生涯
(1928~2004)
山梨県出身。
1950年(昭和25)東京大学文学部史学科卒業。歴史学研究会の委員となる一方で、日本常民文化研究所に勤めて、同研究所が水産庁より委託されていた漁村資料の収集を行う。
当時、日本共産党の影響下にあった歴史学研究会は路線問題で大きく揺れていたが、網野は運動から一線を画しつつ、歴史研究の基礎からやり直すことを決意し、全国の漁村に残る古文書を一つ一つ読み直した。ところが1955(昭和30)、水産庁の予算がうち切られ、リストラ同然で日本常民文化研究所を退職させられる。
その後都立北園高校の非常勤講師の職を見つけ、出版社でアルバイトをしながら、中世の荘園研究を続ける。
1966年(昭和41)、東大の卒業論文をベースにこの時期の研究成果を加味した論文が『中世荘園の様相』として刊行される。
1978年(昭和53年)に『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録。
名古屋大学助教授を経て1980年神奈川大学短期大学部教授に就任、同大学特任教授を経て1998年(平成10)退官。
。1993年(平成5年)4月に神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設し、1995年から同大学経済学部特任教授となり、1998年(平成10年)3月に定年退職。
2000年(平成12年)3月、肺癌罹患が判明し闘病生活に入る。
2004年(平成16年)、東京都内の病院にて死去。享年76。死去時には、ル・モンド紙にも記事が掲載された。遺体は本人の遺志によって献体された。
歴史観・影響
網野の歴史研究、あるいは歴史観は「網野史学」と呼ばれる。それは彼の研究が、従来の学界からみるとあまりにも異端であったからだ。
たとえば
『無縁・公界(くがい)・楽』(1978)や、
『日本中世の非農業民と天皇』(1984)などでは、天皇の支配権力がどこまで及んでいて、その基盤はどこにあったのか、そして支配から外れる場所(アジール)の存在などに目を向けた。
また、『日本中世の百姓と職能民』(1998)などでは、従来の歴史学が軽視してきた海民や職能民の存在に着目し、ともすれば支配階層の貴族・武士と被支配層の農民しかいなかったように一般に思われていた中世社会観を一変させた。
なかでも、中世から続く能登の時国 (ときくに) 家の「襖 (ふすま) の下張り」研究は、中世の百姓観を180度変えた。襖の下張りに使われた反故紙 (ほごがみ) を丹念に研究すると、それまで貧しい存在だと思われていた百姓が、実は海運業などで豊かな生活をしていたことがわかったのだ。また、「百姓」は必ずしも農民だけを意味するわけではなく、稲作以外の手段によって豊かで多様な生活をしてきたこともわかってきた。
『日本の歴史00巻 「日本」とは何か』(2000)にみられるように、古代から中世においては天皇の権力が及ぶ範囲はごく限定的なものでしかなかったことを明らかにし、後世の人々が漠然といだいている「日本列島すなわち日本国」という「常識」を覆したのも網野の業績といっていいだろう。日本列島を海によって大陸から隔てられた島国としてみるのではなく、東アジア海上交通の要所としてとらえ直すと、歴史観、民族観、国家観は大きく変わるのである。
また網野は、日本中世史の狭い枠の中だけにとどまらず、民俗学や人類学、宗教学、ヨーロッパ中世史学などの研究者とも協力して、新たな歴史学を切り拓いている。
中世の職能民・非定住民の研究を通して従来の天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に影響を与えた。また、中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者たちが、決して農民だけではなく商業や手工業などの多様な生業の従事者であったと主張し、歴史学研究にインパクトを与えたが、彼のその様な学説には批判もある。
渡辺京二は、『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和へ』で、網野が中世史の事象である「無縁」を「自由」と解釈するとき、「戦後左翼の切ない夢想」がみとめられるとし、網野の理論構成自体も古典マルクス主義的であるなど、批判している。
西尾幹二や福田和也も、著書で網野の史論を批判しているほか、小谷野敦は『日本売春史』において、網野の「遊女」像を批判している。