先表示器は設置されなかった。
2次車
6両編成4本(7007F~7013F)。1962年5月製造。運転台前面窓の寸法が拡大され、排障器の形状が変更された。
車側灯が1灯式から2灯式に変更され、制御装置はMC-11D形に変更。
展望席の配置も微妙に変更され最前部の座席と冷房装置の間隔が550mmから600mmに広げられている。
製造時からニキシー管式速度計と前面の逆富士型行先表示板を備える。
3次車
4両編成5本(7015F~7023F)。1967年3月製造。運転室の窓配置が7500系と揃えられ、運転室側面に排気口が設置された。
制御装置がMC-11E形に変更され、前頭部に広角凸レンズ「フロントアイ」が製造時から備えられた。
4次車
先頭車のみ4両(7025~7028)。1968年10月製造。中間車は6両編成から組成変更して組み込んだ。車内のロングシート部分に吊り革を設置。
5次車
4両編成2本(7029・7031F)。1969年4月製造。側面に電照式の座席指定表示器が設けられ、各車両に号車番号札差しを設置。
座席指定表示器は末期は埋められており枠だけが残っていた。
6次車
先頭車のみ6両(7033~7038)。1970年4月製造。モーターをTDK825/2-A形に変更。中間車は6両編成から組成変更して組み込んだ。
7次車
4両編成3本(7039~7043F)。1971年7月製造。冷房装置がTAC-15形(冷房能力4,500kcal/h(5.2kW))からRPU-2208形(冷房能力8,500kcal/h(9.9kW))に変更。
展望席のシートピッチが900mmから880mmに変更され、最前部席と冷房装置の間隔が660mmに広げられた。
8次車
6両編成2本(7045・7047F)。1974年6月製造。台車が7700系と同型のFS384に変更され、座席モケットの色も7700系と同じスカーレットに変更された。
前面の行先表示器が電動式になった。
6両編成だがすでに簡易運転台が必要なくなったためモ7150形は組み込まれていない。
9次車
中間車のみ12両。モ7050形7100番台とも。1975年7月製造。
ラッシュ時対策として側面扉を幅1200mmの両開きとし、扉両脇をロングシートに、クロスシート部のシートピッチを840mmに縮小した。
1984年に2両が先頭車化改造され7100系となった。
運用
1961年4月22日に神宮前駅で報道公開された際には報道関係者が本線上に脚立を立てて運転台に6人も入り込む大騒ぎだった。
5月15日には監督官庁や鉄道・報道関係者、メーカーを招待した試乗会を実施。後に株主や沿線住民向けにも試乗会が行われた。
6月1日に豊橋駅で出発式を開催し、名古屋本線で運用に就いた。当時は豊橋駅と新岐阜駅で展望席に座るために数時間待ちする乗客も見られたという。
1961年9月には宣伝用短編映画『ぼくらの特急』の撮影と機能試験を兼ねて10両編成での試運転を行っている。
さらに東海道本線との並行区間で国鉄の特急「こだま」を追い越すパフォーマンスまで撮影しようとしたが、先行列車に追いついてしまい叶わなかった。
1962年6月から犬山線でも運行を開始し、急行運用にも就くことになったため前頭部に逆富士型の行先方向板を設置した。
1963年5月26日には国際かんがい水排水委員会の団体臨時列車として先頭車のみの2両編成で運行された。
派生型の登場、そして運行終了まで
1963年には車体を低床化し、走行性能を改良した7500系が登場。
1967年には支線区向けに7000系4両編成も導入された。全電動車のため当時の変電所容量の都合上支線区では2両分の動力をカットして運行された。また安全確認のために広角凸レンズ「フロントアイ」が運転台前方に設置された。
1967年12月に6両編成4本を4両編成・8両編成各2本に組成変更したが、7500系が8両編成となったため7000系は1968年10月に6両編成と4両編成に組成変更された。
最盛期には7000系116両、7500系72両の陣容であった。
1973年には当時タブレット閉塞を採用していた三河線・尾西線に入線できる支線区増結用として「セミパノラマカー」7700系が登場。計24両が製造された。客室は7000系と同様であるが前面貫通式となっており、展望は確保されていない。1984年には7000系最終増備グループの中間車に運転台を取り付けた改造車の7100系も登場したが、こちらも前面貫通式。
一方で1970年代半ばには通勤ラッシュ時の混雑が激しくなり、パノラマカーでは8両編成でも積み残しが相次いでいた。土川が1974年に逝去してからロングシートの3880系が導入され、以降7000系が増備されることはなかった。
2005年8月、ホームのかさ上げの都合から床が低く空港線(名鉄空港線)へ乗り入れられない7500系が全車廃車となり形式消滅。
その後2006年にパノラマカーの2009年度内の全廃が発表され、2008年12月に7000系の定期運用が終了した。
晩年には名古屋鉄道の公式サイトでも引退が告知され、沿線住民が名残を惜しんで乗車する光景もあった。白井は孫を連れた老人がパノラマカーの最前席に座っている光景を見て「これこそ私がパノラマカーで目指したものであった」と語ったとされる。
2009年8月に7000系が、同年11月に7100系が全車廃車となり形式消滅した。
残る7700系は三河線で最後の活躍を見せ、2010年3月に営業運行を終了。こうして7000系列「パノラマカー」は名鉄より消滅し、延べ40年以上にわたる歴史を終えた。
特急仕様車
名古屋鉄道では1962年から一部で座席指定特急を運行しており、1977年3月に全車指定席の「特急」と全車自由席の「高速」を分割した。
7000系と7700系には座席指定特急としての運用を目的とした改装車がいた(7000系についてはメイン画像参照)。外観上は白帯が入っていることで区別され、「白帯車(はくたいしゃ)」と呼称される。
改装は1982年と1986年の2回行われているが、すべて同じ車両が工事を受けたわけではなく、第1次改装が行われた後一般車に復元されたものや一般車から直接第2次改装を行った車両など経歴はバラバラ(外観上はどちらの改装もほとんど同じ)。さらに7700系では改装メニューが簡略化されている。改装メニューは以下の通り。
第1次改装(1982年)
東海道本線に117系「東海ライナー」が登場したことに伴い対抗するために行われた。
- 座席表皮の張り替え(オレンジとブラウンのツートンカラー)
- ヘッドカバーの1席独立化
- 通路にカーペットを設置
- 壁面にゴミ箱を設置
第2次改装(1986年)
JR東海発足と東海道本線の増発に対抗するために行われた。7700系もこの改装を受けている(※は7700系には行われていない)。1999年に1600系が登場するまで運用されたが、同一料金にもかかわらず新型車両との間のサービスレベルの差は大きかった。
- シート交換、ヘッドレスト独立化。ロングシート部も交換
- 豊橋方先頭車にカード式公衆電話設置
- 貫通扉の山吹色塗装(晩年は省略)
- 案内放送チャイムの新設
- ※荷物棚の交換(5700系と同じもの)
- ※化粧板・蛍光灯カバーの交換
- ※展望席にスピードメーター復活(5700系と同じもの)
- ※ゴミ箱の壁面埋め込み
保存車
名古屋鉄道を代表する列車であり、当初は沿線自治体から保存の要望も高かったとされるが、断熱材に採用されていたアスベストの撤去費用の都合で実際に保存された車両は少ない。
7000系のトップナンバーである7001編成の両先頭車(モ7001・モ7002)が名鉄の舞木検査場に、2002年に廃車された7027編成のうちの3両(モ7027・モ7092・モ7028)が中京競馬場に保存されている。
舞木検査場の保存車は、モ7001は前頭部がデビュー当時の原形に近い外観に復元されており、イベント時に公開されている。
中京競馬場の保存車は「パノラマステーション」とされており、競馬開催日・場外馬券発売日には車内と運転台を公開している他、場外馬券発売日はミュージックホーンの演奏も可能である。また、モ7092は座席をすべて取り外しており、ビュッフェとして営業している。
余談
- なお7700系と似たような車体を持ち、足回りをAL車から流用したツリカケ駆動の7300系もパノラマカー一族に含まれる事がある。
- 引退後10年以上を経た現在でも、駅の案内板や名鉄杯をPRする系統板には7000系のイラストが使われ続けている。それほどまでに、パノラマカーが名鉄の顔として果たした役割は大きかったと言える。
- 土川は愛知県公安委員会の委員長に就任した際、愛知県が設置する踏切注意の看板にパノラマカーを描いたものを採用した。流石にやり過ぎと思われたか土川が退任してからは戻されたが、現在でも飯田線沿線などにパノラマカーを描いた踏切注意の看板が残されている。
関連項目
- 70000形 2017年に登場した新型パノラm・・・ではなく小田急ロマンスカー。形状、色合いと形式名からして、どうみてもパn( 。製造は豊川の日本車両で、甲種輸送の際は小田急線より早く名鉄線(実際は飯田線との共用区間だが)を走行。
- パノラマエクスプレスアルプス・シルフィード 旧国鉄→JR東日本が保有した同様の展望設備を持ったジョイフルトレイン。前頭部の鋼体構造についてもパノラマカーを参考としている。
- 名鉄スカーレット:7000系導入を機に採用された、名古屋鉄道現行の塗色。警戒色としての意味合いを持って採用された。
- 鉄道ファン(雑誌):創刊号の表紙は本形式であり、初代編集長は本形式をデザインした萩原政男だった。