旧虫プロ
正式名称は「株式会社虫プロダクション」(通称:虫プロ)
1961年6月(昭和36年)にアニメーション専門のプロダクションとして手塚治虫が「手塚治虫プロダクション動画部」を創設、1962年1月(昭和37年)に改称して本社名になった。
1963年に『鉄腕アトム』を制作して、日本初の30分物の連続テレビアニメーションを制作した会社となり、アトムの大ヒットによって次々とアニメ制作をするようになった。
手塚のアシスタントたちは手塚を「先生」と呼んでいたが、虫プロ社員たちは「社長」と呼んでおり、手塚にも社長としての役割を期待していた。しかし多忙な手塚に制作の判断を仰がねばならず、手塚がリテイクの要求が出て制作スケジュールが遅延しコストがかさんだり、番組の放送に穴が開いて代わりに過去回の再放送で埋めることが多かったことから手塚をアニメ制作に関わらせないようになった。
虫プロ作品が思うようにヒットせず、会社が次第に赤字になっていったことで放送局の要望もあって、手塚が反発したものの、『あしたのジョー』など手塚原作ではない漫画のアニメ化も行った。
当時虫プロ所属だった富野由悠季曰く「一番会社の運営に専念してほしい人が運営そっちのけで漫画やアニメ作ってた」とのことで、富野は他の作家の作品のアニメ化もすべきという考えを持っていたが、社員たちがイエスマンばかりで手塚に意見するものがいなかった。冨野は同意見だった常務の穴見薫が急死したこともあり、虫プロを退社している。
やがて虫プロ内部で大規模な労働争議が起きてスタッフが次々と退社、1971年には手塚も社長を退任させられる。
子会社として「虫プロ商事」があり、出版部門として手塚のファンクラブ会報や藤子不二雄などのコミックス、雑誌『COM』を手掛けていた。
1973年、『ワンサくん』の制作を最後に会社は倒産。
虫プロ商事で企画制作部長に就任していた西崎義展に経営を掌握されていたこともあって、混乱のさなかアニメの版権まで奪われることになる。
会社の運営に関わった人達は「これで手塚先生はアニメ制作に懲りてもう関わらないだろう」と思っていたが、漫画の版権管理のため創設した手塚プロダクションで再びアニメ制作を行うことになる。
新虫プロ
正式名称は「虫プロダクション株式会社」
1977年に旧虫プロの労働組合が中心となって設立された。
設立時に、手塚治虫から再建への支援として旧虫プロ時代に製作された商業アニメーション作品の著作権の全てが新虫プロに譲渡されたため、旧虫プロ作品の著作権管理も主な業務になっている。
同じ手塚治虫によって創設された会社でしばしば両者を混同した記述がされることもあるが、本社と手塚プロダクションは資本的には全く別の企業である。ただし手塚自身をはじめスタッフの行き来はあった。
上映会形式・親子映画向けのアニメーション映画を多く制作した一方、TVアニメシリーズは手塚が原作ではなく企画・監修として関わった『ワンダービートS』のみで、それ以外は他社の下請けがほとんど。
なお旧虫プロから独立したマッドハウスの制作していたセルアニメに多くスタッフとして参加していた編集技師である尾形治敏は、もともとは新虫プロ側のレギュラースタッフであり、のちに彼が立ち上げた映像フィルム編集スタジオである「尾形編集室」は、この新虫プロのフィルム編集部が前身である。(同社の他の技師メンバーとして伊藤勇喜子が知られている)
関連タグ
旧虫プロスタッフが興した会社
サンライズ 日本アニメーション マッドハウス ナック 手塚プロダクション オフィスアカデミー(西崎義展の個人事務所) グループ・タック シャフト スタジオライブ ぎゃろっぷ 京都アニメーション