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富野由悠季

とみのよしゆき

日本のアニメーション監督。主にサンライズにて「機動戦士ガンダム」を始めとしたロボットアニメを手がける事で知られる。
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人物編集

日本アニメーション監督。ファンからの愛称は禿、御大、御禿など。

1941年11月5日生まれ。神奈川県小田原市出身。日本大学芸術学部映画科卒。本名は富野喜幸(読み同じ)で1982年頃まではこの名前で活動していた。

日本のTVアニメ黎明期よりアニメ制作に携わる人物。手塚治虫原作の「鉄腕アトム」より演出家として携わった後、70年代よりサンライズにて「ガンダムシリーズ」をはじめとした多くのロボットアニメを手がけている。

特に代表作の一つとして知られる「機動戦士ガンダム」は、日本のロボットアニメの方向性を定義付けた一作であるとして評価が高い。

日本を代表するヒット作を繰り出した一方で、アニメ監督業そのものについては「仕事がないので仕方なくはじめた」と振り返っており、現在も実写作品の製作の機会を窺っているという。


富野由悠季名義で活躍する以外にも、井荻麟、斧谷稔、井草明夫など幾つかのペンネームを使い分けており、これら名義で作詞脚本作画監督等を行う事もある。

自身の作品の主題歌の作詞やノベライズも多数てがけており、ガンダム関連ではモビルスーツモビルアーマーの特徴的なデザインの原案を提示するなど、監督業以外でも独特のセンスを発揮している。


とにかく発言がエキセントリックな事で知られ、時期や媒体によって内容が180度違う事も少なくはない。彼の作品内の登場人物も、「富野節」とファンに呼ばれて親しまれるほど独特な言い回しをするが、製作している本人も然りである。

特に、打ち合わせや仕事中の指示の際に(公共の場であっても)お構いなしに猥褻な単語を発射してくる点に関しては、彼の下で働いたことで神経が図太くなったスタッフたちも流石に閉口した。

テレビ出演時には前もって控えていると語っているので、これらは無意識のうちに出る言葉ではなく、100%意図して発言していると思われる。


自作他作問わず厳しい目で批評することから、話題になった作品を過激な言葉で批判したりといった面ばかりがメディアで取り上げられることが多いが、アニメージュ人生相談コーナーや、各地での講演では、未熟な質問を投げかけてくる若者に対しても真摯に回答を返しており、ただ物言いが過激なだけのおじさんではない事が窺える。

また、本人はあくまでも冗談リップサービスのつもりで発言した言葉が、メディアや巷間で尾ひれが付いてしまったケースも多い。それだけ影響力を持つ人物であるということの証左でもあるだが…。


ネット上ではトレードマークであるスキンヘッドから頻繁にハゲ扱いされているが、アレは厳密な意味でのハゲではなく薄毛が進行したのを機に定期的に剃るようになっただけ(自著で明言している)である。TVアニメ復帰作の『ブレンパワード』の時点でスキンヘッド姿の富野監督が確認出来る(『ガーゼィの翼』の取材に答えていた頃はまだ髪はあった)。

ただし本人はやはり一時期は非常に気にしていたらしく、「これだけ進んだのならスキンヘッドの方が楽」と開き直るまでは結構な時間を要したようだ。

なお、あるイベントで参加者に「ハゲー!」と言われて激怒し、演技指導の横暴スレスレな余りのやかましさに耐えかねた渡辺久美子に「うっさいハゲ!」と言い返された、という噂がある。


自らはアニメ業界に深く関わっている人物であるものの、オタク嫌いである事を公式に表明しており、アニメしか見たことが無いのにアニメが好きだからという安直な考えの下で、声優アニメーター脚本家などのアニメ業界を目指そうとするような人間には厳しい意見を述べる。

「アニメばかり見ていてアニメは作れない」「文芸演劇映画はもちろん、芸術に限らずいろんなアニメ以外のものに触れることが必須」という持論の持ち主であり、自身の作品の演出にも、演劇で言う上手・下手の流れを活かしており、講演などでもこれについて触れることが多い。

そもそも富野は基本的にアニメは子供のためのものであるという意識が強く、若者にメッセージを送るような作品が多い。が、本人の気骨からか子供向けのものとしても手を抜かずに複雑なテーマや力の入った描写を盛り込む為、かえって大人でも見られる作品になってしまい、その作品に触れたファンがアニメを卒業できないというジレンマを抱えている。オタク嫌いを公言するが実際にはオタク向けイベントによく出るのでツンデレあるいは芸風とされる。


ガンダム Gのレコンギスタ」の製作発表会においては「オタクには観て欲しくない」とまで断言した程。それ故に商業的な理由から、オタク向けの萌え要素や過激なHシーンが多い作品が増えている現代のアニメを「若手声優を汚染した」と、前述の製作発表会の席上において痛烈に批判しており、「Gレコ」でアイーダを演じた嶋村侑がアフレコの際にいわゆる「萌え声」で演じた際に「相当な危機感を感じた。この子たちは現代のアニメに汚染されている、まずはそれを浄化する作業から始めないといけないなと感じた。」と語っており、作り声ではなく地声でやるように指導したという。

美少女アニメを無条件に嫌っているというわけでもなく、ラブライブ!を孫娘と鑑賞し、「主人公の子の頑張りが良かった。エンターテイメントとしてやれる事は全部やっている。」と小形Pに感想を漏らしたり、リズと青い鳥を「メッセージ性の優れた作品で、ポニーテールが揺れてるだけでフフっとなれる映画的な表現能力の高いもの」と評価するところは評価している。


初監督作品の海のトリトンのメインのファン層だった少女たちとイベントで話した際、家族愛に飢えているように見えたそうで、自身がファンジンやイベントには馴染めないのはそういった匂いをあそこに感じるからではないかと自己分析をしている。


同じくアニメーターアニメ監督宮崎駿りんたろうと同い年。

りんたろうは虫プロダクション時代の同僚で、その後も対談を行ったりインタビューなどで互いに言及することが多い。元々は「富野は鉄腕アトムを乗っ取った」「りんたろうの方がアトムを見捨ててジャングル大帝にいったんじゃないか」ということで90年代頃まで口も聞かない関係だったらしいのだが、後にあの制作状況ではしょうがないということで和解したそうである。

宮崎とは対談企画などが正式に打たれた事はないが、富野は『未来少年コナン』で2エピソードだけ切ったコンテを宮崎に全部手直された(但し、宮崎は誰のコンテにも手を入れている)ことがあり、本人達によれば知り合いであるという。富野はインタビュー等で宮崎を意識した発言をよく行っている。

ただし押井守監督の著書によれば、宮崎と富野はよく電話で話をする大の仲良しだとか。高畑勲の葬儀の際も弔問に訪れた富野を親しげに出迎える宮崎の姿がニュース映像に写っており、単なる同業者以上の関係であることは確かなようである。


プライベートとしては、相当な甘党であり、特にケーキ類が好き。それらを前にすると童心に帰ったかのように喜ぶ。

喫煙者であり、メイキングやインタビューなどでタバコを吸ってる姿がたびたび目撃される。


作品制作の他に、声優の発掘・育成に関しての独自の才能が評価されている。朴璐美白鳥哲など、小劇場などで活躍していたところを彼に見出され、育成(もとい罵倒)を受けて大きく成長し、現在一線で活躍している声優は多い。

また、古谷徹子安武人等のように、それまで特定のイメージの役ばかりでキャスティングされることに悩んでいた声優が、富野作品で大きく逸脱した役を演じたことで演技の幅を広げ、優秀な役者として成長した例も数知れない。

指導の賜物が垣間見える例の一つとしては機動戦士Vガンダムウッソ・エヴィンを演じた阪口大助があげられる。本作における阪口の演技は、最初と最後でまるで異なることで有名である。この時の演技指導はかなり苛烈だったようで「鉄拳制裁を含んだ厳しい演技指導があった」という俗説まで流れる程だった。鉄拳制裁については後に阪口本人は否定しつつも「5秒前までニコニコしていたのに突然火山爆発の如く怒り狂うなんて日常茶飯事」「どこで怒りのスイッチが入るのか全くわからないので、心休まる時がなかった」とコメントしており、指導がかなり厳しかったことは認めている。


もちろん、アニメ製作の面においては、彼の元で仕事をしたスタッフの多くが、現在でも一線級の仕事をしているなど、アニメに与えた影響は計り知れないものがある。


ファンからの愛称には「御大(将)」がある。由来は不明だが、おそらくは∀ガンダムの大ボスであるギム・ギンガナムから来ていると思われる。ギンガナム自身非常にエキセントリックな性格をしており、制作秘話でしばしば唯我独尊でぶっ飛んだ逸話が語られる富野と重なったのかもしれない。


小田原ふるさと大使に就任した際に、「小田原は今でも嫌い。でも自分の原点は小田原。自分の生み出した(ガンダムの主人公のアムロ・レイなどの)キャラクターも出身地は小田原」と“富野節”で郷土愛を語った。



略歴編集

1941年、神奈川県小田原市に生まれる。

父親はかつて零戦用の与圧服の開発に携わっていた技術者であり、富野によると父が終戦後の軍命令を無視してこっそり残していた当時の設計図や資料に触れたことが、後に数多く手がけるSFアニメの原風景になったとのこと。

小学生時代は周囲から孤立した少年だったという。当時はなぜ皆が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみると自分のほうから彼らにケンカを売っていたと述懐している。


オタク批判を行っているとはいえ、当時の少年の例に漏れず彼も手塚治虫に衝撃を受けた人間であった。最大のショックを受けたと語る来るべき世界で手塚治虫に興味を持ち、画家や映画制作を志望するようになる。


高校卒業後に日本大学芸術学部映画科に進学するが、当時既に映画が斜陽産業となりつつあった為に大手映画会社はどこも新卒採用を控えるようになっており、その影響で映画制作の仕事に就く夢は叶わず、演出ができるならこの際なんでもいいという思いで虫プロダクションに新卒で入社する(ちなみに、虫プロが新卒採用をしたのは後にも先にもこの時の一度きりだったそうで、富野は「これも縁」と述べている)。

虫プロでは当初制作進行や演出助手をしていたが、社長の手塚治虫が直々に富野の才能を見出し、彼を演出家に抜擢した(と書くと仰々しいが、実際は人手不足の影響によるもの)。


演出家デビューは、1964年11月に放送された鉄腕アトム第96話「ロボット・ヒューチャー」であり、この時は「新田修介」という名義であった。

富野はモノクロ時代の「鉄腕アトム」の絵コンテ製作など、まさに黎明期から日本のTVアニメの制作現場に関わっていたのである。

監督を勤めるようになる以前から、絵コンテの制作速度が異常に速い事で業界内で名を知られており、「コンテ千本切りの富野」の異名で呼ばれた。これに関して富野自身は「自分より絵が上手い奴がいくらでもいたことにショックを受けた。彼らに負けずに自分が出来ることは絵コンテを早く切ることだけだと思った。だからひたすら早く絵コンテを切り続けた」と語っており、当時は結婚式当日も絵コンテを書き続けたという。


また、『鉄腕アトム』の後半では『ジャングル大帝』に主要スタッフが引き抜かれてしまったことによる製作スケジュールの圧迫から、やむを得ず以前使用したカットを使い回して新しい話をでっちあげるということが横行していたが、この時の経験が後の劇場版ガンダム三部作を始めとする劇場版総集編作品の製作に役立ったという。


1967年に虫プロを退社した後、一時期CM制作会社に移籍。ちなみに、この時富野をCM業界に誘ったのが富野の著書で「チョキ」と呼ばれている女性であり、彼女の強い気性が後の富野作品のヒロイン像に大きな影響を与えているという。この時のことは「女の尻を追いかけてアニメを離れた」と述懐している。


しかし、製作者としてのクレジットが出ないCMの世界が肌に合わなかったことでアニメ業界への復帰を模索するようになり、フリーの演出家として出戻りする。一度アニメを辞めた負い目もあり、ジャンルを問わず様々な作品に精力的に参加。先述の異様なコンテ制作速度も相まって、現場が困った時のピンチヒッターのような扱いで活躍し、どこのスタジオに行っても仕事をしているのを見かける「さすらいのコンテマン」として業界内で名を馳せる。

だが、当時はまだまだ演出家としての評価は決して高いものではなく、それなりのコンテを早く上げられる便利屋程度の扱いで、富野自身もとにかく毎日食べていくのに必死であった。数を大量にこなしていたために単価が安いことで悪名高いアニメ演出家としては稼いでいた方らしく、スタジオに愛妻弁当を持って自家用車であらわれ、コンテを書いて仕事を終えるとさっさと帰っていくというスタイルは若手の貧乏演出家達の憧れではあったようだが、当然ながら作品の評価とは直接関係のない部分である。

それでも手当り次第に仕事をしていたことで、長浜忠夫高畑勲出崎統おおすみ正秋といった錚々たるクリエーター達との出会いを重ね、刺激を受ける。


1971年、手塚治虫原作の『海のトリトン』で監督デビュー。今となっては、富野の監督作品としては数少ない非ロボットもののアニメであり、経歴からはむしろ浮いているが、彼の作品の直撃世代であり大ファンでもある映画評論家の町山智浩は、「この作品こそ、後のすべての富野作品の源である」と評している。


ちなみに、あの宇宙戦艦ヤマトの第4話の絵コンテも担当しているが(富野曰く、プロデューサーの西崎義展に強引に引き受けさせられたとのこと)、ストーリーが気に入らなかった為、ストーリーに手を加えた絵コンテを納品し、西崎を激怒させたという。


1975年に創映社(現在のサンライズ)に企画を持ちかけられた『勇者ライディーン』を手掛ける。

しかし、原作モノではないオリジナルアニメを作れると富野も意気込んでいたものの、自身のキャリアとしては初めての巨大ロボットアニメであり、演出セオリーが分からず悪戦苦闘。さらに局の急な方針転換により、スポンサー・代理店・現場の反発などをまとめ切れず、その責任を取らされる形で監督を降板させられる。

後任となったのは長浜忠夫であったが、彼は後任を受諾しつつも富野への横暴な人事には激怒していたという。一方、富野は鬱憤を抱えながらも完全に作品から降りることはなく、長浜の下でロボットアニメの制作技法や現場のコントロール術を学んでいった。


その後、『無敵超人ザンボット3』や『無敵鋼人ダイターン3』を手掛けた後、1979年に『機動戦士ガンダム』を世に送り出す。

テレビシリーズ放送当時こそ、玩具売り上げ不振で打ち切りになったものの、口コミ人気を呼び、やがて劇場版三部作が製作されるほどの大ヒットとなった。それからのシリーズの人気ぶりはもはや説明するまでもないだろう。

ただ、あまりにも高すぎる人気ゆえに、富野自身が完結を望んでも幾度となくを製作させられることになり、後に彼を苦しめることになった(もしかしたら今でも、かもしれない)。


また、元々のリアリズムを追求する姿勢に加えて、アニメ作品に戦争群像劇を持ち込むという画期的な試みを行ったが故に、どんどん登場人物が戦死していった『ガンダムシリーズ』はもちろん、『伝説巨神イデオン』、『聖戦士ダンバイン』など、キャラクターがとにかく死にまくる作風がこの頃より顕著になっていく。

このリアリズム追及は少年時代に横山光輝の『鉄人28号』を見て現実的な科学視点から「こんなの嘘だ。あの体格のロボットが、ビルの間で悠然と立ち回って戦闘できるわけが無い」と否定したことに由来し、鉄人へのアンチテーゼとしている。


1988年、シリーズ最終作として『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』を製作。アムロシャアの因縁、ひいては人類に希望を持つ者と絶望する者の争いの一つの到達点を描いた今作は、ファンはもちろん、押井守庵野秀明など同業者・後輩からも、シリーズに残る傑作として大きな支持を受けた。

が、結局ここでも、『ガンダムシリーズ』を完結させてはもらえず、新たなシリーズ作品を監督していくことになる。


このガンダムに囚われ続ける自身の人生に半ば嫌気が差したようで、そんな矢先の1993年の『機動戦士Vガンダム』では、製作環境の混乱などで重度のうつ病にまで陥る。そしてシリーズ史上に残る陰惨な物語を描いた末に一時監督業を休止してしまう。

この頃の精神状態の荒廃ぶりは相当深刻なものであったらしく、眠る時はほとんど気絶同然で、真剣に創通エージェンシーのビルを爆破する計画を考えたり、サンライズから上井草駅までの道に猥雑な絵付きの抗議ビラをばらまいたりする妄想をしながら日々を過ごしていたという。なお、本人曰く、実行に移さなかったのは目眩と耳鳴りで立って歩くことすら困難だったお陰とのこと。

Vガンダムのラストシーンで半壊したV2ガンダムらが横たわるシーンには、サンライズに対して「ガンダムシリーズはもうやめよう」という意思を込めたという。全く当事者には伝わらなかったが。

また当時、サンライズがバンダイに買収された際、Vガンダム製作中に秘密裏に話を進め、ガンダムごと身売りして莫大な株式売却益を手にして去っていった旧経営陣に対して、まるで自分が身売りされたような感覚に襲われ、旧経営陣の殺害を考えたほどだったらしい。


だが、若いスタッフやクリエイターとの出会いと交流を通じて新しい刺激を貰い、家族の協力もあって少しずつ回復。


1998年、『ブレンパワード』『∀ガンダム』で監督復帰。この時点から、休止以前の作風とは打って変わって、明るく、登場人物達の死が少ない作風へと変化する。

以後、『OVERMANキングゲイナー』、『Zガンダム』の劇場版リメイクなど、コンスタントに監督業を行いつつ、以降は講演コラム掲載、対談などマルチな活躍が増えていく。


2014年、ガンダム35周年記念作品として『ガンダム Gのレコンギスタ』を発表。原作・総監督・製作総指揮の他、本編脚本執筆、EDの作詞、本編コンテなど齢70を超えてなお幅広く作品制作に携わる。

また、同作で「井荻翼」名義で声優デビュー。出演は最終回のみであるが、富野自らが物語に出演する事は、ファンの間で話題となった。


2021年、令和3年度文化功労者に選出。


作風編集

テーマ編集

自作に共通するテーマについて、本人は「人の自立と義務と主権の発見と、人が作ってしまう悪癖(業)の発見」と語っている。

味方といった立場で単純に善悪を規定するのではなく、それぞれが独自の正義に基づいて行動し「正義」の定義の違いが対立を生むという構図が多くの作品でみられ、物語が進むにつれて主人公側の「正義」がどんどん揺らいでいったり、終盤でいきなり覆される作品も多い。


また、ストーリー上の必然性無しに主人公達に英雄的な活躍をさせることを好まずリアリズムを重視し、『アトム』の頃から子ども向けアニメだからと迎合することなく哲学的なテーマやシニカルな皮肉といった毒っ気ある演出を盛り込んでいたことでも知られる。

この姿勢が当時はあくまでも子供向けとされていたロボットアニメに高年齢層の視聴に耐えうるシリアスで骨太な物語性を持たせ、『ガンダム』を始めとする数々の名作を生み出すことに繋がったといえる。


しかし、こうした作品の「物語」としての完成度の高さを追求する富野の作家性は、関連玩具の売り上げ促進のためにとりあえずロボットやキャラクターを魅力的に描くことを優先して欲しいというスポンサー企業及び広告代理店の商業的な都合との間で軋轢を生むことも少なくなかった。

実際、過去には監督作品が玩具の売上不振で打ち切られたり、上層部の横槍で路線変更が度重なって作劇が迷走してしまったこともある。それでも富野は大分スポンサーに折れた内容を作っていたことは留意しておくべきだろう。

特に『機動戦士Vガンダム』ではサンライズの身売り騒動もあって、製作環境の混乱の一因となったのは有名な話である。

加えて、『ダンバイン』『イデオン』『機動戦士Ζガンダム』等のように、盛り込んだアイディアや作風が画期的過ぎて、放映当時は一般受けせずに視聴率が振るわず、後年の再評価を待たねばならなかった作品も多い。


初期の頃は「親子、兄弟姉妹、身内同士であっても決して理解し合えるわけではない」という家族愛へのアンチテーゼが散見され、富野が手がけた殆どの作品で主人公と家族の関係が悪いことが多かった。

特に両親であるキャラクターについて、父親は一見社会的には正常な思考を持ち合わせた常識人に見えるが家庭を顧みない無責任な一面のある人物として、また母親は親としての自覚に欠けており女性としてのエゴの強い人物として描かれるなど、人間的に醜悪な人物として描く傾向が強く、悲惨な死を遂げたり、早々に物語から退場して存在を忘れ去られることが多かった。

これについては富野自身も両親に対して憎悪のような感情を抱いていたと述懐している。

しかし『機動戦士ガンダムF91』以降になると、すれ違いながらもなんとか互いに和解の道を模索して悪戦苦闘する親子の様子が描かれるようになっていき、物語を通してバラバラだった家族を再生させていく等、明らかな考え方の変化が窺える。


演出家として編集

演出家としては過度に説明的な表現や記号的なケレン味、テンプレ的な演出を嫌い、あくまでもテーマに則ったドラマをリアルに描くことを優先するスタンスを取っている。


登場人物たちの何気ない台詞や行動に、画面上では直接描かれない心理的な背景や人間関係、世界観がわかる様々な要素を埋め込むのが特徴で、その多層的で文学性の高い演出は古くから高く評価され、後続のクリエイターにも大きな影響を与えてきた。

一方、展開上重要な初出の設定や専門用語であってもキャラに一瞬喋らせるか、さりげなく描写するだけで説明を済ませてしまうことも多く、状況を目まぐるしくスピーディに展開させる傾向も相まって、作品によってはただ見ているだけでは全体的なストーリーの進行状況が非常にわかりにくくなっているものもある(特に富野自身が脚本と演出の双方を手がけている作品で顕著)。

登場人物たちに何かを説明させる場合でも、彼らの持つそれぞれの語彙力や知能・知識・認識の範囲を考慮して喋らせるため、説明内容が設定的に正確であるとも限らない(有り体に言うと「キャラが視聴者に嘘をつく」)。


アクションシーンにおいては舞台設定やギミックを存分に活かした立体的で奥行きのある演出を持ち味とし、特に『逆シャア』におけるアクシズでのアムロとシャアの最終決戦の演出は、ファンのみならず、アニメ業界人にも大きな衝撃を与えたという。

加えて、登場人物達が戦いながら自分の感情や主義主張を互いにぶつけ合うことで人間ドラマ部分を停滞させないという手法は、富野の発明に類するものである。


また、劇中に性的な暗喩や台詞回しを混ぜ込んでくることにも定評がある。アニメ作品では直接的な描写をすることは少なく、台詞や演出で軽く匂わせる程度だが、いわゆる視聴者のための『お色気シーン』のようなわかり易いものではないだけに余計に生々しさが際立つ。小説作品ではより赤裸々に性描写を描く傾向が強く、かなりえげつない表現や展開も繰り出してくる。

なお富野曰く、本人の性的嗜好としてはSM好きとのことで、エッセイ集『∀の癒し』では自身のSM嗜好について朗々と綴っている(ただし、重度のうつ病で精神が壊れていた時期の語りであるため、どこまで本気なのかは不明)。


皆殺しの富野編集

『Vガンダム』以前の陰鬱なストーリーや「理解し合うことのできない人の業」といった重いテーマを含んだ作風は、視聴者に強い印象を与え『黒富野』などと呼ばれた(一方で無敵鋼人ダイターン3戦闘メカザブングルのような明るい作風の作品も手がけている)。

登場人物クライマックスで全員(もしくは主人公以外ほとんど)が死ぬ展開が多かったため『皆殺しの富野』などという異名もあった。これについて富野自身は、「キャラが全員死ねば、視聴者が綺麗に作品から離れていける」「キャラが死ぬことでとりあえず劇的に見える」と解説していた。

但し、『伝説巨神イデオン』では制作上の事情もあったとはいえ流石にやり過ぎたと思ったのか、「『禁じ手』を使ってしまったのかもしれない」と発言している(キャラが死ぬことでとりあえず劇的に見えるということは、それだけで安直に一つの作品として成立させることができてしまうということでもあるため)。


一方、監督業一時休止を経た『ブレンパワード』以降は、明るく前向きな作風に転じたため『白富野』と呼ばれている。

一説には、『イデオン』や『Vガンダム』に影響を受けた『新世紀エヴァンゲリオン』の、当時としては異様な完結に、自身の暗い作風の悪影響の大きさを知って考えを変えた、とも言われるが、この情報源はたまに出回るコピペなので、定かではない。


時は流れ、2014年の『Gのレコンギスタ』の最終回における展開について「皆殺しの富野は辞めたい」という趣旨の発言を最終回の上映会イベントで語っている。


キャラクター造形編集

キャラクターに生々しい肉付けを行うことでも知られ、登場人物たちは大なり小なり何かしらエゴコンプレックスを抱えた人間くさい造形がなされていることが多い。

そして、そんなキャラクター達が高ぶった感情をぶつけ合ったりする際に飛び出す独特の台詞回しは『富野節』と呼ばれ、ファンの間で親しまれて(?)いる。

『ブレンパワード』以降は生活描写や生理現象、癖といったキャラクターの肉体や身体性を意識させる描写を強調するようになり、よりキャラを生き生きと見せる演出が増えている。


キャラクターデザインに関して、「目が大きいキャラは嫌い」と明言しており、その徹底ぶりは『機動戦士クロスボーンガンダム』にて作画を担当した長谷川に「目を小っちゃくしてよ!」と注文して驚かせたほど(流石に無理があったためか、結局諦めた)。

『ブレンパワード』ではいのまたむつみのキャラクターデザインをアニメーション用デザインにまとめる際、担当スタッフの重田敦司に「目を小さくして、口はもっと大きくしつつ、それでいていのまたさん風にして」とかなり無茶な指示をしていたという(そもそもいのまたのデザインは目が大きく口が小さいという少女漫画タッチの作風が特徴のため、こちらもやっぱり無理があったので諦めた)。

これについて富野は「いわゆる萌えアニメのキャラの目が大きいのは、視聴層のオタクが、他人からの目線に飢えているため」と発言している。


代表的な作品編集


著書編集

  • だから僕は… 「ガンダム」への道

1981年に出版された自伝的エッセイ。

生い立ちや恋愛、奥さんとの馴れ初め、虫プロ時代のこと、若干の恨み節その他が書かれており、『ガンダム』以前の富野の人となりを知ることができる。

  • 「イデオン」ライナー・ノート ―アニメの作り方 教えます

1982年に出版された『イデオン』制作手記風エッセイ。あくまでも制作手記「風」の創作であり、内容は虚実混じる。

  • 映像の原則

映像を制作する上で誰もが踏襲すべき確固たる大原則について記されたノウハウ本。

『アニメ業界を志すものならば誰でも読んでおくべし。読んで内容が理解できないような人はやはり映像業界に付くことはお薦めできない』と著書内で述べている。

  • ∀の癒し

『Vガンダム』から『∀ガンダム』までの制作裏話を中心としたエッセイ集。

『Vガンダム』で患ったうつ病による地獄と、如何にしてそこから立ち直ったのかについても語られている。


出演編集


余談編集

  • 静岡県立美術館で開催された『富野由悠季の世界』では監督応援用のうちわが販売された。
  • 『日本沈没』に京都の高僧役で出演した際に、エキストラから本当のお坊さんと勘違いされたんだとか。

関連項目編集

人物 アニメーター アニメーション演出家 アニメーション監督

サンライズ

高橋良輔 永野護 あきまん 皆殺しの富野 富野節


作者は病気


外部リンク編集

富野由悠季の世界

Wikipedia

映画.com

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