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ゲド戦記

げどせんき

『ゲド戦記』は、アメリカの作家アーシュラ・K・ル=グウィンの執筆したファンタジー小説。
目次 [非表示]

ことばは沈黙に 光は闇に 生は死の中にこそあるものなれ

飛翔せるタカの 虚空にこそ輝ける如くに

      ―――古代の詩『エアの創造』より―――

ゲド戦記(原作小説)編集

作者は『闇の左手』などでSFファンタジー界では伝説的な人物であり、『西の魔女』と称されるアーシュラ・K・ル=グウィンファンタジー小説

ナルニア国物語指輪物語と並んで「世界三大ファンタジー小説」と呼ばれている。

日本語版の訳者は清水真砂子。岩波書店から刊行。物語は全6冊(本編5冊、外伝1冊)で構成される。


『Ⅰ 影との戦い』

『Ⅱ こわれた腕輪』

『Ⅲ さいはての島へ』

『Ⅳ 帰還』

『V ドラゴンフライ』

『VI アースシーの風』


なお、日本語の題に「戦記」と付くが、英語の原題は背景となる世界と同名の「アースシー(Earthsea)」であり、戦争と言える描写はほとんどない。

……「自分自身との戦い」という解釈なら話は別だが。

ついでにいうと、タイトル通りゲドが主人公と言えるのは一巻のみ。それ以降はわき役として物語を支える。


1~3巻は1970年前後、4巻は1990年、5、6巻は2000年代初期の作品。

1~3巻は魔法使いゲドとその周囲の人々をめぐる冒険譚であり、ファンタジー小説として世界的な評価を得ている。

4巻はブランクを挟んで大幅に違った話になっている。フェミニズム思想(センスオブジェンダー)が前面に押し出されており、読者からは賛否両論。

5巻は短編集であり、最終巻『アースシーの風』につながる作品と、アースシー世界の解説が付記されている。


萩尾望都宮崎駿が影響を受けた作品として同作を挙げるなど、日本のクリエイターにも大きな影響を与えている。


あらすじ編集

ハイタカ

舞台となるのは、無数の々とからなる多島海(アーキペラゴ)。アースシーと呼ばれるその世界で、並外れた魔力を持った男・ゲドの生涯を軸に物語は語られる。


世界設定編集

アースシーではあらゆるものに「真の名」が存在し、それを知る者はその対象の命を掌中に収めることすら可能である。ゆえに人は真の名をみだりに明かさず、お互いを「字(あざな)」で呼び合うのが常である。

アースシーには魔法使いがいるハード語圏と魔法を嫌う(異言語・異人種の)カルガド帝国があり、そしてがいる。


  • 正しい魔法は『魔法学院』で学ぶ
  • 魔法を使う時は『真の名』が必要

などのファンタジーのお約束はこの作品が元となったという。


作者が文化人類学者の両親のもとに生まれ、フェミニスト&平等論者であるためか、他のファンタジー小説とは大きく異なった設定が目立つ。

・この世界の魔法使いは基本的に有色人種(黒人)。白人は魔法を使えない野蛮人として描かれる。

・魔法使いになれるのは男のみであり、魔法を使う女は「呪い師」として蔑まれている。

・魔法使いは己の力を失わないために、童貞を維持しなければならない


ハリー・ポッター』や『氷と炎の歌』など後年の様々なシリーズに影響を与えており、たとえば『ハリー・ポッター』シリーズにおける「杖は携帯するもの」および「魔法を学校で学ぶ」という設定は『ゲド戦記』からインスパイアされた。


主な登場人物編集


ほか、多数の人物が登場する。


関連イラスト編集

オーム・エンバー巫女の迷宮

Earthsea fanartAn imaginary Earthsea

飛び立つ最果ての浜辺で



ゲド戦記(アニメ映画版)編集

TRUE見えぬものこそ。

2006年に公開されたスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。監督・脚本は宮崎吾朗。原作の3巻と、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を元にして作られたオリジナルストーリーの作品。


アニメ版のキャラクターイメージは『シュナの旅』に登場する人物たちが元となっている。


これまで原作は決して映像化が叶わなかったが、これが初の映像作品である。


あらすじ編集

ドナドナアレンGhibli redraw #01

世界のバランスが崩れ、生きるすべての者が「自分」を見失いつつある世界が舞台。

自らが生みだした闇に脅え、父王を殺した青年アレンと、顔にあざを持つ少女テルー。

偉大な魔法使い・ハイタカに導かれ、2人は世界を救うために悪の魔法使い・クモに立ち向かう。


主な登場人物編集

アレン(CV:岡田准一

エンラッドの王子。真面目すぎる性格のために本来は心の“光”だった彼の分身が“影”となって去ってしまう。心の均衡を失い、衝動的に父王を刺し、国を捨てて失踪。逃走中にハイタカに命を救われ、ハイタカと共に世界に異変を起こしている災いの根源を探す旅に同行する。


アレンがアニメで連れているグアナコビクーニャの様な動物はヤックルと呼ばれる


テルー(CV:手嶌葵

顔に火傷の痕がある少女。作物や羊を育てて暮らしているが、特に自分の命を大切にしない人間には容易に心を開かず、両親に虐待された末に捨てられた辛い過去を持つ。自暴自棄になるアレンを嫌っていたが、彼もまた自分のように心に傷を負っていると知ると段々歩み寄るようになっていった。


ハイタカ(CV:菅原文太

アースシーの大賢人で大竜オーム・エンバーと交渉した過去を持つ竜王。世界の均衡が崩れつつある事を察知し、アレンと共に災いの源を探る旅に出る。


テナー(CV:風吹ジュン

ハイタカの昔なじみで、彼のよき理解者。ゲドという彼の真の名を知っている。親に捨てられたテルーを女手一つで育てている。

昔、カルガド帝国にあるアチュアンの墓地の巫女をしていた。このことは台詞のみで語られている。

映画では髪は金色だが、原作では髪は黒い。


クモ(CV:田中裕子

永遠の命を得るために、禁断の生死両界を分かつ扉を開いた魔法使い。

かつて魔法を濫用したが、ゲドに阻止されたため、密かに彼に復讐する機会をうかがっている。


ウサギ(CV:香川照之

人狩りを生業とするクモの手下。小心者だが、クモの力をかさに着て傍若無人に振る舞う。アレンを坊っちゃん、テルーをお嬢ちゃんと呼ぶ。これはウサギ役の声優本人が希望した呼び方らしい。


国王 CV:小林薫

エンラッドの賢王で、アレンの父。

賢王の名にふさわしく、国民のことを常に考えており、国土の各地から報告される異常事態を深く憂慮していた。ある夜、突如アレンに刺殺され、身に帯びていた魔法の剣を奪われる。


王妃 CV:夏川結衣

アレンの母。国を継ぐ者として、アレンを厳しく躾ける。いつも愛猫を抱いている。


女主人 CV:倍賞美津子

都城ホート・タウンに住む元まじない師。今ではすっかり魔法を信じられなくなり、模造品の生地を商っている。


ハジア売り CV:内藤剛志

常習すると死に至るハジア(アースシー世界における麻薬に相当する)を売りさばく売人。

アレンに気安く近づき言葉巧みにハジアを売りつけようとする。しかし、あと一歩のところハイタカに止められ、腐れて「強がるんじゃねぇよ呪い野郎、どうせお前も魔法が使えねぇんだろう」と半ば暴言のような捨て台詞を吐き捨てて走り去る。既にハジアに侵された犠牲者もいる。ハイタカ曰く「ハジアを口にすると精神が肉体から離れ、やがて最期は死」とのことである。


ルート CV:飯沼慧

エンラッド国王の側近の老魔法使い。世界の均衡が崩れつつある事に憂慮している。


2人組のオバさん CV:梅沢昌代神野三鈴

テナーの家の近くに住む村人。テナーの作る薬を買っているが、内心ではテナーやテルーの事を薄気味悪がっている。なお、この2人組の動きは、ハウルの動く城で王宮の大階段のシーンを手がけたアニメーター、大塚伸治によるものである。


カレシン

とあるキャラクターと深い関わりのある竜。竜族の長老的な存在で、終盤にイメージとして登場する。


評価編集

本作に対する世間の評価は、スタジオジブリの作品として他に例を見ないほど低いものとなっている。


作画についてはジブリ作品としては標準的な仕上がりで、その安定のクオリティは普通に高く評価されている。

また音響面の演出や声優陣の演技についても、一部に賛否はあったものの概ね好評で、『テルーの唄』は今なおジブリ映画を代表する歌入りの名曲の一つとして知られる。

しかし、肝心のシナリオに関しての評価がすこぶる低く、「支離滅裂で、話の流れが理解しにくく、作品を通して何を伝えたいのかわからない」という厳しい意見が大勢を占めている。

また原作ファンからも、後述のように原作の設定との重大な相違を複数指摘され不評を買ってしまっている。

試写会に参加した宮崎駿も途中で鑑賞をやめ退席し、感想を問われた記者に対し「気持ちで映画作っちゃいけない」と普段にも増して辛辣なコメントを残している。


事前の話題性もあってか興行収入こそ76.5億円と国内の新人映画監督による作品における過去最高を記録したものの、観客からの評価は概して芳しくなく、ジブリの黒歴史に近い作品となってしまっている。


原作者の反応編集

原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンは、本国において複数作品で映像化に恵まれなかった経験もあってか、当初は『ゲド戦記』の映像化自体を全面的に断っていた。しかしあの宮崎駿が本作映画化を熱望したことと、彼の「息子を支える」という熱意に押され、アニメ化を承諾するに至っていた。


そして完成版を見た原作者は「原作を正確になぞる必要はない」と前置きしつつも、

「『トトロ』の細密な正確さもなければ、『神隠し』の力強い、すばらしく豊かなディテールもありません。」

(中略)

「文脈をあちこちつまみ食いし、物語をまったく別の、統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。」

(中略)

「現代のファンタジー(文学的なものも政治的なものも)においては、人を殺してしまうことが善と悪の戦いの普通の解決方法です。私の原作では、戦争のようなテーマを表現しませんし、単純な疑問に単純な解答を出すこともしません。」

と作品の仕上がりに対して不快感を露わにし、映画版は自身の作品とは別物であるとの考えを明らかにした。

「ゲドの温かく暗い声は、とくにすばらしいものです。テルーの歌う愛らしい歌は、吹き替えでもそのまま使ってもらいたいと思うほどでした。」

と声優の演技については高く評価しつつ、作品全体に対しては非常に不名誉な苦言を呈される、ジブリとしても日本映画としても異例の事態となってしまった。


コメントの全文(和訳)はこのリンクを参照


原作との相違点(Wikipediaより参考)編集

本作は原作者ル=グウィン(以下「原作者」)による『ゲド戦記』の一連の作品を原作としており、世界観や設定、登場人物名や用語などでいくつかの共通点を持つ。その一方、原案『シュナの旅』の影響が強いため、原作とは異なる点も多い。本作品と原作ゲド戦記の主要な相違点は以下のとおりである。


  • 影の意味

原作3巻にアレンの影は出てこない鈴木敏夫が『ゲド戦記』のテーマに触れる入り口として導入を提案した。原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっている。

制作者によると、本作では影の意味は原作とは対照的に設定されているようである。原作では若きハイタカ(ゲド)の影が「心の闇(憎しみや傲慢)」として描かれているが、映画ではアレンの影が「心の光の存在」であるとして描かれている。

原作における影は、光を受けた時に認識することができる、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責など)や、結果的に自分を害することに繋がる弱い心(憎しみや傲慢など)である。原作では影は、様々なゲドの経験から蓄積された無自覚な否定したい心の部分が召喚魔法により具現化し実体を脅かす存在となり、実体であるゲドにつきまとい、ゲドは次第に追いつめられていく。しかし、少年・ゲドが影から逃げるのをやめて正面から向き合ったとき、彼は影が自分の一部であることを悟り受け入れ全き人となる。「影は自己認識へ、大人へ、光への旅の案内人なのです」(「夜の言葉」より)。

宮崎吾朗のインタビューによると、映画では悪役クモの仕業によって主人公の「心の光の部分」が切り離されて、光が肉体を追う影となってしまい、影は心の闇に支配されたアレンの実体と一つに戻ろうとして追いかけていたと説明されている。つまり、アレンの影こそが実は「心の光の存在」だった。テルーから「レバンネン、そうして命はずっと続いていくんだよ。」という言葉を聞かされ、闇に支配されていたアレンの心に「光」が戻る。しかし、原作者は映画に対するコメントの中でアレンが分割した理由が不明確であることについて批判をしている。


  • アレンとゲドの関係

映画ではアレンが心の闇に支配されて国王(父)を殺害し国を出奔、そしてハイタカに出会って旅に同行するという展開になっているが、原作ではアレンは、エンラッドや諸国の異常を知らせるよう父に命じられて、ロークの大賢人たるゲドに会いに行き、そして2人で旅に出る流れになっている。


  • アレンの父殺し

アレンが国王である父親を殺すという設定は原作にはなく、映画オリジナルである。テルーが親から虐待されたという原作に準拠した設定ともあいまって、田を耕さずハジアを売ったり、人を売り買いする人が儲けたりなどの均衡の崩れた世界を象徴している。世界の均衡を崩し、人の頭を変にする災いの力はアレンの身にも及んでいた。

劇中、アレンが父を刺したのと同じ構図で、アレンがハイタカに斬りかかるシーンもある。2度目のハイタカに斬りかかる方は、劇中はっきりとクモに操られていることが示される。

アレンの父殺しという設定のできた経緯は、書籍「ロマンアルバム ゲド戦記」のインタビューに詳しく記述されている。発案者はプロデューサーの鈴木で、主人公の旅立ちの理由を模索していた吾朗は、「この子は父を殺しちゃうんだよ」という鈴木の一言に初め驚いたそうだが、アレンのキャラクターに合うと思い取り入れた。脚本家丹羽圭子のインタビューでは、当初アレンはおかしくなった父親に殺されそうになり国を飛び出す、というシノプシスがあったが、鈴木が「今の時代を考えると、息子が父を刺すほうがリアルだ」と発案し、吾朗が取り入れたと言う。

アレンの父殺しの理由は劇中はっきりとは説明されず曖昧だが、宮崎吾朗はインタビューで、「アレンは父を憎んでいたわけではなく、多分尊敬しており好きでもあったが、自分が陥っていた閉塞感やがんじがらめな気分を抑えきれなくなり暴走し、彼を取り巻く世界、社会の『象徴』である父親に抑えきれなくなった感情の矛先が向かった」という講釈をしている。

よく父である宮崎駿と宮崎吾朗の関係になぞらえられた推察がされるが、吾朗自身は「父さえいなければ、生きられると思った。」というキャッチコピーに対しても、自分のことではない、と否定している。

韓国公開版では、この部分の台詞がカットされており、韓国の配給会社は「スタジオジブリ側で韓国的情緒を考慮し、台詞を変えることを先に要請してきた」としている一方、スタジオジブリは「セリフが変わったのは、一言で言えば韓国の配給会社側が観客を配慮したもの」と否定している


  • テルーの描写

映画ではテルーは火傷の痕こそ描かれているものの、基本的にジブリ作品におけるヒロインのデザインを踏襲したものとなっている。『シュナの旅』のヒロイン、テアにも似ている。ジブリの定石である少年と少女の物語にするため、原作では5-6歳(4巻)なのをアレンと見た目が同年代の少女に変更された。火傷の位置は原作では右半身だが、映画では左の目から頬にかけて痣状にある

原作では「顔の半分がケロイド化して目がつぶれている」とか「手が溶けて鉤爪のようになっている」など醜悪さを表現する描写が少なくない。また原作では炎によって喉も潰れており、「テルーの唄」のような歌を歌うことも出来ないとされる。


  • 物語の世界

映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められるが、原作においてはゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に横断している。

原作では肌の黒い人間がマジョリティ、白い人間はカルガド圏出身のマイノリティである。しかし、映画ではハイタカの肌がやや黒い以外は誰の肌も褐色とはおよそ言えない。原作者は物語で肌の色が濃いのは邪悪さと結びつけられる因習に批判的なため、この肌の表現にこだわりを持ち、表紙の人物のデザインについて出版社と争うこともあり、ドラマ版製作者と対立したこともある。

アニメ作品では自然の物音の音源が厳密に選定されていないことが多く、例えば、真夏の都会の真ん中でスズムシやマツムシが鳴いていたりする作品がしばしばあるが、本作では世界観に合わせて本物のヨーロッパイエコオロギの声がサンプリングされている。しかし、ヨーロッパイエコオロギは西南アジア原産である


  • 物語の解決

原作では、誰か悪者を暴力で倒すことによって物語の解決を図ろうとはしていない。それに対して映画では、世界の均衡が崩れつつあるのも、竜が食い合うのも悪役クモが生死両方を分かつ扉を開けた影響とされ、その悪役クモを倒すことによって、共食いをしていた竜がラストシーンで仲睦まじく天空高く飛ぶようになる姿を描き、物語は解決を見せ、終わっている。アレンはすべてのいきさつを知る大賢人ゲドと共に国へ帰る。

本作品の映画の公式パンフレットに『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す』と記載されているとおり、世界の均衡を崩し、人々の頭をおかしくしているのは、クモである。しかし、劇中ではクモは敗れたのみで、世界の崩れた均衡の全てが解決したかどうかは明確ではない。また、クモの台詞の中に「均衡はすでに我ら人間の手によって破壊されつつある」とあるため、クモだけが災いの原因とは言えない可能性が大きい

劇中、世界の均衡を唯一崩せる存在は「人間」であると暗に示されており、世界の均衡を崩しているのは、本来は自分たちの物ではない物まで欲する人間の強欲な働きである。クモが不死を欲した事は均衡を崩す強欲な人間の働きの代表であるといえよう。ハイタカも過去の教訓から、均衡を崩さぬよう魔法の使用を控えている。


外部リンク(その他についてはリンクより参考にしてください)


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