1990年から1999年まで(平成2年から11年まで)の10年間。タグとしては90年代が用いられることが多い。
日本の1990年代
日本の90年代は、経済的にはバブル期(バブル景気)の末期、そしてバブル崩壊とその後の「失われた10年」としてまとめられることが多い。
冷戦はアメリカ合衆国率いる西側の勝利で終わり、米国一極支配は揺るぎないものと考えられた。またその配下にある日本もそのおこぼれで恩恵を受けると考えられ、米国流の格差社会とグローバル資本主義を肯定する新自由主義思想が広まり、これは2000年代以降、日本社会の貧困化と失業問題が再び深刻化する伏線となる。
1990年3月、不動産市場の過熱と資産価格の高騰を抑えるために導入された「総量規制」を機に株価は下がり始め、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。1991年に入ると資産価格も下がり、資産価格を担保にした「不良債権」の存在が顕在化する。1992年に入ると、各企業はバブル期の過剰な雇用による人件費圧縮を口実に急激な採用抑制に走り、「就職氷河期」が到来する。元々日本の企業は新卒採用に偏っていたので、ただでさえ人口の多い団塊ジュニア世代からポスト団塊ジュニア世代が恵まれた職になかなかつけずに「氷河期世代」「失われた世代」(ロストジェネレーション/ロスジェネ/棄民世代)になってしまう。
1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行(拓銀)、日本長期信用銀行(長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)、山一證券、三洋証券など大手金融機関が不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて相次いで経営破綻。「3つの過剰(雇用、設備、債務)」が叫ばれる中、金融機関は「貸し剝がし」とも言われる債権の回収に走った。企業は社内で人材を育てる余裕すらなくなり、大学の新卒に「即戦力」たるを求めるなど、就職戦線はさらに厳しさを増した(いわゆる「超氷河期」)。1990年代末ごろには難関大学の卒業生もフリーター生活を余儀なくされるのが当たり前になり、即戦力の若者を「新卒切り」「使い捨て」するブラック企業が増えた。またこの時期の行政機関や学校、民営化されたNTTやJRなどは過剰人員の整理を名目にろくに新規採用をせず、1970年代〜1980年代前期生まれ(氷河期世代)の年齢層がすっぽりと抜けてしまい、技術・技能の伝承が困難になった。この結果、若者の所得水準や婚姻率が低下し、少子高齢化の加速という形で日本社会に大きな爪痕を残している。
それでも、1990年代中頃まではまだ社会にも余裕があり、全国各地で若者文化が隆盛を極めた。2000年の大店法(大規模小売店舗立地法)の規制緩和前で、地方の商店街もまだ活気が残り、現在ほど極端なシャッター通り化はしていなかった。平成不況の極みを迎えたのは1997年の消費税増税でデフレが始まったことなど、当時の橋本龍太郎政権における経済政策の失敗以降である。
時代像
1990年代は1980年代の延長の豊かさと、2000年代の前駆の暗さが混交した時代であり、数年の差で極端な違いがある。
1990年にバブルの崩壊が始まってから不況が顕在化するまでタイムラグがあり、しばらくはバブル期の余熱が残っていた。「ジュリアナ東京」のお立ち台で踊るギャルなど、80年代イメージで語られているバブルの風俗の多くは、実は90年代に入ってからのものも少なからずある。しかし1995年の阪神淡路大震災・オウム真理教事件あたりから、バブルの余韻も消えていくのであった。
1990年代後半の風俗といえば、1996年〜1998年前後の女子高生・コギャルブームのイメージが強烈である。CDや漫画、書籍の売り上げもこのころピークを迎えた。
ファッション
1980年前後に生まれた「コギャル世代」(ポスト団塊ジュニア)がファッションリーダーとなった時代である。まず90年代初頭に「ヒップホップ系」(後のB系)や「裏原系」といったストリートファッションが現れ、90年代後半にはギャル系・裏原系・B系・きれいめ系....といった日本独自の若者服の枠組みが定着。この時期に定着した若者服の枠組みは基本的に2000年代後半のAKB48による清純派回帰を経て2010年代前半に韓国ブランドが入ってくるまで継続した。1990年代末にはデフレ傾向からユニクロをはじめとする低価格ブランドの浸透が進み、若者の間で安価におしゃれを楽しむ習慣が普及した。
ヘアスタイルは、バブル期にはワンレングスのストレートロングヘアや、毛先のみにきついパーマをかけたソバージュが流行。バブル崩壊期にはヘアスタイル全般に「軽さ」を重視する傾向が強まり、毛先に段差をつけるレイヤーカットや、毛先をすくシャギーカットが流行し、茶髪やメッシュを入れる染髪も一般的になった。また、ヘアアイロンを使った巻き髪が登場するのもこの時代からである。
メイクはバブル期の真っ赤な口紅と太眉、こってりファンデから、90年代後半には安室奈美恵がファッションリーダーとなり極端な細眉が流行。また、色の濃いファンデーションを塗ったり日焼けサロンで肌を焼くガングロギャルやギャル男が現れ、「黒肌ブーム」などと言われたこともあった。
コンピューターとビデオゲーム、携帯電話
コンピューターのCPUは1990年代前半に従来の8/16ビットから32ビットに移行し、ハードディスクやCD-ROMドライブの搭載などで取り扱えるデータ量も飛躍的に増大した。これにより、コンピューターの世界もそれまでのドット絵とテキストデータ、合成音(FM音源など)の世界から脱却し、デジタル化した動画や写真、音声なども簡単に取り扱えるようになった(マルチメディア)。
テレビゲームの売り上げも最盛期であり、ドット絵からポリゴンによる3Dゲームへと移り変わっていく時代に当たる。スーパーファミコン・メガドライブ・PCエンジン・プレイステーション・セガサターン・NINTENDO64などが激しくしのぎを削り、中でもプレイステーションは社会現象と言えるほどのブームとなった。携帯用ゲーム機器ではゲームボーイが勝ち頭となっていたが、90年代中頃には陳腐化が進んでいた。しかし、1996年発売の「ポケットモンスター赤・緑」で再度ブームとなる。
パソコンはMS-DOSやMSXからWindowsとMacintosh(Mac)への移行が進んだ。Macの価格低下と、マイクロソフトがWindows3.1、そしてWindows95を発売したことにより多くの家庭にパソコンが普及していくが、回線速度の非常に遅いダイヤルアップ接続が主流だったこともあり、まだインターネットサービスは成熟しておらず、パソコン向けコンテンツやソフトウェアはCD-ROMでの流通が主流であった。
Windows95発売以降、独自設計のパソコンはMacとPC-9821を除いてほぼ淘汰され、そのPC-9821も、1998年に登場したWindows98とともに事実上終焉を迎えた。国内PCゲーム市場に至っては(テレビゲームとの競合もあり)、エロゲーと一部有名タイトルのほかは壊滅状態となっている。
1990年代後半の中高生たちは、携帯端末で日常のコミュニケーションをとることに熱中した。といっても1995~96年頃までの携帯電話なんて庶民のティーンエージャーが持てるような代物では無かった(本体はともかく利用料金が高額であった)ので、メールのかわりにポケットベル(通称ポケベル)を使用する若者が多かった。1997年頃から比較的利用料金の安いPHS(通称ピッチ)が普及すると、ポケベルは急速に過去の物となっていったが、翌98年には携帯電話の利用料金の低廉化によりPHSも頭打ちになる。99年には携帯電話端末からのインターネット利用サービスであるiモード、EZweb、J-skyが相次いで登場し、携帯電話から電子メールのやりとりができるようになった。
テレビ
1990年代は、1980年代から進んでいたメディアの多様化(マルチメディア)が本格的に展開し始めた年代である。プレイステーションの隆盛をきっかけにビデオゲームが社会人にまで広がり、レンタルビデオもすでに普及していたものの、多くの日本の庶民にとっての娯楽の王者はまだまだ地上波テレビ視聴であった。
こうした時代背景から、各局意欲的な番組が作られ、テレビが輝きを放っていた最後の時代と言っても過言では無いだろう。絶対王者だったフジテレビ・軽チャー路線に対抗して、日本テレビが「マジカル頭脳パワー!!」、「ウリナリ」、「電波少年」など今でも語り草となっているバラエティ番組を多数制作し攻勢を強めた一方、フジテレビもお台場移転を追い風に「踊る大捜査線」などのヒットで反撃した。テレビ朝日は平成新局を大量開局し、一気に全国ネットワークを確立。後の「水曜どうでしょう」や平成仮面ライダーのヒットではこの全国ネットワークが非常に効果を発揮した。テレ東はネットワーク拡大は諦めたものの「新世紀エヴァンゲリオン」などテレビアニメの名作を次々送り出した。しかしTBSは無理な改編とTBSビデオ問題がたたって、この時代は暗黒時代であった。
だが出演タレントやスタッフのギャラが安くなる、番組制作費用が削られるなど、バブル崩壊の影響は徐々にこの業界にも忍び寄ってきた。90年代後半には製作費が安い情報番組がオウム事件報道流行の影響を受けて肥大化し、キー局のニュース番組拡充に追随する形で地方局ではドラマやアニメ再放送枠が潰され夕方の帯情報番組にされていった。そして90年代末には自主規制の強化がテレビを自縄自縛に陥れた。
テレビアニメの雰囲気はバブル崩壊前は80年代後期の延長線上であるが、90年代中頃まではセル画アニメということもあり昭和の名残はそれなりに残っていた(→90年代風)。スタッフ、担当声優を見て時代を感じる人も多いだろう。1990年代後半からは在京キー4局の子供向け新作アニメが減少し、高年齢層向けの深夜アニメが目立つようになった。この頃から深夜を中心に製作委員会方式の1・2クールの短期放送アニメも増加した。1997年末のポケモンショックを経て1998年には全日帯テレビアニメが本格的に衰退期に入ると、深夜アニメと関わりのない一般人からはアニメ=ジブリと子供向け、少子高齢化で無くなったというイメージが長い間続く。
衛星テレビでは1991年、日本衛星放送(現・WOWOW)が民間で初の衛星放送を開始。CS放送は1996年、米ニューズ・コーポレーション(現21世紀フォックス)がソフトバンクと組んで「JスカイB」計画を発表。1998年に日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併してスカイパーフェクTV!(スカパー!)として開局した。しかし日本では地上波で満足する人が多かったためか、レンタルビデオ店がすでに普及していたためか、受信料のためか、「衛星が地上波を置き換える」という現象は起きなかった。
乗り物
自動車
90年代の初頭はバブル真っ盛りであり、比較的高価格な車でも(当たれば)飛ぶように売れる時代であった。例えばセダン系では、トヨタでは当時登場したばかりだったセルシオをはじめ、クラウンやマークⅡ三兄弟が大人気であり、月販1万台以上を記録することも少なくなかった。日産はセドリック・グロリアやシーマ、三菱のディアマンテ、ホンダのレジェンドも人気が高かった。輸入車ではメルセデス・ベンツ190EやBMW3シリーズは「六本木カローラ」「赤坂サニー」と言われるほどありふれた存在であり、モデル末期のクラシックMINIなどはほとんどが日本で売れていたという。スポーツカー・クーペでは「若者のクラウン」とも言われたソアラをはじめ、走りでファンを虜にしたスカイラインやシルビア、RX-7などが定番の人気車だった。NSXは800万円からという高価格車だったが、発売当時は数年待ちで中古市場ではプレミアが付くほどであった。いわゆる「平成ABCトリオ」(マツダ・AZ-1、ホンダ・ビート、スズキ・カプチーノ)など趣味性の高い軽自動車が多数登場したのもこの時期である。もちろんカローラやサニーなどの大衆セダンも安定した売れ行きを見せていた。
その他、オフロード車であるハイラックスサーフやパジェロ、ビッグホーンなどを街乗りするのが流行り、当時東京を訪れた外国人が「戒厳令でも出ているのか」と驚いたという話がある。当時はトヨタ・ハリアーを火付け役にしたクロスオーバーSUVの世界的な流行を迎える前だった。
しかしながら、バブル崩壊が顕在化した1991年末頃から事態は急転する。
各社とも国内販売台数は激減、バブル期に湯水のように注いだ開発・設備投資のツケが重くのしかかり、経営不振に苦しむ時代が訪れることになる。車作りの予算が削られた結果、急にクオリティが低くなった車(カローラなどのトヨタ車に顕著)も存在したり、バブル期に拡大戦略をとっていたマツダの販売チャンネルが統合され車種が大幅に整理されたり、海外進出に失敗した日産がルノーの傘下に入るなどの業界再編が起こっている。
さらにセダンやクーペに関しては90年代中頃から3ナンバー化等で不振が目立ちはじめており、「セダン=大正・昭和中期世代までの中高年のおじさん・おじいさんが乗る車」のイメージが確立されたのもこのころからである。こうしてバブル崩壊後はオデッセイのようなミニバンや、マーチやデミオやスターレットのようなコンパクトカー、ワゴンRをはじめとする軽トールワゴンが売れ筋になっていく。
それでも2000年までは、スカイラインやRX-7のようなスポーツカーも引き続き売れており、メーカーも総じて走り重視の広報戦略を採っていた。2000年代以降のように登録車から軽自動車に乗り換えるダウンサイジングの動きもまだ活発ではなく2代目以降は「21世紀のカローラ」とも言えるほど売れるようになったプリウスも1997年に初代が登場した当時は(ガソリン価格が安かったこともあり)環境保護に対する意識が高い人だけが乗る色モノ扱いだった。
鉄道
1987年に国鉄が分割民営化されたことにより、地域圏輸送では大手私鉄との激しい競争となり、特にJR西日本、JR東海などが新型の新快速用車両を大量導入し、競合私鉄に大きな脅威となった。JR北海道、JR四国は新型気動車を投入し、JR九州は「水戸岡デザイン」で攻めた。一方でJR東日本は慢性化していた混雑の解消および国鉄型車両の一掃をはかるべく、コスト重視型の209系などを導入するなど各社での対応が分かれている。
JR在来線の特急はそれまでの全国画一的車両から一転、JR各社でそれぞれの個性を出した車両が誕生。経営基盤の弱いとされた、北海道、四国向けのディーゼル特急車も高性能化がはかられている。新幹線では東海道新幹線に300系のぞみが新設、東京-新大阪間がそれまでより30分早い2時間半となり、山陽新幹線でも時速300kmの500系のぞみがデビューしている。また新幹線を在来線に乗り入れる新在直通のミニ新幹線も開業している。
一方で利用者が減少しつつあった夜行列車の廃止が相次ぎ、10年間で大きく本数を減らすことになった。1987年の国鉄分割民営化を前後に全国の旧国鉄の赤字ローカル線はすでに淘汰されており、90年代は赤字を理由とする廃線は少なかったものの、整備新幹線の開業に伴う並行在来線の廃止→第3セクター化など、ネットワークの分断を伴う地方幹線の切り捨てが始まっている。既に民営化までに大半が廃止されていた急行や客車列車などもさらに数を大きく減少させた。
スポーツ
プロ野球はまだまだセ・リーグ、それも巨人偏重報道の傾向が根強かったものの、後述のサッカーブームに押される中でファン層の多様化が進む。1988年に東京ドームが開業し、90年代には各地でドーム球場の建設が相次ぎ、このうち中日、ダイエー、近鉄がドーム球場に本拠地を移した。またFA(フリーエジェント)による移籍が相次ぎ、球団間での戦力格差が広がった。
セ・リーグは野村克也率いるヤクルトスワローズと長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツが優勝を争う状況となり、阪神タイガースはこの10年間のうち9年がBクラス、大半が最下位になるなど暗黒時代とも呼ばれることになった。1998年には横浜ベイスターズが38年ぶりに日本一となる。広島東洋カープは1991年のリーグ優勝が現時点最後の優勝となり、1998年以降15年連続Bクラスと低迷する。
パ・リーグでは前半は西武ライオンズが黄金時代を作っていたものの、1994年の森監督の勇退の翌年にはオリックス・ブルーウェーブが優勝、また初のシーズン200本安打を達成したイチローが大ブームとなる。一方で1995年の近鉄バファローズの野茂英雄の大リーグ挑戦をきっかけに日本人メジャーリーガーが次々に生まれることになる。
サッカーでは、1994年に初の国内プロサッカーリーグJリーグが開始されたことにより、サッカーブームが盛り上がる。1998年には初めてワールドカップに出場、2002年の日韓ワールドカップ開催へとつながっていく。
大相撲では若花田(若乃花)・貴花田(貴乃花)のいわゆる「若貴ブーム」で本場所は連日大入り満員でにぎわう。1991年5月場所において貴花田が横綱千代の富士を初対戦で破り、2日後に千代の富士が現役引退したことから世代交代が一気に早まり、史上初の外国人横綱が誕生したが、日本人横綱は1998年に昇進した若乃花を最後に、稀勢の里が横綱になるまで間、20年近く誕生しなかった。
音楽
J-popの最盛期である。1990年前後の(第二次)バンドブームに始まり、ビーイング系、小室ファミリーを筆頭にしたメガヒットが生み出されるようになった。1991年のミリオンセラーは9作品、1992年は22作品、1994年には32作品と年々増え、日本のレコード産業は1998年にピークを迎える。不況深刻化につれ応援ソングも流行した。
多くはCMやテレビドラマとのタイアップであったが、アニメもタイアップ商法の対象とされ、「おどるポンポコリン」(B.B.クィーンズ)、「恋しさと せつなさと 心強さと」(篠原涼子)、「そばかす」(JUDY AND MARY)などアニソンの枠を超え時代を代表するものとして記憶されるヒット曲も多い。
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バブル崩壊 オウム真理教 阪神大震災 90年代アニメ 90年代風 セカイ系 1990年代アーティストの悲劇
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