概要
中央大学法学部政治学科卒業後、1962年にタツノコプロに入社。大学在学中にシナリオ研究所に通っていたこともあって脚本家を目指していたが、当時タツノコプロに文芸部がなく、演出部に所属。笹川ひろしや九里一平、原征太郎に師事し演出家としてのキャリアをスタートする。タツノコプロとしては初の漫画家やほかのスタジオからの転身ではない演出家となった。
1972年、『科学忍者隊ガッチャマン』で総監督を担当。それまで子供が見るものとされていたテレビアニメの常識をリアル志向やハードな描写・演出で覆し、高い評価を得た。
その後、『宇宙の騎士テッカマン』『破裏拳ポリマー』『ゴワッパー5ゴーダム』の総監督を手掛けたのち、1978年にタツノコプロを退社。フリーランスとなる。
タツノコプロ退社前にガッチャマンの続編制作を依頼されたものの、本人としてはすでに終わった作品として引き受けず、ほかの監督も断ったため笹川ひろしがアシスタントをつけて監督し製作された。
1979年4月、『ザ☆ウルトラマン』に演出として参加したがのちに神田武幸と交代し前半部分のみの参加となった。
1979年5月、先にタツノコを退社していた布川ゆうじが『ニルスのふしぎな旅』の制作のため、スタジオぴえろを設立。鳥海も、案納正美、川端宏、高橋資祐、上梨満雄らタツノコ出身演出家とともに発起人として加わることとなる。翌年1月に『ニルスのふしぎな旅』の放映がスタートし鳥海がチーフディレクターを務めたが、鳥海への弟子入りを志願して後を追って移籍してきた押井守も演出の一人として参加した。
1982年、日本とフランスの合作アニメ『太陽の子エステバン』で総監督を務める。『ニルスのふしぎな旅』のスタッフとの制作を望んで受けた仕事だったが、社長の布川から『うる星やつら』の監督を打診された押井が、鳥海に黙ってそのオファーを受けて監督補佐の座を降りている。『エステバン』は日本ではさほどの反響を呼ばなかったものの、海外では根強い人気があり、1980年代からフランスをはじめとする西ヨーロッパ地域で度々放映されている。
1983年には世界初のOVA作品『ダロス』や翌年には『エリア88』を手掛ける。
1985年にスタジオぴえろを退社し再びフリーランスに。
その後、ベネッセの幼児向けアニメ『しましまとらのしまじろう』を監督。当初はユン・チアンの『ワイルド・スワン』の映像化企画だったが、スタジオ旗艦社長の草野啓二から「実現までに時間かかると思うから、これをやってくれない?」と出されたつなぎの企画だった。「これは俺の分野じゃない。一旦考えさせてくれないか」と持ち帰り、幼児向けのアニメに向いている監督の候補を数人ピックアップした上で、再度草野に相談したが、草野から「そうじゃない。あなたにやってほしいんだ。『ニルスのふしぎな旅』に感動したんだ。こういう演出ができるのはあなたしかいない」と説得され、それを受けてが幼年の世代と真正面から向き合うために、「回想シーンは作らず、現在進行形での物語を作る」「受けは狙わない」「淡々とした雰囲気でもいい」「色彩の明るさ・動きが少なくても、飽きの無い切り返し、リズムを大事にする」というポリシーで挑んだ。
アニメーター以外にも小説家としても活動しており、百年戦争と南北朝時代を背景にヨーロッパで戦闘奴隷となった村上水軍の男の冒険と復讐を描いた『球形のフィグリド』をはじめとした伝奇小説を多数執筆していた。
作風
常に「家族」をテーマとしており、中でも『ガッチャマン』での大鷲の健とレッドインパルスのように「父と息子」は永遠のテーマだった。逆に男女の恋愛ごとには一切興味がなかったという。
周囲は「演出家としては実写志向だ」と盛んに評していたが、鳥海自身は「あまりに写実的だとつまらなくなってくる。アニメらしい動きの中に1カットの写実的でリアルな動きのカットを収めていると、非常に印象的な面白いものが出来上がる」と話している。
演出としては非常にシャープで完成されたものであり、同じアニメ監督で弟子を自称している押井守監督作品に強い影響を与えている。押井は鳥海のことを「師匠」と公言している。「演出家であろうがアニメーターであろうが、やりたい奴にやらせてはいかん。こっちがやらせたい奴にやらせろ」というのが持論で、押井も参考にしているという。そのため、「やりたい」と自ら手を上げる人間よりも「こいつは才能がある」と思う人間を重視し、そうではない人間は早々に切っていたという。
また、「誰もがものをいえない場では、最初に声を発した者の勝ち」や「自分から辞めるな」、「勝てない勝負は早々に逃げ出せ」などの教えも役に立ったという。押井が監督として一本立ちすると、その後は弟子といえども一切口を挟まなかった。