概要
ふざけたり、相手の笑いを誘うことを狙って何かを発言することや、またそういった言葉である。ダジャレや下ネタなどを含むこともある。
「ウケているのは自分だけ」で場を白けさせたり、悪ふざけで不謹慎ネタを発して相手を怒らせたりすることもあるので、自らを客観視することが大事である。また、「本気で思っていない必要ない悪ふざけは本気で悪口を言うよりも悪質」と考える人もいるため、言うときは状況判断と覚悟が必要である。
メイン画像のように、言った本人には「分かり切ったウソ」のつもりでも、あまりに生々しい内容から周囲にマジネタと受け止められてしまうことも往々にしてある。これが風評被害や名誉棄損といった事案に発展したら目も当てられないが、そんな事例もこれまた沢山ある。
なにより世の中には冗談が通じない人間や集団(=生真面目や頑固、公権力、あるいはそれらと正反対の反社他)が存在することも肝に銘じておかねばならない。
動画は「冗談の仕返し」というのがオチだが、ガチのやべーやつに手を出してアカンことになったバカッター・インスタ蝿・炎上系のユーザーの報告例は後を絶たない。
「冗談というのはみんなでゆかいに笑えることをいうのです。」
漫画作品『エスパー魔美』にて登場人物の高畑さんが作中にて述べた『言い訳としての冗談』に対する反論とも言える台詞。詳細は個別記事を参照。
余談
こういう「加害者側が『冗談』を盾に自己保身を図る」事例は、それこそ過去から多くあり『エスパー魔美』の連載と同時期(1979年)に出されたフォークソングバンドである海援隊(ボーカル:武田鉄矢)の歌にも、これをテーマにした歌である『JODAN JODAN』がある(『贈る言葉』の一つ前に出されたシングル)。
この曲の主旨は、そのものズバリで「感情に任せて本音を吐露してしまった後は、大抵は人間関係を損なわないために『冗談だ』と誤魔化す(それが『大人の礼儀』というものでソレを突っ込んでも指摘した本人を含めて誰も幸せにならない)。みんなやってる事だ」というのと同時に「誰だって本音を我慢して生きている。それでも我慢している本音が漏れてしまう事がある。誰も冗談で『冗談』なんか言わない。それが人間というもので、お互い様なんだ」といったもの。この曲はそんな昭和時代のノリを、それこそシャレのキツすぎる皮肉を交えて痛烈に揶揄した上で、それを「冗談(ネタ)だ」と笑い飛ばして「ネタにマジレスすんなよ」と逃げる(それすらもネタの一部とした)コミックソングなのである。
しかも、この曲のリリースはソレ自体(曲を作り、さらに出した、その経緯そのもの)が「冗談」の「本来の意味」と「詭弁としての意味」の両方を確信犯的にない交ぜにして出したものであり、その一部始終を知ってしまうと本当に「冗談」というものを的確に表現した曲と解る。
そして武田鉄矢は、のちにこの曲に関して「曲名からして『冗談(JODAN)』なんだから(無茶苦茶な事をしても歌っても)許して貰えるんじゃないかと思った」とまで述べている(この曲の歌唱時における振り付けは、当時に大ヒットを飛ばしていた『YMCA』(西城秀樹)のオマージュパロディ)。
実のところ、かの孔子も牛刀割鶏の故事でこの論法を用いている。
ある時に市場に赴いた孔子と弟子たちだったが、ふとした拍子に孔子が「あの肉屋、なんでわざわざ大きな牛刀で小さなニワトリをさばいてるんだろうね?」と弟子たちに尋ねる。ほとんどの弟子は師匠が単なる話題として振ったものと受け取ったが、意識の高い弟子の一人がいきなり「師匠はボクたちを試しておられるのだぞ、分かってないな、お前ら全員たるんでる!」とブチ切れだした。その場はいっきに孔子からの問いかけの解釈をめぐる論議の場と化したが、孔子はあわててこう言った。「冗談! ただの冗談だってば……」 (「論語」陽貨より要約)
……これは紀元前の大昔のはなしである。人間はほとんど進歩していないようだ。
関連タグ
ブラックジョーク…冗談のタチの悪いバージョン。
あまりにも生々しい冗談へのツッコミの一例。例えギャグとかウケ狙いのつもりでもこうした反応をされたならばそれ以上いけないと言われたも同然である。それが「振り」かどうかも判別できないなら冗談以前の問題になってくるだろう。
冗談で済むなら警察はいらない:相手の気分を害する言動をしたり、危害を加えるような仕打ちをしておいて、謝罪もせずに『冗談』という言葉でなあなあで済ますのはもってのほかである。