概要
フランスの変態…もとい超個性的な自動車メーカーとして名高いシトロエンが製造・販売していた大衆車。
徹底的な合理化と実用性の追求、そして何より価格の安さで技術の仏国面…もとい「大衆車とは何たるか」を世に示したクルマである。
歴史
別荘でバカンスを過ごすため農村に向かったシトロエンの副社長(当時。のち社長)、ピエール・ブーランジェはそこで自動車メーカーの重役としてあまりにショッキングな光景を目の当たりにした。
なんと、農村では移動・輸送の手段としては未だに馬車や手押し車が幅を利かせており、19世紀と何ら変わりない環境だったのである。
「別荘なんかでくつろいでいる場合じゃねえ!」とばかりに社に戻ったブーランジェは、すぐさま綿密な市場調査を行い、その結果「安くて実用性の高いクルマを作れば今までクルマを手にできなかった人にも売れるし、彼らの生活も豊かにすることが出来る」という結論に達した。
そしてブーランジェは「安くて実用的な大衆車を作る」という計画をブチ上げた。
……しかし問題はこの時ブーランジェがスタッフに出した要求。
よく考えて見れば大衆車としてはあまりに当然のことばかりなのだが、1930年代当時の自動車技術では明らかに度を越した要求(つまり変t…おや?誰か来たようだ)だったのである。
どのような要求かというと、
- 荷物(ジャガイモなどの農作物や、或いは樽等)を50kgは積めるようにしろ
- 最高速は60km/hは出せて当たり前
- 燃費はガソリン3Lで100km位は走れる(つまりリッター33km)ことを目指せ
- 農村の砂利道を全速力でかっ飛ばしても積み荷の卵が割れないくらいの快適な乗り心地
- お値段はトラクシオン・アバンの1/3以下に抑えるべし
- 車体重量は300kg以下
- 出来ることならメカに詳しくない主婦(女性)でも楽に運転できるようにしとけ
- 試作車には私・ブーランジェ(身長190cm)がシルクハットを被って試乗する。その際シルクハットを脱がなければ乗れないようであれば設計やり直し(これは「ハット・テスト」と呼ばれた)
- なお、以上の要求事項さえ満たせばデザインは特に問わない
こんなのである。後述するものも含め、1台の車で賄う当時の生活事情や女性ドライバーの増加等は先見の明がある開発・設計思想だったのである。
そして当時の自動車技術とその周辺環境はどんなもんだったか。
- 1929年、ヨーロッパ初の自動車専用高速道路(ドイツ・ケルン=ボン間35km)が開通
- 1931年、ベンツ、初の4輪独立懸架サスペンション搭載量産車「170」を発表
- 1932年、フォード、量産V型8気筒エンジンを発表
- 1933年5月、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーが「国民車」構想と総延長7000kmの高速道路「アウトバーン」構想を発表
- 1934年5月、シトロエン、前輪駆動とモノコック構造車体の先駆け「トラクシオン・アヴァン」1号車「7CV」を発表
こんなところである。ドイツの「国民車」構想は立ち上がったばかりであり、自動車は未だ都市住民、それも富裕層のものであった。
シトロエンはフォードに倣った大量生産の手法を取り入れて成功した(量産で価格を下げる余地は十分ある)企業とは言え、当時の技術ではこれはあまりに無茶苦茶な要求だった。
このトンデモな要求を可能な限りクリアするために、アンドレ・ルフェーブル技師率いる開発チームは大いに苦労した。
と、そんな折に第二次世界大戦が開幕。フランスはドイツに占領されるという事態になってしまった(この時点でドイツは「国民車」=フォルクスワーゲンKdf(初代ビートル)を発表していたものの、戦争突入によって量産は延期されていた)。
そんな中、開発チームは「社長と俺らの夢の大衆車をナチスなんぞに渡してなるものか」と試作車をあの手この手で隠蔽。あまりに隠蔽しまくったので当のスタッフもどこに隠したのかわからなくなってしまい、改築のために古い工場を取り壊したらその中から「発掘」された車両もあったとか。ちなみにこの時ブーランジェもナチスに反対するため公然とサボタージュを決行し、占領軍向けのトラックの生産を「わざと」遅らせたり時には敢えて欠陥車を作るなどしてナチスに対してあの手この手で嫌がらせを行っていた。
第二次大戦がナチスドイツのボロ負けで終了するや、ブーランジェ達がTPV(2CVの開発コードネーム。Toute Petite Voiture(超小型車)の意味)の開発を再開したのは言うまでもない。
そして1948年10月、フランス最大のモーターショー、パリ・サロンに於いてTPVはその秘密のベールを脱いだ。
…来場者は驚愕した。
一言で言えば「俺の知ってるクルマじゃない」。当時の自動車の常識に真っ向から挑戦するようなあまりにぶっ飛んだデザインのクルマが展示されていたのである。
車体は強度を確保しなからも安価なシトロエンお得意の波形鋼板。
屋根はキャンバス、つまり布製。
なだらかに傾斜した後部。
この奇妙奇天烈摩訶不思議・奇想天外四捨五入・出前迅速落書無用…いや、もう素直に「奇怪」としか言えないクルマによりパリ・サロンの会場はどよめきと爆笑の渦に包まれた。
- 「何だこの乳母車は」「リアルみにくいアヒルの子だな」(一般客)
- このブリキの缶詰に缶切りをつけろ(米国人ジャーナリスト)
- 一言で表すならば、「回る異状」だ(ボリス・ヴィアン - 作家)
会場に居合わせた当時のフランス大統領ヴァンサン・オリオールすらこの妙ちきりんな小型車に対して困惑の表情を隠せなかったと言われている。
この奇天烈な見た目、そして出ては消えていったあまたの「先人」の例でTPVの将来を危ぶむ声も少なからずあった。というか多すぎた。
しかしブーランジェは「今までの大衆車と違う。こいつは売れる」と確信していた。なぜならTPVの奇怪なスタイルは決して狙ったものではなく、徹底した市場調査に基づいて、「合理性」と「実用性」を突き詰めた結果のものであったのだから。TPVを笑うパリの市民はブーランジェの眼中には無かった。彼の視線は10数年前、馬車や手押し車で田舎の未舗装路を進むのに苦労していた農民たちに向けられていた。
TPVは「2CV」という名で、1949年より市場に送り出された。ここでもシトロエンとブーランジェは周到さを見せる。最初の生産モデルは「先行量産型」と位置づけられ、2CVを特に必要とする層―農漁民など第一次産業に従事する田舎の人たち、そして彼らを往診して回る医者―を優先して販売された。しかもこの時の条件として「2CVの日常における実際の使用条件についてのモニタリングに協力する」事がユーザーに課せられた。本格量産に向けた技術改良と販売方針の改善のためである(後述する電動エンジンスターターの搭載はこの時に採用されたもの)。
:ここで「2CV」という車名の由来に触れておきたい、「2CV」は直訳すると「2馬力」だが、実際は「(1913年法に基づく)自動車税課税馬力(Cheval Fiscal)第2区分」という意味。フランスでは実際の最高出力を基準に自動車税の税率を変えていた。
:2CVがいくら軽量でもさすがに2馬力では走れない。非力な初期型でも実際のエンジン出力は排気量375ccに対して9馬力/3,500rpmはあった。
:なおフランスに於ける課税馬力の計算式は1956年、1978年、1998年に改定がなされており、現行式で初期2CVの課税馬力を算出した場合、「2CV」ではなくなるかも知れない。
本格量産が始まると、多少変な見た目でも安いし燃費はいいし荷物たくさん積めるし(舗装路だろうが凸凹道だろうが)普通に走るし、「俺らのクルマ」としてはなんの問題もないよねとばかりにバカ売れ。
メインターゲットである農村では目論見通り安くて実用的なクルマとして大ヒット、都市でも同じく実用性が受けてさらに「変な見た目?個性的と言いなさい」とばかりに普及しまくった。
だがブーランジェがこの成功を見届けることはなかった。1950年11月11日、彼はヴィシー郊外で交通事故に遭い、その生涯を閉じる。享年65歳。
2CVが民家の駐車スペースに収まり、カフェの横に止まり、凱旋門の脇を走り抜けていく姿は当たり前となった。
また軽さと簡潔な構造故の信頼性・強度などが生み出す悪路での走破性能はフランス以外の欧州各国でも高く評価され、フランス以外でも日本等で走り回るようになった。イギリスに至っては2CVのライセンス生産を実施したほどである。
さらに若者の中には2CVの高い走破性能を活かし、2CVで世界一周旅行をやる者も少なからず現れた。
その後もエンジンの性能アップや内外装のマイナーチェンジ、サイズアップを経て製造が続けられてきたが、1980年台に入るとさすがに設計の古さ...特に衝突安全性が全くない脆弱なボディが問題視されたため、フランス本国では1988年に・ポルトガルでは1990年に生産が終了し、40年近い歴史に幕を下ろした。
2CVは、世の中に対して「大衆車とはいかなるクルマか」を問い、究極に近い形でその回答を示した。
例え見た目が変だと言われようと、クルマの歴史に残る存在の一つと言えよう。
仕様
ゆったりサイズの車体
実は車体はそれほど小さくない。車体寸法は現代で言うコンパクトカー程度、高さに至っては1.6mもあり、現代のハイトワゴンにも相当する大きさであった。軽自動車より小さい、わずか400ccのエンジンで、このサイズの車体を駆動する。それが可能だったのは、車体構造が極めて簡素で軽量だったからである。
車体、特にボンネットは強度を確保するために曲線を描くものとなっている。トラクシオン・アヴァン・シリーズや、後年のDSも手がけたフラミニオ・ベルトーニのデザインに成るそれは、飛び出したヘッドライトと合わせてどこか生物的な、愛嬌のあるシルエットとなっている。当然ながらボディは極めてペラペラであり、衝突安全性は設計された当時としても最悪の部類。側面衝突でもされようものなら紙箱を潰したようにペシャンコになるため「(衝突で乗員の体が投げ出される)バイクの方がまだ安全ではないか」と言われるほどだが、衝突安全ボディの思想が生まれる遥か以前であり、モデル後期になるまで問題とはされなかった。
側面ドアは4枚が基本。ブーランジェの要求にはドアの数は示されていなかったが、ルフェーブルら開発スタッフは冠婚葬祭の集まりでの乗り合わせを想定し「前部座席を倒さなくても乗り降り出来る」ようにしたとも伝えられる。
強度と車内空間を確保するために車体は曲線基調となっている一方で、窓ガラスはコストを優先し平板状となっている。窓は複雑な巻き上げ機構を省くため、旧式のバスのように中折れ式(窓の上半分が開く)となっている。
エアコンなんて贅沢なものはついてない(サードパーティ製オプションで後付のエアコンは発売されている)。その代わり、前面窓の下に原始的だが効率よい換気のできる通風器を備えている。
屋根はキャンバストップ。空冷エンジンの騒音を逃すばかりでなく、暑い日には開け放して気持ちよくドライブすることができるし、高さのあるものを積むときはやっぱり開ければなんとかなる(実際、背の高い柱時計を2CVに載せてみた広告をシトロエンは打っていた)。
座席はパイプフレームにゴムベルトでキャンバス地を吊ったというハンモックのような構造であるが、これが簡素な割には中々のホールド性を持っている。
他のシトロエン車と同様、FF駆動故、床板はプロペラシャフトが存在しないためフラット(初代ビートルやチンクエチェント、スバル360なども同様だが、これらはRR駆動なのが異なる)。
結果として、現代のトールワゴンにも見劣りしない、ゆとりある室内空間が実現された。
コンパクトなエンジン
空冷式の400CC水平対向OHV2気筒を、車体前方にオーバーハングして搭載する。耕うん機並の簡素な構造であり、上記の大きさの車体を駆るには精一杯の性能ではあるが、信頼性は絶大。奏でる音も耕うん機並に騒々しいが、一方でその設計は極めて高度かつ緻密であり、また構成部品も組み立てに際しガスケットが不要なほど高精度で製造されている。
2CVのエンジンの特徴的な部分として、コンロッド(ピストンの往復運動をシャフトの回転運動に変えるための腕)が分割されていないという点がある。
自動車用としては、コンロッドは大端部で2つに分割され、上下から挟み込むようにボルト留めでクランクシャフトと締結できるようになっているものが主流である。これを2CVのエンジンでは分割せず、液体窒素で冷却された組み立て式クランクシャフトにそのまま圧入してしまうという方式をとった。こうすれば留めるためのボルトが不要、工作精度も上がるし、何より部品点数とコストを減らせるという大胆不敵、もとい合理性の極みとも言える発想である。
もちろんシリンダー単位での取り外しが出来なくなるため整備性は悪化するが、実際に使う分にはこんなものは滅多に取り外さないので割り切ったのである。
簡潔の極みとも言える設計のためエンジンは非常に頑丈なものとなり、非力ながら長時間の全開運転にも耐えるというタフさに仕上がった。
またタフなだけでなく粗悪なエンジンオイルにもよく耐え、先の世界一周旅行では未開地でまともなエンジンオイルが手に入らなかったのでバナナの皮から採った油を代わりに入れたら問題なく走れたという、どこかのバイクにも匹敵する逸話があるという。
スターターに関しては、当初は「そんなもの積んだら金かかるし故障箇所が増えるからやだ」とばかりに搭載を見送り、伝統のクランク棒式、そして農業用発動機でおなじみ、信頼と実績のワイヤー式を採用するつもりだった。…が、試作車のエンジンをかけようとスターターを引っ張った女性秘書が爪を割ってしまってさあ大変。「できれば女性でも楽に運転できる」という要求事項を満たすために結局、電動スターターが追加された。
その一方で手回しのクランク棒式スターターはそのまま残されており、始動性が悪化する寒冷地での始動に絶大な威力を発揮した。
2CVが長期にわたって生産されるにつれ、さすがに400CCのエンジンでは高速化する交通事情に付いて行けなかったため、排気量は最終的には602ccまで拡大したが、手動によるクランキングスタートも最後まで可能であった。
サスペンション-真祖「足のいいヤツ」
2CVの真骨頂とも言える「悪路への強さ」。カゴ満載の生卵を乗せて巡航速度60km/hで田舎のあぜ道を飛ばしても、1個も割れない事を目指した足回りはどのようにして生まれたのか。
サスペンションは当時の先進自動車技術の一つである4輪独立懸架を搭載している(フロント:リーディングアーム式・リア:トレーリングアーム式)。ユニークなのは、フロントサスとリアサスを(ロッド‐コイルスプリングを介して)横置き式のサスペンション・シリンダーでつなげた点で、前輪が路面から突き上げを受けるとフロントサス側のスプリングが収縮し、サスペンション・シリンダーは前方に移動すると同時にリアサス側のロッドを引き後輪を下げて、車体をフラットに保つよう働く。この結果、どんな悪路であっても車輪は高い路面追従性を発揮し、また車体ロールも抑えている
前後関連懸架とでも言うべきこの2CVのサスペンションを、シトロエンでは「軽車両用サスペンション」と呼んでいた。
トランスミッション
マニュアル4速である。実は当初は「女性でも楽に扱えるようにギアの段数は3段に抑えろ」とかブーランジェ社長から言われていたのだが、お世辞にも高出力とは言えないエンジンのパワーを最大限に活かすために「4速はあくまでオーバードライブだ」と言い張って4速式で通した。
余談
- 宮崎駿は2CVをこよなく愛し、自分の個人事務所に「二馬力」という名前を付けるほど。1985年に「車に乗る際は針と糸と自転車ゴムひもは必ず持っていく」「東名に乗ってると苦労する(アクセル踏んでもスピードでないから)」「(1980年代に)ワーゲンは生産を中止したが、2cvはまだ作っている。勝った…」という文章を書いている。宮崎の監督作品『カリオストロの城』でクラリスがこの車を運転する。
- ビートル(フォルクスワーゲン社)、4CV(ルノー社)は2CVに先行してデビューしたライバル車種。当時の大衆車としては格段に高性能で、良くも悪くも2CVよりも「まともな」車である。
- ルノー4は4CVの次代モデルでこちらも2CVのライバル車種。やや地味ながらもハッチバックとして最初に成功を収め、生産終了まで835万台も生産された。
- フィアット500(チンクェチェント)、スバル360は2CVに近い立ち位置の自動車。2CVとは違って車体はかなりコンパクトで車内は狭い。これらの車はコンセプト的には2CVの影響を受けてはいたがレイアウトやデザイン的にははビートルや4CVの縮小版といった趣である。