日本で初めて成功した大衆車にして、軽自動車を日本独自のジャンルとして定着させた立役者。スタイリング及びメカニズムに類似点がみられるフォルクスワーゲン・ビートルになぞらえて「てんとう虫」と呼ばれる。
前史
詳しいことは富士重工業の記事に譲るが、戦後日本ではGHQにより航空機の研究、製造の一切を禁止されていた。中島飛行機も例外ではなく富士産業へと改名し、バスや鉄道車両を製造したり、スクーター(ラビットスクーター)を売っていた。こうして平和産業としての一歩を歩み始めた富士産業であった…はずだったのだが直後GHQの財閥解体政策によって解体の憂き目に会い工場ごと15社に解体されてしまう。しかし解体前に既に勃発していた朝鮮戦争は戦争特需をもたらすだけではなく、日本の政策をも変えるものであった。GHQによって接収されていた土地、建物などが元の所有者に返されることになったのだ。更に航空産業も段階的に解禁する方針が打ち出され、これを受けて解体された旧富士産業の内、富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・東京富士産業・宇都宮車輛の5社が再合同し、前より規模は小さいものの富士重工業として生き返ったのであった。
時代背景
そんな1950年代は国産乗用車は複数の大手メーカーから売られていたのだが、その価格はどれも100万円を越えるものばかりで当時月収数千円ほどしかなかった庶民にとってはマイカーというのは夢のまた夢の話であった。また軽自動車の基準も今より厳しく、軽自動車というよりは二輪車や三輪トラックのためにあると言っても過言ではなかった。実際に何社も4輪の軽自動車を作ったがそのいずれも失敗し、比較的まっとうな成績を収めたのはスズキのスズライト(事実上ロイトLP400のコピーではあったがカタログ上は初の4人乗り軽自動車であり、しかも日本初の前輪駆動を採用と先進的なモデルだった)のみであった。しかしそのスズライトでさえも成功したと言えるものではなかった。(実際には後部座席に座れる限界は子供一人だとされる。)
そんな中、富士重工では普通乗用車の開発に取り組みスバル1500の試作にまでこぎつけるも採算面や競争力への懸念と不安からスバル1500の市販化を断念、スバル1500の開発は頓挫してしまった。しかしここで培ったノウハウやデザインは後にスバル360で活かされることになる。(例えば開発当初富士精密工業からエンジンを供与されていたが、開発後半にはラビットスクーターの工場設備を転用して自力で自動車用エンジンを作れる様になった。)
1954年には新道路交通取締法が施工され大きさはそのままに排気量が360ccに統一された。このころの軽自動車は非常に不安定なカテゴリで現れてはすぐに消えを繰り返す不安定なものだった。安定して生産されていたのは前述のスズライトのみであり、それでさえ月間数台というレベルで細々と生産されているにすぎなかった。
この不安定なカテゴリに目を付け、大胆な手法で挑んだのが富士重工業だった。既にスズライトが実現させていた大人4人乗りに加え、
- 路線バスが走れる場所ならどこでも走れる走破性
- 過酷な日本の夏でもオーバーヒートせず、80km/hを安定して出すこと
- 重量は350kg
- そして価格は35万円
と言う無茶苦茶で不可能に限りなく近いものであった。
実現への道のり
富士重工業はこの不可能を可能にするため、今まで出来合いの部品で自動車を作っていたのを見直し、この軽自動車のためだけに人員やコストを割き部品を新規に設計、生産した。ねじも例外ではなく、ねじまでもこの軽自動車のために新規開発されたものだというから驚きである。こうした開発方法はこの時代では非常にレベルの高い近代的な手法であった。
またエンジンを前に置くのではなく後ろに置いて後輪を駆動させたり(RR)、タイヤは小さい10インチ品をブリヂストンに専用に開発してもらうなどして徹底的にメカ部分を最小化。車内に使えるスペースを最大限に大きくした。なお、当時すでに富士重工は小型自動車に最も理想的なレイアウトは(後述の2CVのような)前輪駆動と考えていたが、当時のスバルの技術水準では時期尚早と判断し、ビートルのようなRRレイアウトを採用したのであった。なお、日本初の前輪駆動車であった初代スズライトの場合は不等速のL型ジョイントを採用していたが技術的に未熟で多くの欠点を抱え、結局スズライト(特にバン仕様のSL→TL)の後継的存在のフロンテの2代目からはRRに移行した。スバルが独自に等速ジョイントを開発し前輪駆動車を実現させたのは1966年のスバル・1000からとなる。
ボディには一般的な0.8mm厚に対し0.6mm厚の薄い鋼板を採用、重量の軽減をはかった。ボディデザインは薄い鋼板を使用しても強度を保てるよう独特な卵型で構成し、また強度に影響のない場所にはアルミ材を使用。ルーフには最新素材のFRPを使用し、リヤウィンドウにはアクリル樹脂を使用するなどしてこれまた徹底的な軽量化に取り組んだ。
また、ボディが独特な卵型になったのは大人4人が乗り込んでも大丈夫なようにとの工夫の賜物でもあった。
こうした新規開発などによる徹底的な軽量化や、ラビットスクーターに使っていたエンジンを流用できたことなどによってこの軽自動車は当時の日本の大衆車構想の要求事項を全て満たし、あるいは上回り、そして運輸省の試験も全てパスしスバル360として日の目を見ることになったのである。
概要
昭和33(1958)年3月3日に発表され、同年5月1日発売。発売当初の本体価格は42万5千円(当初掲げた目標をほぼクリアしたことで発売に至ったスバル360だが、唯一価格だけが目標をクリアできなかった)。
プレス発表では当初カタログのみの発表だったものの、斬新な新車の実物を見たいという記者たちの強い要望から、急遽伊勢崎から2台の実車を搬送した。会場に訪れた記者たちが代わる代わる試乗しスバル360の乗り心地を走行性を体験し、大反響を呼んだ。日本国内のメーカーはもちろん、イギリスの自動車雑誌にも「スバル360はアジアのフォルクスワーゲンになるだろう」と評されるほどだった。販売1号車の顧客は松下電器産業(現在のパナソニック)の初代会長、松下幸之助であったのは有名な逸話である。
こうして長い時を経てようやく貧しい庶民にも手が届く、本物の大衆車が登場したのである。
丸みを帯びたスタイリングの軽く剛性に優れたモノコックボディーに、最高出力16馬力を発生する空冷直2・2ストロークのエンジンを後部に載せたRR方式のエンジンレイアウトを採用。…発売当初のモデルは、少し飛び出たヘッドライトから「でめきん」の愛称が付けられた。
大ヒットの結果それまで自らが発売していたラビットスクーターを瞬く間に置き換え、ついにはスバル360増産のためにラビットスクーターの製造が中止されるまでになった。
昭和34年9月、初のバリエーションモデルとして「コンバーチブル」が追加発売。同年12月には商用モデルとなる「コマーシャル」も追加され、昭和36年には最高出力が18馬力に強化された。
昭和36年9月、上級グレードの「デラックス」を追加発売。この頃のモデルからヘッドライトの周りが変更された。またこの昭和36年型は順調に売れ行きを示し、17000台もの売上を叩きだしている。
昭和38年8月、「コマーシャル」に替わる商用モデルとしてライトバン仕様の「カスタム」が発売。同年12月には「スーパーデラックス」も追加発売される。
昭和39年4月、電磁式オートクラッチ車を追加発売。同年7月には潤滑方式が分離式となり、最高出力が20馬力に強化。
しかし、昭和42年にホンダがN360を発売。性能と目新しさで敵わなくなったスバル360の快進撃はここでストップし、軽自動車販売数のトップの座をついにホンダに譲り渡してしまった。
昭和43年11月、スポーティーグレードの「ヤングSS/ヤングS」を追加発売。「ヤングSS」に搭載されたエンジンは、ソレックス・キャブレターを2基装備し、最高出力も36馬力にまで強化された。標準車系も25馬力に強化。
当時の流行に迎合したハイパワー化と度重なるデラックス化により、スバル360は本来の「簡潔さ」という美点を見失ってしまい、基本設計の古さからくる陳腐化を際立たせる結果となった。
昭和44年8月、新型となる「R-2」へモデルチェンジ後も併売されたが、昭和45年4月に生産を終了。
こうして大衆車第1号の歴史は幕を閉じたのである。
なお、スバル360はエンジン排気量を450ccに拡大してアメリカに少数輸出されたが、アメリカ人の乗るには車体が余りにも小さすぎ、ビートルがアメリカ市場で収めたような成功を得ることは叶わなかった。
現在
スバル360は12年間の生産で39万2,000台を生産したベストセラーであり、富士重工業の自動車メーカーとしての基礎を築き、「マイカー」という概念を日本に植え付けた功績は疑うべくもない。
生産台数が多かった事とセンセーショナルな生まれから、現在でも人気の高い旧車の一つであり、未だに愛好家が多い。
各地の自動車博物館にも、必ずと言っていいほど保存されている定番車種となっている。
サブカルチャーにおいても、昭和時代のノスタルジーを醸し出すうえで分かりやすい車として度々登場している。
昭和レトロをテーマとした、2001年公開の映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では、雑魚キャラの愛車として大量に登場した。
ちなみに、当時の軽自動車の規格故に現代基準では車体が非常に小さく、なんとハイエースのグランドキャビンにそのまま収容することが出来る。
ちなみに…
実はフランスでもスバル360と非常によく似た生い立ちや方向性のクルマが誕生していた。
同車は1900年代の初頭に、当時のシトロエン社の副社長が農村へバカンスに赴いた際に未だに輸送に関しては馬車や手押し車に頼っている農民の姿を目撃したことが開発の発端となった車である。
この車の開発コンセプトはこうもり傘にタイヤ4つをつけたような、シンプル且つ実用的な車であり、また設計時の要求に関しても
- 当時のシトロエンの高級車、トラクシオン・アヴァンの1/3以下の値段
- 未舗装の道路を60km/h程度で巡航可能であり、その上で積み荷の卵が割れないくらいに快適な乗り心地
- ガソリン3Lで100kmを走れる燃費
- 機械に詳しくない者でも運転しやすいこと
などといった、「大衆車」は何たるかを極限まで煮詰めた要求がなされている。
モーターショーでの発表時こそ「変な車」としか言われなかったが、いざ発売してみると実用性と価格の安さで文字通りフランス、いやヨーロッパの国民車となった。
2CVの「傘にタイヤをつけたようなシンプルで実用的な車」というコンセプト、そして「大衆車」を追い求めるあまり物によっては(当時としては)無茶とすら言えそうなものすら加えられた要求事項、そして発表時は変な車だの出てもすぐ消えるだのとしか言われなかったがいざ発売してみれば「庶民の車」として大ヒット→定着…。
開発のアプローチこそ違うものの、2CVの生い立ちなどはスバル360にそっくりではないだろうか(しかし、日本とフランスの国民性を反映してか解決策は異なり、一言で言えばスバル360は細やかに突き詰められており、2CVはアバンギャルドで大胆不敵である)。