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藤子不二雄

ふじこふじお

藤本弘と安孫子素雄によるコンビ漫画家。1951年プロデビュー、1988年以降は独立し、「藤子・F・不二雄」「藤子不二雄Ⓐ」というペンネームで活動した。
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藤子不二雄は、藤本弘と安孫子素雄によるコンビ漫画家。


1951年に連名でプロデビュー。1953年にはじめて「藤子不二雄」名義を使用。1987年に独立を発表。1989年以降は「藤子・F・不二雄」(藤本)と「藤子不二雄Ⓐ」(安孫子)という別々のペンネームでそれぞれ活動を続けた。


学生時代〜プロデビュー編集

2人は小学校以来の友人で、ともに漫画好きで、絵や漫画を描いて遊ぶ仲だった。手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け、本格的にまんが家をめざす。高校時代に合作でのアマチュア漫画投稿を始め、1951年、高校3年のときに『毎日小学生新聞』に投稿した『天使の玉ちゃん』でプロデビュー。


1952年3月。卒業式後の春休みを利用して大ファンであった手塚治虫の家を2人で訪ね、初対面を果たす。手塚の仕事場や生原稿を目の当たりにして大きな感銘を受け、本格的にプロ漫画家として活動する夢を大きくする。一方の手塚治虫も、このとき2人が持参した漫画に目を通し「なかなか上手だね」とありきたりな返事をしたものの、内心では「とんでもない子達が現れた」とその才能を見抜いていたという。ほどなく手塚が出版社に2人を紹介したことで、2人に単行本の執筆依頼があり、翌1953年に発行されることになる。


手塚と初対面した当時、2人が連載中だった漫画『天使の玉ちゃん』で使用していたのは「あびこもとお・ふじもとひろし」という本名を並べたペンネームだったが、アマチュア投稿作品の共通ペンネームとしては「手塚不二雄」を使用していた。


高校卒業後、2人は別々に就職したが、藤本は数日で退社し漫画に専念。一方の安孫子は伯父が専務を務める新聞社で仕事をしながら藤本との合作を続けた。同年11月に雜誌デビュー作『西部のどこかで』を発表し、1953年7月には初の描き下ろし単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』を世に送り出した(この間は「足塚不二雄」のペンネーム。「手塚」では気が引けるので「手」を「足」にしたという)。


1953年12月に藤本が安孫子に一緒に上京することを提案。安孫子はサラリーマン生活に未練があったというが、悩んだ末に藤本とともに夢の道に進むことを選び、新聞社を退職した。


上京〜すぐに多忙漫画家に編集

1954年6月に上京。当初は東京都江東区森下の2畳の部屋に下宿したが、10月に、豊島区の若手気鋭漫画家が集うアパートトキワ荘」の手塚治虫の住んでいた14号室に、手塚と入れ替わりで入居した。2人を買っていた手塚はこのとき、金のない2人のために敷金を肩代わりし(藤子は2年後に返済)、作画用の机などの家具を部屋に残しておいた。当初は2人で1つの部屋を使い、1955年12月上旬には多忙の2人の炊事等を手伝いに来た安孫子の姉も含めて3人で1部屋で暮らしたが、同月に隣室の15号室を新たに借り、藤本が転居した。


執筆仲間が増え、その中の一人である赤塚不二夫いわく「友達ではなく兄弟」というべきトキワ荘の仲間達と共に漫画家修行に励んだ。


1961年、神奈川県川崎市に土地を購入し隣接して並んだ一軒家を2棟新築。トキワ荘時代から呼び寄せていたそれぞれの母親とともに転居した。1964年に連載を開始した『オバケのQ太郎』(合作)が大ヒット。社会的に知名度のある漫画家となった。


1964年から1966年にかけて、『忍者ハットリくん』(安孫子単独作)、『怪物くん』(安孫子単独作)、『わかとの』(安孫子メインの合作)、『パーマン』(この時期の作品は藤本メインの合作)等、のちに代表作となるヒット作が次々と生まれた。


藤子不二雄と合作編集

デビュー当初から藤子不二雄作品は「藤本作品」「安孫子作品」「合作作品」の3種類に分かれており、いずれもが「藤子不二雄」という共通のペンネームで発表されていた。十分な人数のアシスタントを雇う前は、多忙時には互いに互いの作品を手伝っているので、明確な作画分担をしていない作品であっても相方のペンが混ざっている作品も多い。


独立時に藤子が「最後の合作はオバQあたり」と発言したことで、「合作は1964年頃まで」という誤った認識が広まってしまったが、実際には『オバQ』の後も『わかとの』『名犬タンタン』『ベレーのしんちゃん』『ジロキチ』『てぶくろてっちゃん(1966年版)』『パーマン(1966〜1968年版)』『チンタラ神ちゃん』『仙べえ』等の多数の合作が執筆されている。


最後の合作は、通常の漫画作品としては、1976年の『オバケのQ太郎』の読切作品。特殊な作品としては1984年の『のらくろよ永遠に』である。年賀状のイラストまで含めれば、1988年の年賀状まで合作でイラストを執筆している。


十分な人数のアシスタントを雇った後は、単独での担当作品の執筆には相棒は関与していない。『ドラえもん』に安孫子が関与した回があるという話はデマで、そのような談話や資料は一切遺されていない。


読切漫画『ドラえもん誕生秘話』(アニメの方ではなく、全集の『ドラえもん』20巻収録のやつ)で、新連載主人公となるキャラクターを描かないまま新連載予告を出してしまったため、2人が喫茶店で相談しながら頭を抱えるシーンがあるが、あくまでも漫画作品上の表現である。『ドラえもん』は藤本に対して依頼が来た、藤本が単独で担当した作品なので、安孫子は関与していない(イベント等の打ち合わせに参加したり、大山のぶ代の著書のカバーにドラえもんのイラストを描くことはあった)。


キャラクター、アイデアの共有編集

同一の作家「藤子不二雄」として活動しているため、自身の単独作品に、相棒のキャラクターを自由に登場させていた。


オバQの小池さんは安孫子が生み出したキャラクター(モデルは鈴木伸一)だが、藤本も頻繁に使用し、小池さんを主人公にした作品も執筆している。同オバQの神成さんは藤本が生み出したキャラクター。『21エモン』のゴンスケは藤本が生み出した脇役キャラクターだが、後に安孫子が単独で『ゴンスケ』という連載漫画を執筆している。


ドラえもん』(藤本単独作)に安孫子の怪物くんが登場することもあった(ただし執筆していたのは藤本)。漫画『忍者ハットリくん+パーマン』は安孫子の単独執筆作品だが、もともと安孫子が作画を担当していたパーマン2号だけでなく、パーマン1号も安孫子の手で描かれるというレアな作品となった。


互いの過去作品のアイデアの再利用も自由に行っていた。

例えば、藤本メインの合作『パーマン』(1966年)は、安孫子単独作『わが名はXくん』(1957年)での「宇宙人からマスクをもらう」という設定を流用して作られている。

また、安孫子単独作『怪物くん』「ほんとに恐竜はいるのかい?」(1967年)ではヒロシが恐竜を見つけるという無理な約束をする場面があるが、藤本単独作『ドラえもん』「のび太の恐竜」(1975年)でものび太が同様の無理な約束をする場面がある。


独立とその後編集

1987年12月、それぞれで独立し「2人で2人の漫画家」として活動することを発表。以後、藤子・F・不二雄(藤本)と藤子不二雄A(安孫子)にペンネームを分け、藤本は別のビルに仕事場を構えた。


解散の理由は、公式には「2人の作風の変化」だと語られている。藤本が後年まで児童漫画SFを主戦場としていたのに対し、安孫子は次第に青年漫画ブラックユーモアにシフトし、同一の作者の作品として語るにはファンのイメージを損ねかねない、というものである。


実際は、1986年に藤本が胃癌手術をしたことが大きな要因だといわれている。藤本も安孫子もともに大量の仕事に追われ続ける人気漫画家であり、報酬は互いの作業量にかかわらず常に均等に分けることにしていた。親友の2人同士だけであればそれで問題はなかったが、藤本の体調が悪化して万が一死去してしまった場合には当人以外と分与問題を話し合わないといけなくなってしまう。そのまえに未然に権利を分割し、互いの死後も単独で漫画家活動を続けられる体制を整えた等、様々な理由が推測されている。


独立時に各作品の権利は明確に分割された。少数の作品を除いて、基本的にどちらかの単独名義となったため、藤本メインの合作『パーマン』『新オバケのQ太郎』等は藤子・F・不二雄名義、安孫子メインの合作『わかとの』『きえる快速車』等は藤子不二雄A名義となった。これらは単独作と勘違いされやすいが、『オバケのQ太郎』と同様に、2人でキャラクターごとに作画を分担している合作である。


代表的な合作である『オバケのQ太郎』は、2人の独立後、それぞれの過去作品が文庫化や全集化されていく中でどちらにも収録されず、入手が困難になった時期があった。2023年現在では話し合いが進み、多数の合作が藤子・F・不二雄大全集に収録され、入手しやすくなった。ただし『星の子ガン』『銀星少年』『名犬タンタン』『ジロキチ』など、安孫子メインの合作作品で入手できない状態のものは多い。藤本が主人公を描いている作品や、単行本数冊分になる分量の作品もあるため、早期の単行本化が望まれる。


やっぱり「2人で1人」編集

藤子不二雄の生活ギャグ漫画作品は、最初に大ブームを巻き起こした合作『オバQ』が基本になった。それは、「ダブル主人公」である。2人はこのことに1979年に言及している。


つまり「ドラえもんとのび太」「須羽ミツ夫とブービー」「キテレツとコロ助」「チンプイと春日エリ」であり、「怪物くんと市川ヒロシ」「ハットリくんと三葉ケン一」「UBと鈴本ミチオ」といった次第である。また、変化球として「異性を意識しながらもパートナー、協力者である」という間柄には「佐倉魔美と高畑」「猿谷猿丸と紅蜂」と言った関係も。


2人の作風は離れたようで離れていない。安孫子曰く「自分は酒やゴルフのような大人のつき合いを覚えたが、藤本君はそのようなことは一切しなかった。結果的に藤本君は少年のような心を持ち続けたが、逆に自分はこども心が薄れ、作風に差が出た」とのこと。

だがその一方で、結婚は藤本のほうが早く、3人の娘に恵まれ、「しっかりしたお父さん」と言われる“大人”になっている(娘は「中の人」を忖度したうえで締め切りにうるさいサンタクロースへ毎年クリスマスのプレゼントを注文していたという)。それに対して、安孫子は夫人とは熱愛関係続け、1985年末に夫人が大病で倒れた際は何をしていいのか解らずパニックになってしまったりするほどだった(安孫子夫妻には子供はいない)。


安孫子は「こども心が薄れた」と語っているが、実際は安孫子も児童漫画への執心は捨てておらず、独立後も『ウルトラB』の連載を続け、過去作『ビリ犬』の新連載を開始し、『パラソルヘンべえ』『プリンスデモキン』などの新作漫画も手掛け、1999年まで一貫して児童漫画を描き続けた。また、劇画の『サル』は青年誌向けの内容だが、原点をたどれば“子供の頃にテレビで『プロゴルファー猿』を見ていた世代”を対象とした作品である。


一方で藤本の作品のほうがブラックだという声も多い。1969年から描かれた大人向け短編群(『ミノタウロスの皿』、『ウルトラスーパーデラックスマン』など)だけでなく、少年向けに描かれた『モジャ公』でも血飛沫が飛び、生死が左右される衝撃的な描写が多数登場する。代表作『ドラえもん』の作中のお遊びが全力でR-18だったりする。数話に1本は思春期の女子のすっぽんぽんを拝める漫画を描いていたのも藤本。安孫子は多数の大人漫画の連載を手掛けたが、藤本も『中年スーパーマン左江内氏』を連載している。


デビュー当初から単独作品と合作のどちらも手掛けていたため、世間的に正式に独立してからも、2人は同じ場所を目指して漫画家活動を続けたのではないだろうか。

結婚と子供の誕生、数年後に『ドラえもん』が爆発的ヒットしたことによってタイトスケジュールに追われ“大人にならざるを得なかった少年”の藤本と、大人の遊びを覚えて夜な夜な遊びつつ多数の連載をきっちりと執筆して『せぇるすまん』『忍者ハットリくん』等の多数の大ヒット作を産み、映画『少年時代』のプロデュースなど漫画以外にも挑戦しようとする“少年のように自由に振る舞う大人”の安孫子。


お互いが自分に無いものを求めて結成したコンビは、独立後も永遠の結束を保ったまま人生を終えた。2022年にこの世を去った安孫子素雄は、藤本弘と再会したに違いない。



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