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宮崎駿

みやざきはやお

宮崎駿(1941~)は日本のアニメーション作家、漫画家。株式会社スタジオジブリ取締役。通称「宮さん」。左翼。
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概要編集

日本を代表するアニメーション作家。愛称は「宮さん」。子供の視点で製作された作品が多い。


東映動画アニメーター出身で、若き日は演出家の高畑勲とタッグを組んで数多くの名作テレビアニメを手掛けた。1970年代後半ごろから高畑との方向性の違いが顕在化したため自ら演出も手掛けるようになり、1985年のスタジオジブリ設立以降はもっぱらアニメ映画作品を制作している。


日本はもちろん海外でも支持の厚い人物であり、フォロワーも数多い。アニメのみならず、多くの分野において国内外に多大な影響を与えた。


略歴編集

1941年1月5日東京都東京市生まれ。男4人兄弟の次男。父は数千人の従業員を擁していた同族企業「宮崎航空興学」の役員であった。疎開先の宇都宮市宇都宮空襲に遭遇。9歳で東京都杉並区永福町に転居。母は体が弱かったため、宮崎家の家事などは駿が主に担当していたという。


もともと漫画家を志望していたが手塚治虫の影に悩んで挫折。1963年に学習院大学を卒業後東映動画へ入社した。初仕事は映画『わんわん忠臣蔵』(動画担当)。直属の上司は大塚康生であり、大塚は入社当初から宮崎の才能は際立っていたと語っている。大先輩にあたる森康二は後に「諸君脱帽したまえ」と宮崎のアニメーターとしての力量を認めたという(「作画汗まみれ」157頁)。


入社後も漫画への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連のアニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受けアニメ制作を一生の仕事にしようと決意したという。


1971年、高畑と大塚、小田部羊一(後の任天堂キャラクターデザイナー)に誘われて東映動画を離れ、Aプロダクション、その後ズイヨー映像(のちの日本アニメーション)へ移籍。1974年、高畑・小田部とともに制作した『アルプスの少女ハイジ』を大ヒットさせる。1978年、大塚康生とタッグを組んで制作した『未来少年コナン』で初監督を務める。その後テレコム・アニメーションへと移籍し、1979年の『ルパン三世カリオストロの城』で映画監督デビューを飾るが、両作は商業的には失敗し「売れない監督」の烙印を押されてしまう。


「アニメブーム」のさなかの不遇時代(この頃も『名探偵ホームズ』『ルパン三世』などの仕事は行っており干されていたわけではない)を経て、鈴木敏夫徳間書店関係者の奔走が実って1984年に公開された映画『風の谷のナウシカ』が出世作となり、1985年、高畑勲らとスタジオジブリを設立した。以降、主にジブリを拠点として制作活動を行っている。


1989年の『魔女の宅急便』は国内興行収入43億円を記録する大ヒット作となり、それまで1978年の映画版『宇宙戦艦ヤマト』が保持していた国内アニメ映画興行1位の記録を更新した。1997年の『もののけ姫』は興行収入193億円を記録し、当時の日本映画の国内興行収入記録を塗り替えた。さらに次作の2001年の『千と千尋の神隠し』では国内興行収入308億円を記録し、これは2020年鬼滅の刃の登場まで破られなかった。


評価編集

映画監督としては、2003年に「千と千尋の神隠し」で第75回アカデミー賞長編アニメ賞を獲得した他、ベルリン国際映画祭の金熊賞といった海外での主要映画賞のアニメ部門を総ナメにする快挙を成し遂げた。1998年に「アニメのアカデミー賞」と言われるアメリカの第26回アニー賞において、アニメの振興に貢献した人物に与えられるウィンザー・マッケイ賞を授与。2014年には、日本人として黒澤明以来2人目となるアカデミー名誉賞を受賞している。そして2024年に「君たちはどう生きるか」で第96回アカデミー賞長編アニメ賞で2度目の受賞を果たした。

また、ピクサー・アニメーション・スタジオジョン・ラセターは宮崎の大ファンであると公言しており、会社ぐるみの付き合いがある。


若かりし日は、わずか2〜3分で緻密な絵コンテを上げる仕事の早さ、朝9時から朝の5時まで、ぶっ続けで働き続けても平気な体力、余人の追随を許さないレイアウトセンス、誰よりも大量のアイデアを出す怒濤のようなイマジネーションで知られ、アニメーターとしては疑いなく史上最強の人物であった。


1970年代には『ハイジ』や『コナン』の仕事で業界ではその突出した才能は誰もが認めるところとなっており、アニメーター志望の若者にとって宮崎はある種カリスマ的な存在となっていたが、同時に『ナウシカ』までの宮崎監督作品は大衆受けはせず、興行的に成功はしなかった。


当時は同年生まれである富野由悠季の『機動戦士ガンダム』などのSFアニメが一世を風靡する中、東映漫画映画の復権を志向していた宮崎や高畑の作風が「野暮ったい」「古臭い」と思われていた。スポンサーには「お前の画風は馬糞(まぐそ)臭い」と言われ『となりのトトロ』の企画を却下されていたといい、同じく同期の芝山努は「宮さんのアニメは確かにイイですよ、でも、僕の『ドラえもん』の方がヒットしているんです」などと話していたというが、宮崎アニメが商業的に大成功を収める頃にはこうした発言も聞かれなくなっていった。

なお2009年に富野は「宮崎駿は作家であり、僕は作家でなかった」「能力の差を認めざるを得ない」と語っており、映像作家としての実力は宮崎の方が上である旨を率直に認めている。


その一方、表現やディテールを重視しすぎて映画として破綻しているという指摘も多く、宮崎作品に辛口な評価を下してきた押井守ぴあの連載にて「宮さんはドラマを全く理解していない」と述べている。また、ストーリーの重要性を訴えていた鳥海永行のように、監督としての宮崎の作風に疑問や反感を抱く者も少なからず存在したようである。ただし、鳥海は宮崎が優秀なアニメーターであることは認めていたという。


作家として高い評価を受けている一方で、鈴木曰く「教えるのはむしろ下手」らしい。鈴木によると、本人は一生懸命に教えているつもりでも、知識と経験が膨大すぎて相手に受け止めてもらえないためであり、中にはストレスのあまり十二指腸潰瘍を患った者もいたと語っている。


人物編集

70歳を超えてさすがに体力は衰えたものの、今なお天才的な映像センスと想像力は衰えていない。半世紀以上にわたってアニメ作りに偏執的な情熱を燃やす奇人であり、その発言からも情熱的かつ偏屈な人柄が窺える。


鈴木敏夫によると「世間一般のイメージとはかなり異なり、重度の悲観論者。乙事主の最期の姿を思い浮かべて欲しい。あれが実際の宮さんそのもの。」とのことである。


大変な読書家で、幼少時からの軍事マニアであり、第二次世界大戦以前の戦史・兵器に造詣が深い。また児童文学日本史(特に文化史方面)にも詳しい。宮崎本人は否定しているが、世界観の描き方からメディアではエコロジーの視点で高く評価される。水木しげるは宮崎に対し『を描かせるとバカみたいに巧い』と言う評価を与えている(ただしこれはどちらかというと背景美術を担当する男鹿和雄の功績であるが)。


また、自身を「蝦夷(宮崎は雑穀や麦を栽培する農耕民族説を支持している)の子孫」として農薬の使用も若干認めつつも、旧来の農耕に畏敬の念を抱いて各作品で「美しい農村」を描いている。なお、宮崎が「影響を受けた」「読んで楽になった」とする中尾佐助は、「アルプス以北の高等な農耕を日本でもやるべきだ」という改革論を唱えており、「となりのトトロ」や「風立ちぬ」で描かれるような昔の農村をむしろ若干批判している。


周囲からは頑固で横暴で気まぐれな性格をしょっちゅうネタにされているが、実際はとても仲間思いであり、「風の谷のナウシカ」が完成した当時、多くの友人を失ったことから「監督は二度とやりたくない」と話している。(「ジブリの教科書1」より)

2018年に高畑勲が、2021年に大塚康生が相次いで亡くなるなど、盟友たちに先立たれていく状況を嘆いており、鈴木敏夫がラジオで富野由悠季に語ったところによると「みんな死んでいきやがる」と悲しげに呟くことがあるという。


思想編集

自他とも認める左翼高畑勲近藤喜文日本共産党支持で知られるが宮崎はそれほど明確に表明することがなく、『もののけ姫』から2000年代にかけて政治関与はイラク戦争反対程度に留まっていたことから転向したという評判もあった。が、2010年代に入り再び政治批判を活発化しており、別に転向はしていなかった模様。しかし一方では軍事マニアで、戦争兵器に惹かれる自分と、反戦思想を持っている自分の二面性についてよく語っている。自衛隊の必要性は否定していないが、近年の日本のタカ派的風潮に対しての苛立ちを隠しておらず、日本国憲法の改正には明確に反対を唱えている(宮崎のこうした姿勢は同じく軍事マニアで古くから親交のある押井守によく揶揄される)。


また、欧米圏(とくに米のほう)の文化に対する露骨な批判でも知られ、『指輪物語』が映画化された時には敵対勢力の一部キャラがアジア的造型だった事に対し「白人中心主義のアジア人差別映画」と痛罵したり、ハリウッド映画に対して「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「アフガニスタン戦争での誤爆と同じ理屈」と厳しく批判している。また、キリスト教文化に深く羨望の念を抱き、旧約聖書の「伝道の書」を読んで「ちょっと楽になった」と言う一方、異教徒は魂がないから殺していいというキリスト教そのものに関する嫌悪感をそこここで吐露している。

このようなことから「アメリカは戦争で日本をやっつけた国だから大っ嫌い。そのアメリカに負けた日本はもっと嫌い。残ってるのはヨーロッパしかなかった。だから、僕はヨーロッパが好きなんです」と発言したこともあるが、鈴木敏夫によれば実際にはヨーロッパよりもアメリカの方が好きであり、宮崎作品やジブリ美術館にはアメリカ趣味の影響が垣間見えるという。参照


歯に衣を着せない暴言が多いことで知られる一方、宮崎自身は養老孟司との対談集「虫眼とアニ眼」の中で「ぼくなんかは、けっこう批判派のつもりでやってきたけど、実はしっかり経済成長の恩恵に乗っかって、いつの間にかエアコンの中にひたっているし、クルマ転がしているし、もうなにも言えない(笑)。ちゃっかり享受していて、どこかで批判派でいることによって、気分的にラクになっているだけだった」とも発言している。続けて「こうなったのは、みんなで一緒にやっちゃったんだというふうに思わないと、なにも道は生み出せないと思う」と(1998年当時の)社会のこれからについて語った(「虫眼とアニ眼」54頁)。



製作手法編集

大量のイメージボードを描き散らして物語イメージを膨らませた後、脚本を用意せずに絵コンテをいきなり描き下ろし、原画には全て自分で手を入れるという、宮崎以外には実行不可能な独裁的製作手法をとることで知られる。ただし、『千と千尋の神隠し』以降の作品では宮崎の体力低下から仕事量を大幅に減らさざるを得なくなり、作画監督に任せている部分も多くなっている。


もののけ姫』以降、「過去の作品の否定」を自分に課し、演出作画などにおいて「アバンギャルド」とも評されるほど多くの実験的な手法を取り入れるようになった。長編作品においてこれほどの実験的手法を大々的に展開し、しかもそれを大ヒットさせてしまう映像作家は、宮崎がほとんど史上唯一の存在であろう(具体的な詳細は各作品の記事にて)。


典型的なアナログ人間であり、「ハウルの動く城」制作中に初めてDVDを手にした際「こんな小っちゃい中に2時間入ってるのか…これでは映画はダメになる」と苦言を呈したという。参照

ファミリーコンピュータマガジン1992年7月24日号での宮本茂との対談では、中盤から両者の主張のぶつかり合いのような展開になっている。

ただし最新技術を拒絶しているわけではなく、「もののけ姫」で初めてCGを導入したり、以降の作品では彩色をデジタルで行うなど、「手描きのアニメーションが最高峰」とした上でコンピューター技術もそれなりに取り入れている。

また、上述の宮本についてだが、意見の相違こそあれど確執があったわけではなく、押井守曰く両者にはクリエイターとしての共通点があったことから「2人共ウマが合った」とのことである。参照


以前は、自身の映像作品のアフレコには普通に声優(洋画の吹替え声優を含む)を使っていた。かつての常連声優には島本須美を始め、永井一郎宮内幸平家弓家正神山卓三上條恒彦などがおり、端役では千葉繁大塚芳忠TARAKOらも多く出演していた。

特に島本須美は多くの作品でヒロインを任せるなど大変重宝しており、島本も自身を見出してくれた宮崎のことを現在でも尊敬している。


しかし、ジブリ時代途中から俳優 / 女優歌手タレント文化人などを起用、本職のアニメ声優をほとんど起用しなくなった事でも知られる(ごく稀に端役で起用したことはあり、片岡富枝大塚明夫などが該当する)。このため声優ファンからは批判が多い。

これについて宮崎は海外メディアのインタビューで「日本の女性声優はコケティッシュな声の持ち主しかいないし、男性的な視点が欠けている。我々は全く必要としていない」とアニメ声優に批判的な回答をしている。

なお、有名人の起用に関してはプロデューサーを務める鈴木敏夫の意向も大きいのではという説もあるが、定かではない。




影響編集

宮崎が幼少期から現在に至るまでの間に影響を受けたものは数多く、作品の要所要所にそれらが反映されている。


1968年より出版されたファンタジー小説ゲド戦記」シリーズの大ファンとして知られており、日本語翻訳版が出た当時、鈴木敏夫と共にハマっていたという。また、少なくとも「風の谷のナウシカ」制作の前から映像化を企画していたが、これは叶わなかった。鈴木は後年、「もし『ゲド戦記』をやっていたら『ナウシカ』はなかったかもしれない」と語っている。

2005年、息子の宮崎吾朗が映画化するに当たり、鈴木と共に原作者アーシュラ・K・ル=グウィンと面会している。宮崎は彼女に対し「悩んだ時や困った時に何度も読み返した」「自分がジブリで作ってきた作品は全て『ゲド戦記』の影響を受けている」と原作への熱い想いを語った。参照


愛して止まない作家の1人にアントワーヌ・ド・サン=テグジュぺリを挙げており、「夜間飛行」「人間の土地」の表紙イラストを描いている他、後者にはあとがきも寄稿している。宮崎の飛行機に対する思い入れの強さには、サン=テグジュペリの生き様に感化されたものが大きく、1998年にはNHKのドキュメンタリー番組「世界・わが心の旅」にて、サン=テグジュペリが飛んでいた航路を実際にプロペラ機で辿っている。「君をのせて」の歌詞は「星の王子さま」に影響されているという指摘がある。参照


個人的な付き合いの多かったメビウスことジャン・ジロー作品の影響も大きい。1975年の「アルザック」を読んだ際に衝撃を受けたが、宮崎がメビウス作品に出会った1980年当時は既に自身の絵柄が確立されており、メビウスの影響を自作品に上手く発展させることができなかった旨の発言をしている。メビウス本人との対談では「でも『ナウシカ』っていう作品はもう明らかにメビウスの影響によって作られたものです」と明言した。メビウスもまた、宮崎の熱心なファンであり、2002年に「ナウシカ」と名付けた娘と一緒に三鷹の森ジブリ美術館を訪れている。参照


江戸川乱歩ホラー小説幽霊塔」にも影響を受けており、同作は「ルパン三世カリオストロの城」のインスピレーション元になったことでも有名である。1955年に貸本屋で初めて借りた当時、「怖くて美しかった」「歯車やロマンスに憧れた」「気に入った箇所は何度も読んだ」と回顧している。なお、60年振りに読み返した際、自身の抱いていたイメージとのギャップを感じたらしい。2015年に本作が再発行された時、作品に纏わるマニアックな詳細を描いたカラー口絵を寄稿した。


他にも児童文学を愛好しており、ロアルド・ダール宮沢賢治の作品のファンを公言している。


アニメーションでは特に1952年のフランス映画「やぶにらみの暴君(後に「王と鳥」として1980年に改作)」を鑑賞し、大塚康生高畑勲らと共に大きな影響を受けたことが知られている。宮崎は本作を「緊密で存在感のある世界を創りたい」という動機を与えてくれた作品であり、「太陽の王子ホルスの大冒険」の制作に直結したと語っている。参照

2006年にスタジオジブリの元で劇場公開やDVD販売が行われた時は「ジブリの原点」と紹介され、「最も影響を受けた作品にポール・グリモーの『王と鳥』を挙げないわけにはいかない」という宮崎自身の弁も公式サイトに引用された。


1957年のロシア(当時ソ連)映画「雪の女王」を見た際、端的な感情表現と白線を用いた優しい目の描き方に衝撃を受けたという。1989年放送のワイドショーWhoにて「多大な影響を受けている。甚大な影響って言ってもいいと思っています」と述べた。

特にヒロインのゲルダのけなげさに胸打たれたといい、自身の作品におけるヒロインの造形にも本作の影響が色濃く反映されている。参照


また、1958年に公開された日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」に感銘を受けたことでも知られ、本作がきっかけで東映動画に入社した。後に、主演を務めた森繁久彌に「もののけ姫」の乙事主役としての出演を依頼するなど、リスぺクトを捧げている。


他方、ディズニー作品に対しては「にせもの臭い」「入り口と出口が同じ低さと広さで並んでいる」「観客蔑視としか思えない」として非常に批判的な姿勢を取っており、1986年のインタビューでは、自身の敬愛するフライシャー兄弟が「俗っぽい魅力を持っていた」のに対し「変な教養シーンとか砂糖づけみたいな甘い世界を作っていた」と評している。(「ジブリの教科書2」に収録)

1959年の「眠れる森の美女」で国中の糸車を焼却するシーンを見て「あれはどんなファシズムよりもひどい!」と非難したという。

その一方で、シリー・シンフォニーシリーズ、1937年の「白雪姫」などといった作品は高く評価している。参照

トヨタ内山田竹志との対談では、初期のディズニー作品を含む1930年代から1940年代の海外アニメについて「手工芸的な職人たちが実に美しいアニメーションを作ったんですよ」「世界のアニメーションが一番輝いていた時期だった」と述懐している。

また、鈴木敏夫が自身のラジオ庵野秀明に語ったところによると、宮崎は一時期ディズニー・チャンネルを熱心に視聴していたのだという。ディズニー映画を見ていた宮崎は当初「動きすぎだ」と呟いていたが、次第に「いや。動きすぎだと思っていたが、そうじゃない。動くことに意味はある」と思い直し、「世界は動いているのだからやっぱり動かすべきだ」というテーマを掲げ、「崖の上のポニョ」を制作したと鈴木は語っている。

このように、宮崎のディズニーに対する見識は時と場面によって様々だが(庵野曰く「日ごとで言うことが違う」)、屈折した思いは多々あれど、アニメーション監督として尊敬の念を抱いているとされている。

また、宮崎はウォルト・ディズニーについては2008年のインタビューの中で、自身の誕生前からアニメーションの発展に貢献してきた功績を称賛しており、「自分達とは比較できない存在」として一目置いている。


その他に影響を受けた人物として、堀田善衛網野善彦中尾佐助福島鉄次諸星大二郎らがいる。


引退表明と撤回編集

2013年9月1日、『風立ちぬ』を最後に長編作品の制作から引退を表明。9月7日記者会見を開き、世界各国の報道陣を前に引退を説明した。企画や脚本執筆を含めスタジオでのアニメ作りには関わらないが、個人的な創作活動は続けるとのことだった。


なお、これは長編アニメからの引退であり、今後短編アニメを製作するか否かは明言していなかったが、2014年に、「チャンスがあれば」としながら短編アニメーションを製作することを示唆し、事実2018年に「毛虫のボロ」を発表した。


公式引退の辞編集

「ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。

もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。

ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。

“風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果されてしまいます。

長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。

これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。

それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。

ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。

ありがとうございました。」


しかし2017年、引退を撤回し、新たな長編アニメ「君たちはどう生きるか」の製作を開始した。


高畑勲との関係編集

東映動画時代の先輩の高畑勲演出師匠とし、(高畑さんには)「青春の全てを捧げた」と語るほどの多大な影響を受ける。高畑とは東映動画を離れてからも、ジブリ創設時までしばしば行動を共にしている。なお、宮崎にはいわゆる理性主義気味の発言が目立つが、これは高畑の影響によるところが大きく、「世界は理屈で割り切れない」とする主意主義的な意見も目立つため、本来はロマン主義な感性が強い人物であると思われる。


高畑に対してはよく悪口も言うが、今でも内心では師匠と慕っており、高畑に自作を褒められると子供のように喜ぶという。


手塚治虫との関係編集

手塚治虫と格闘してきた人生編集

僕は手塚さんとはずっと格闘してきましたから、それは『恩義』だけれどそんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません


宮崎は、手塚のことを「闘わなきゃいけない相手で、尊敬して神棚に置いておく相手ではなかった。」と、神格化しない立場を示している。


宮崎は元々手塚ファンで、小中学生の頃には漫画の中で手塚治虫の作品を一番好んでいた。

漫画家を一時期目指したのは手塚の影響であったが、大学時代にいざ漫画を描くと「手塚治虫に似ている」と人から指摘され、母親から人の真似はするなと言われてきたために非常に屈辱感があったという。そして手塚治虫に似ていると言われたことから今まで描きためていた絵を全部燃やした


しかし宮崎は自身に染み込んだ手塚の影響を削ぎ落とそうとしたものの、結局自分の画風を気にする必要が無いアニメーターとしての道を歩むことになった(そのうちに絵が誰に似ているかということはどうでもよくなっていったという)。また、同時期に手塚の虫プロダクションが制作したアニメ作品にも感心せず「アニメなら手塚さんに勝てるかもしれない」という自信を持つことになった。


そして、東映の映画「西遊記」の製作中に「そのほうが感動するから」という理由でヒロインの猿(燐々)が死ぬ展開を手塚が主張した話を伝聞で知った時に「もうこれで手塚治虫にお別れができると、はっきりと思いました。」と手塚との訣別を意識したという。ただし、これについては2009年の長文インタビュー『手塚治虫を語る』の中で改めて振り返った際、その時手塚は深く考えて言ったのではなく、ギャップがありすぎる東映のスタッフにはそう言ったほうが早かったのだろうと当時の状況を想像した上で「だから、『燐々が死んだほうが感動するよ』という言葉尻だけをとらえて、本人がどういう気持ちでそれをしゃべったかあまり考えずに、手塚さんを否定できると思ってホッとした自分というのは、やっぱり愚かな若者だったと思います。」と、認識の変化を語っている。


少年時代に大きな影響を受けながらも、やがて戦うべき存在へ変化した手塚については、上の『手塚治虫を語る』の中で、「僕は、闘いましたから。自分の絵がどうしても手塚さんに似てしまう、発想の段階では全然違うはずなのに、なぜ似てしまうんだろうかということも含め、『新宝島』で受けた時の衝撃の大きさみたいなものとずっと格闘してきましたから。それはある意味で「恩義」だと思います。でも、恩義という言葉で言えるほど簡単なものではない。僕は、手塚さんの崇拝者になりたいとは思わなかった。だから、手塚さんと格闘してない人を見るとげんなりするし、かといって、私は格闘しましたってやつに出会ったって大したことないからね。だって、手塚さんを超えるような人、なかなかいないじゃないですか。」と、複雑な思いを抱きながらも「戦う相手」として高く評価している。


また、1960年代には手塚の漫画も変化し、子供の頃に感じたようなドキドキもなくなって良い読者ではなくなったというが、昭和20年代の手塚漫画は高く評価しており、「(他の子供向け漫画と違って)手塚さんはもっと存在の奥のほうでドキドキさせてくれた。一人まったくかけ離れて、別個の存在としてあったんです。」「僕はそんな元気のいい子供じゃなかったけれど、その情けない少年時代を本質のところで理解して支えてくれたのは手塚さんの漫画だと思っています。荒唐無稽な夢や、深いところでの存在の不安というものを教えてくれたのも手塚さんでした。」と、自分の子供時代に手塚の漫画が特別な存在で、大きな影響を受けたことも語っている。


アニメ業界での手塚との関わり編集

アニメにおける宮崎と手塚の関係は深い。

宮崎は「それでもテレビより長編アニメーションを作りたいと思ったのは、やっぱり『雪の女王』のような作品の影響と、あとは手塚(治虫)さんのストーリー漫画によって、ひとつの世界を作るみたいな感覚が自分の頭にあったからだろうと思います。」と発言しており、長編アニメ製作にも手塚の漫画から影響があるという。


宮崎は東映動画に入社した年である1963年に、手塚治虫が原案を務めた「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加している。1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」で全体の3分の1のレイアウト(画面構成)を務めた。


手塚は宮崎の『ルパン三世 カリオストロの城』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビューで語っている。


1981年には手塚治虫と宮﨑との合作「ロルフ」も予定されていた。

鈴木敏夫によれば、この企画は宮崎に映画を作らせたいと考えていたあるプロデューサーが手塚に持ち込み、手塚側は「じゃあ僕は総監督をやりましょう」と乗り気だったという(「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ 鈴木さんが語る『素顔の手塚治虫』」)。一方、脚本もキャラクターデザインもこちらが担当すると宮崎から聞かされた手塚が怒っていたという証言もある(柳沼和良の伝聞)が、手塚はアニメージュの紙面上では次のようなコメントを出しており、最終的に協力を約束していたようである。


「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さんが長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『じゃりン子チエ』の追い込みも終わった前後のことで、どうしてもこれだけは国際的アニメに作り上げたいという夢を、大塚康生氏とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現を目ざして、どんなに時間がかかっても成就したいと思っています。それにはT社の社長および原作者の強力なご援助がなければできないことです。コケの一念で実現させたいと思います。宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画に作り上げられることでしょう。」(徳間書店「アニメージュ」1981年8月号より)


しかし、ロルフの映像化は実現できず、宮崎は「その後、先方に何度かアタックしましたが、エージェントとのやりとりを繰り返しているうちに話は立ち消えました。(『風の谷のナウシカ 宮崎駿 水彩画集』)」と、原作者から許可が下りなかったため作れなかったことを語っている。


ロルフはざっくりいうと「中世ヨーロッパみたいな国で、戦車を操縦する悪者にさらわれたお姫様を、のロルフが助けに行く話」のようだった。イメージボードでは、おねえさんが「凧」へわんこと乗る絵など数点収録されている。また、本作のために準備していた設定やデザインなどは、後の『風の谷のナウシカ』に多く引き継がれた。


宮崎は「一度ちょっとした仕事(上の『ロルフ』)の相談」で、大塚康生と共に手塚と会い、個人的な話をしたのはその時だけと言うが、その印象を「ずいぶん親切な人だなと思いました。」と述べている。


一方で手塚は合作「ロルフ」が立ち消えになった後、宮崎が作った「風の谷のナウシカ」に何か思うことがあったのか、鈴木敏夫によれば宮崎の漫画『風の谷のナウシカ』がある年の日本漫画家協会の賞に決まりかけていたが、最後になって手塚が(作品の内容は認めつつも)、「まだ完結していないから」という理由で受賞に反対したという。以前から連載中の作品が受賞した例があるにもかかわらず、この時手塚が「完結してから賞を与えるべき」と反対したことを、鈴木は「(手塚の負けず嫌いで、宮崎を)自分のライバルだと見なしたんでしょうね」と語っている(上記の『素顔の手塚治虫』より)。

『風の谷のナウシカ』の映画については、試写で観終えた手塚が「長いね!僕だったら半分でまとめられるね!!」とだけ言って去っていくのが目撃されていたという(元チーフアシスタントの証言)。


映画の公開後、1985年4月発行の「手塚治虫ファンマガジン」56号の中で、手塚は宮崎自身とも併せて高く評価している。手塚は日本のテレビアニメが漫画原作のものばかりに偏り、オリジナリティが失われてしまった当時の現状を嘆く一方で「もちろん、『風の谷のナウシカ』というすばらしい作品もあります。宮崎駿さんという人は非常にすぐれたアーチストです。あの人は昔は漫画のファンで、暖かくソフトだった時代の漫画のイメージを忠実に再現しています。そういう意味で非常に貴重な人だと思うんです」と述べた(このインタビューは『火の鳥 乱世編〈上〉』の文庫版に収録されている)。


このように、親切に感じたこともあれば、自作の受賞を反対されたりもしたからか、宮崎は手塚の性格については渋谷陽一との対談で「(手塚治虫は普通の人の三倍以上よく生きた人で)だから、親切なときはものすごい親切なんですよ。人より三倍親切なんです。それから、やっかみとかいろんなことで邪魔し始めると、これも三倍うるさいんですよね(笑)」と、良くも悪くも活動的だったと評している。


また虫プロ出身者もけっこう嫌っているらしく、特に虫プロのもう一人のオサム出崎統との関係は不倶戴天の敵状態であったと伝わる。押井守曰く、宮崎が虫プロの関係者で好意的に見ていたのは富野由悠季ぐらいのものだったという。参照


手塚死去後の批判編集

宮崎は手塚が死去した1989年から複数の雑誌で何度も手塚批判を繰り返すようになる、特にComicBox5月号の追悼特集で「声を揃えて悼む大合唱をする気はない」として、手塚とアニメに関して厳しく批判的なコメントを出した。悲劇を描いて感動を呼ぼうとする作風、テレビアニメが低予算になる原因を作ったことなど、「手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。」と手塚のアニメ業を全否定した。手塚がアニメ作品を作り続けたことも「長屋の大家が店子を集めて下手な義太夫を無理やり聴かせる落語と同じ」と酷評している。


ただし、宮崎はあくまでアニメ作家としての手塚に批判的なだけであり、漫画家としての手塚は高く評価しているのは上記の通りである。


「手塚さんという人は、どこかでぼくにバトンを渡してくれた人なんです。手塚さんからしか得られなかったというバトンが、確実にたくさんあったと思います。」

(「空を超え星の彼方へ」『アニメージュ』1989年4月号)


代表的な作品編集

原画担当編集


画面構成(レイアウト)等編集


漫画編集


監督作編集


この他にも企画立案に関わっているジブリ作品も多い。



関連タグ編集

アニメーター 漫画家 演出家 アニメーション監督 左翼 スタジオジブリ / ジブリ 高畑勲 鈴木敏夫 宮崎吾朗 米林宏昌 近藤喜文 久石譲 大御所 アカデミー賞

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