概要
バブルによる好景気(バブル景気)が収拾し、急激な信用収縮による不況が訪れること。バブルは泡の意味で、バブル期に過大評価された資産価値の暴落を儚くはじける泡に例えた。
平成バブル崩壊
平成はバブル最盛期(1989年~1990年)と崩壊期(1990年~1995年)、そして崩壊後(1995年以降)で世相がまったく異なる。
1990年代の10年間は、日本企業の「3つの過剰」(過剰設備、過剰雇用、過剰借金)が叫ばれた時代である。金融機関は強引な融資の引き上げ(貸し剝がし)に走り、各企業は経営のスリム化を掲げてリストラや新卒採用の絞り込み、そして仕事や人材の外注化に邁進した。
バブル崩壊の端緒は1990年3月27日に日本銀行から各金融機関に出された地価抑制の通達だった。不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える(総量規制)ことで、バブル期の異常な投機熱を冷やすことを狙ったのである。しかし総量規制は金融機関による行き過ぎた貸し渋り・貸し剥しを招き、急激な信用収縮と資産価値暴落に繋がってしまう。また、同年には日経平均株価の暴落が起こり、土地・株を担保に金融機関が多額の融資をしていた企業の借入金返済が危ぶまれるようになっていく。この通達は1991年には解除されたが、資産価値(土地・株)の下落に在庫調整が重なり、湾岸戦争や円高、世界的な景況悪化、日銀の失策などの複合的な要因が次々に加わり、これまで我が世の春を謳歌していた金融機関は不良債権を抱え、バブルから一転して複合不況に陥ってしまう。
そして、平成期の複合不況は「失われた30年」と言われるほどの超長期不況となり、これらを総称して「平成大不況」とも呼ばれる。
影響
日本企業の体質としてしばしば指摘される消極経営、コスト削減主義は、バブル崩壊を発端としている。多くの企業が「選択と集中」のスローガンのもと、目先の利益に繋がらない部門から撤退し得意分野に集中することで再起を図ったものの、その選択を誤ったために経営が傾いたり、部門の切り売りに陥って解体されるなどの末路を辿る例が続出。「集中」側として生き残った部門でも、コスト削減が手段から目的にすり替わるなどの迷走が常態化し、過度な節約が招いた保守体質は採用抑制や人員削減といった多くの無形資産投資の抑制や設備投資の停滞に繋がった。企業や公的機関はこぞって人員を非正規雇用に置き換え、人材派遣が加速しただけでなく、正規職員の給与水準も低下した。現代まで叫ばれる「格差社会」「若者の貧困」「少子化」などの問題の多くは、バブル崩壊後の雇用・賃金抑制が原因である。
バブル崩壊期の「就職氷河期」は有名私立大学や国公立大学を出てすら中小零細企業に就職できればまだいい方で、就職活動に失敗したままニートやフリーターを長く続けざるを得ず、社会に出て何年もたってから定職につくことができた者が多い。就職できても圧倒的な買い手市場により増長したブラック企業で心身を壊して引きこもりに陥った者も少なくない。
日本はこれまで焼け野原からの復興やオイルショックを乗り越えてきたことから、景気後退が目立ち始めた当初は一時の不況として楽観視する声も多かった。しかし、各企業が貯蓄に熱中し、人を育てるのを怠り、チャレンジを忌避する風潮が蔓延した結果、日本経済の活力は年を追うごとに低下していった。2005年の経済財政白書では「3つの過剰」はほぼ解消したと分析されているが、日本企業の財務状況は改善されても、日本経済はもはや再起不能な状態に陥っていた。