新渡戸稲造
にとべいなぞう
日本の幅広い近代教育の普及や国際関係活動に尽力し、1984年から2004年まで五千円札の肖像画として発行された事でも知られる。
父の新渡戸十次郎は南部藩(盛岡藩)の藩士で勘定奉行。札幌農学校の俊才として、内村鑑三らと友情を育んだ。
その後、北海道で札幌農学校教諭としての職を得るが、より飛躍するため東京大学に入学、しかしその教育レベルに飽き足らずアメリカなどに留学した。そしてアメリカでキリスト教のクエーカーに入信、生涯の伴侶となるメリー夫人と出会う。
帰国後、札幌農学校の教諭を引き受けたり、貧困層に対する教育機関「遠友夜学校」の開設を行ったりなど八面六臂の活躍を行ったが、そのために精神を病み、その療養中に名著『武士道』を著す。
本書は、海外の教育関係者との会話において、日本における宗教的教育の欠落を感じ、明治33年にアメリカ合衆国で『Bushido:The Soul of Japan』として刊行したものであり、セオドア・ルーズベルト・ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウトの創立者であるロバート・ベーデン=パウエルなど、多くの海外の読者を得た。
日本においても翻訳して出版されたが、新渡戸氏の個人的な主観や独自の考えも強く、日本人の中には受け入れがたく感じる者もおり、彼の思想を批判する書籍も出版された。
その後は東京女子大学や新渡戸文化学園(平成に入ってからの改名)の校長、女性の地位を上げる目的や平易な文章による大衆に向けた雑誌での連載、津田梅子や新島襄らの後援、貴族院議員、第一高等学校校長としての多くの生徒への感化、国際連合の前身である国際連盟の事務局次長を務める(この間キュリー夫人やアンリ・ベルクソン、アインシュタイン、セオドア・ルーズベルトなどと交流し、その内容を日本人のために著作『内観外望』で表している)など(順番は前後している)生涯にわたって、日本および国際社会のために貢献した。
第一次上海事変の直後に日本軍を批判した(松山事件)ことなど国際社会から批判を浴びたことで、晩年は豊かなものとは言えなかった。
しかしながら、日米両国それなりに評価のある人物であることは間違いはないだろう。
- 「太平洋の架け橋となりたい」 。
東大面接時に語った抱負。
- 「人間は、それぞれ考え方や、ものの見方が違うのが当然である。その違いを認め合い、受け入れられる広い心を持つことが大切である」
『武士道』からの引用。