概要
アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」に基づく機関。
国際協力を促進し、戦後の惨禍を防止し、各国間の平和と安寧を完成するためと称して、ベルサイユ条約(大正8年)第1編にその規約を制定し、それによって結成された。
連盟国の軍備を最低限度まで縮小すべきこと(第8条)、連盟国の領土保全および政治的独立を尊重すること(第10条)、国際間の平和を破る戦争勃発のおそれがある時は、該事件を仲裁裁判所または連盟理事会の審査に付すこと(第12条)、もし戦争に訴えた連盟国があればこれに対する経済上制裁上の制裁を規定し(第16条)、また国際連盟が将来締結すべき一切の条約は、ただちにこれを連盟事務局に登録すること(第19条)を定めていた。
しかしながらウィルソンの思惑とは異なり、モンロー主義に従っていたアメリカ合衆国は、ヨーロッパの紛争に巻き込まれかねない点から上院が反対したために加盟できず、また独立したばかりのソ連や敗戦国であるドイツも設立当初の加盟を許されず(ソ連は1934年、ドイツは1926年に加盟)、そのパワーバランスは設立当初からいびつなものとなっていた。
1925年にはコスタリカが分担金の負担に耐えかねて脱退、翌年にはブラジルが常任理事国に加われなかったことで脱退。
更に33年には日本とドイツ、37年にはイタリアと有力国の脱退が相次ぎ、更に枢軸側の中小国の脱退が連続、第二次大戦の勃発を止めることはできなかった。
1943年のテヘラン会談で連盟に代わる実効力を持たせた国際組織の創設が決まり、1946年4月8日最後となる第21回総会をもって、連盟の解散と新組織である「国際連合」への移行が決定された。
総会の最後で連盟の提唱者の一人であったイギリス人ロバート・セシル子爵は
「The League is dead; long live the United Nations!(国際連盟は死んだ、国際連合万歳!)」
と言って締めくくった。
但し国際連合は国際連盟のような分裂を避けることに腐心した結果、実行力という観点では国際連盟に遥かに劣るものとなっており、国際協調の困難さを浮き彫りにしている。
日本の立場
日本は常任理事国の一員として連盟に参加し、初代連盟事務次長の一人に新渡戸稲造が就任した。
日本は他の列強諸国と地理的な距離があったため、ヨーロッパ諸国の問題に関して仲介的役割を担うことになった。
日本の立場に大きな影響を与えたのは満州国についてだった。
1931年の満州事変の勃発と満州の全土占領と満州国成立を中華民国が連盟に提訴したのである。
連盟は12月10日、日中両国紛争問題解決のため現地調査委員会任命の決議を成立させ、イギリスのヴィクター・ブルワー=リットン伯爵以下5名の委員が任命され、それらの委員による現地調査が行われたのである。
1932年10月2日、リットン調査団は連盟に対し以下の報告を行った。
・柳条湖事件と満州事変は日本軍の「自衛的行動」とは言い難い。
・満州国は地元住民による独立とは言い難く、その存在は日本の支えなしではなしえない。
とし、「満州に中国主権の自治政府を設置」「満州の非武装化」「日中間の不可侵・通商条約の締結」を提言した。
日本はこれに反発、満州国建国について日本は一切関与しておらず日本の軍事行動はあくまでも現地日本人を守るためのものであるとの主張を行ったが、日本の主張を受け入れる国はなかった。
1933年2月24日の総会で、調査団の報告書を元にした「志日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が俎上に上げられ、賛成42、反対1(日本のみ)、棄権と不参加がそれぞれ1で報告書の採択が決まると、日本は同年3月8日に脱退を決定した。