「野球というスポーツは、人生そのものです」
概要
ポジションは三塁手。読売ジャイアンツの4番打者として活躍し、1950〜70年代を代表する大スター選手となった。
それまで学生野球が主流だった日本のスポーツ界を根幹から変え、プロ野球を国民的スポーツに押し上げる程の活躍をし、引退後はジャイアンツの監督としてチームを幾度もリーグ優勝や日本一に導いた。
2013年に監督時代の教え子である松井秀喜と共に国民栄誉賞を受賞した。
息子の長嶋一茂も父親と同じ三塁手の元プロ野球選手で、早期の引退後はタレント・スポーツ評論家・俳優に転身している。
通称「ミスター」、「ミスタージャイアンツ」、「ミスタープロ野球」など。親しみを込めて「チョーさん」と呼ばれることもある。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
3 | 1958年〜1971年 | 読売ジャイアンツ | 選手 |
3 | 1972年〜1974年 | 読売ジャイアンツ | 選手兼任1軍打撃コーチ |
90 | 1975年〜1980年 | 読売ジャイアンツ | 1軍監督 |
33 | 1993年〜1999年 | 読売ジャイアンツ | 1軍監督 |
3 | 2000年〜2001年 | 読売ジャイアンツ | 1軍監督 |
3 | 2003年〜2004年 | アテネオリンピック日本代表 | 監督 |
背番号「3」は1974年11月21日に巨人の永久欠番に指定
経歴
高校時代は目立たなかったが、立教大学に入学後は東京六大学のスターとして注目される存在になった。
プロ入りに関しては南海ホークスからのスカウトもあったが、ジャイアンツに入団。
プロ1年目にしていきなり本塁打王と打点王の二冠に輝き、その後も首位打者を6度獲得するなど、V9時代の主力選手として王貞治と共にON(オーエヌと読む。オンではない)砲と呼ばれ親しまれた。
1972年から打撃コーチを兼任。
引退セレモニーの際に残した言葉「我が巨人軍は永久に不滅です」は有名である。
引退後は監督に就任。
初年度(1975年)はジャイアンツ史上初(2020年現在唯一)の最下位になってしまうが、翌年に見事リーグ優勝。
以降2001年に勇退までの第2期監督時代も含めてリーグ優勝5回、日本シリーズ制覇2回の記録を残している。
1999年のシーズンオフに広島東洋カープの4番打者でFA宣言していた江藤智を獲得。当時江藤は広島で背番号33を着用しており、巨人では長嶋が使用していた。
長嶋は「33番は江藤君に譲る」と述べており、実際江藤には広島時代と同じ背番号33を用意した。代わりに自身の背番号は永久欠番となっている現役時代の背番号3を復活させる事を発表。
翌2000年のキャンプ時のスポーツ番組では、長嶋がいつ背番号3を披露するのか連日報道された程注目された。
同年の日本シリーズではかつての盟友王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスとの「ON対決」が実現。結果は4勝2敗で長嶋巨人が日本一に輝いた。
2001年に監督を勇退、ジャイアンツの終身名誉監督に就任した。
監督として、松井秀喜や高橋由伸、上原浩治など平成前期の黄金期の主力選手を育成・指導した。
人物
その生まれ持ったスター性から王と共に日本プロ野球・スポーツ界の代表者として、もはや歴史的な人物となっている。
「記録よりも記憶に残る選手」と言われ、王のように世界記録を樹立するほどの大記録を達成したわけではないが、天覧試合でのサヨナラホームランに代表される勝負強いバッティングや華麗な三塁の守備で人気を博し、テレビの普及も手伝って国民的スターに上り詰めた。
その勝負強さたるや、公式戦はおろかオールスターや日本シリーズでも生涯打率3割を超えている(当然ながら出場回数が二桁を優に超えている中での通算打率)上に日本シリーズMVPを4回獲得している(2020年終了時点で歴代最多)。
このため、ホームランバッターである王を差し置いて長嶋が4番を任されていた(実際王は対策すれば打ち取ることは簡単であったと言われているが、長嶋は対策が存在しなかった)。
守備でも入団から引退まで17年連続でダイヤモンドグラブ賞(現:ゴールデングラブ賞)を受賞しているが、入団年から引退年まで同賞に選ばれ続けたのは史上唯一である。
またお茶目な言動、そして英語交じりの喋り方から、数々の長嶋伝説・長嶋語録が生まれることとなった。
伝説の方は主にビートたけし、語録の方は関根勤などのものまねによって生まれたものも多いが、長嶋本人もこれに喜んでいたようである。
日本のスポーツ界でものまねされる機会が最も多い一人とされる。
他にも実際の野球関係者が脚色されて登場する野球漫画などでは一番登場回数が多いとも言われており、「巨人の星」などでも重要なキャラクターとして登場している。
監督として挑むアテネオリンピックを控えていた2004年3月に脳梗塞で倒れ、中畑清にチームを託しアテネ行きを辞退しただけでなく、右半身の麻痺に加えて言語にも障害が残ってしまい、一時期は公の場に出ても直接インタビューに応じる事が全くなくなってしまった。
このため長嶋節が聞ける機会は失われたものの、野球にまつわるイベントごとには頻繁に顔を見せて球団広報を通じたコメントを定期的に残している。
また、懸命なリハビリの結果、2013年に国民栄誉賞を受賞した際にスピーチを行うなど、多少ではあるが会話ができる状態にまで回復している。しかも始球式で松井が投げた球を左手一本で本気で打とうとした(結果は松井の暴投で失敗に終わったが)。
なおオリンピックへの参加は、2021年の東京オリンピックの開会式にて王・松井と共に聖火ランナーを務めるという形で実現した。
また、翌2014年7月4日に東京ドームで行われた巨人対中日戦の始球式で、金田正一との一打席対決が実現。金田の投球を長嶋がバットに当て、観客は勿論、金田も長嶋と抱擁して喜ぶシーンが映された。
余談だが、脳梗塞の後遺症による右半身麻痺は本来ならもっと歩行困難になるケースが多い。杖もなしに歩けるのはプロスポーツ選手として培ったフィジカルを武器にトレーニングと言っても良いレベルのリハビリをこなした結果である。
長嶋伝説(ごく一部)
- コンピュータ解析でも苦手部分が見つけられず、打球の方向もバラバラなので守備シフトを作らせなかった(本人が「実は外角低めが苦手」と語ったのはプロ入り前、しかも淀川長治との映画対談でだった。その後克服したのだろうか?)。
- 来た球をどんな体勢からでも打てる打者の究極系。稲尾和久との対戦時、ボーッと突っ立っているのを見た稲尾がもっとも安全と踏んだ球を、へっぴり腰で三塁打にしてしまった。稲尾はすぐに長嶋がなにも考えないで打てるタイプであることに気づき、決め球から逆算して投げるスタイルを放棄して長嶋の姿勢と打ち気を見て瞬時に球を決める作戦に切り替えた。
- ささやき戦術で知られる野村克也から「ミスター、バットの握り方がいつもと違うで」とささやかれるも、「えっ、本当?ノムさんどうもありがとう」と言って握り方を変えずに来たボールを打ってしまった。またある時は「ミスター、この前行きつけの店のお姉ちゃんから話を聞いたぞ」とささやかれ、「そうなんだよノムさん、あの女の子がね・・・」と話し込んでしまった事もあったとか。
- 王貞治とのアベックアーチは実に106回。記念すべき1回目は1959年6月25日の後楽園での阪神戦、昭和天皇が観戦したことで知られる「天覧試合」で、王が7回に打った後の9回裏に4対4の同点の場面で、長嶋が村山実からサヨナラホームランを打ったのがはじまりである。そして106回目は自身の引退試合である1974年10月12日、この年リーグ優勝を決めた中日とのダブルヘッダー第1試合で達成。
- 新人でトリプルスリーを獲れる可能性があった(逃した理由は一塁の踏み忘れによる幻の28号ホームラン。後にキッチリ28号ホームランを打ち直している)。なお、このホームランが幻となったおかげで、この35年後息子の一茂がセ・リーグ通算3万号を打つことができた(踏み忘れてなかったら、3万1号だった)という後日談がある。
- ゴロを処理するのが大好きで他の選手の守備範囲にまで出張していく(「セカンドゴロを獲ったことが2回ある(本人談)」)一方で、フライはショートに任せっきり(「だって面白くないから(本人談)」)。
- 典型的なバッドボールヒッター(悪球打ち)で、明らかにゾーンを外れたボール球を弾き返す事が多かったという。「たとえボールに見える球でも打ち抜いていくのがプロフェッショナルの真髄だと思う(本人談)」。逆に真ん中近くは全く打てず、投げた投手に対して「さっきのはどんな魔球なんだ…?」と聞いたこともあるという。
- 敬遠球を打ち返してホームランにしたことが2回ある。また、そのうち一回はなんと、ランニングホームランである。
- 度重なる敬遠に対する抗議のためバットを持たずに打席に入ったことが2回ある(なお、相手バッテリーはそれでも敬遠した)。
- 昭和36年10月3日付けの朝日新聞における、「わたしが記者なら」というインタビュー記事において、「自分たちは保守党の方なので、社会党が政権を取ったら野球ができなくなる」と大真面目に語って物議を醸したことがある。ちなみにかなり後になって参議院で与野党逆転した際に、この発言を蒸し返され、社会党は「我々が政権を取ってもそんなことはありえません」と回答している(ちなみに発言したのは当時の社会党委員長の土井たか子で、彼女は熱烈な阪神ファンとして知られる)。
- 阪神タイガースの主砲で同郷の掛布雅之が打撃不振に陥ってたとき、掛布が長嶋に電話でアドバイスを求めたが、長嶋は電話越しに「その場で素振りしてみろ」(当時、インターネットやテレビ電話という類は一般には普及していなかった時代である)と言い、その場で掛布にバットを振らせてその音を聞いて打撃のチェックをした。掛布はそのおかげもあって無事スランプを脱出した。さらに後年メジャーリーグに行った松井秀喜に対しても全く同じことをしている。
- いかにも前述のビートたけしとかが作りそうなネタ話っぽいが、江川卓などから「この話は本当なのか」と聞かれた際に掛布は「本当です」と答えている。
長嶋語録
- 「まさか、背が伸びる病気じゃ…」
- *高校時代に成長期を迎え、保健医に相談した時の言葉。年相応の生理現象を理解していなかったことで、この保健医からは「100万人に1人の馬鹿だ」と評された。
- 「メークドラマ」
- 「I live in Edo」
- *学生時代、「I live in Tokyo」を過去形にせよという問題に対して。そこまで過去にしなくてもいいから…
- 「すげえ、外車がいっぱいだ」
- 「失敗は成功のマザー」「ワーストはネクストのマザー」
- 「ミートグッバイ」
- *肉離れのこと。語感が良いためか、彼の語録と知らずに使っている人も多い。
- 「この料理は外国です」
- *知人の招きで巨人の先輩である青田昇と沖縄県を訪れて料理店で食事をした際、初めて食べた沖縄料理の味付けが口に合わなかった為小声で青田へ言った言葉。
- 「これはうなぎじゃない!」
- 「いわゆるひとつの〇〇」
- 口癖として有名。様々なパロディが作られている(例:いわゆるひとつの萌え要素)
- 「スーッと来た球をガーンと打つ」
- 指導の際によく使う擬音。
- 「凄いなあ、俺は今まで一度も打った事がないよ」
- バースデーアーチを打った選手を祝福。長嶋自身はバースデーアーチを打ったことが無いと羨ましがっていたが、長嶋の誕生日はシーズンオフの2月20日である。
関連項目
ヨギ・ベラ:メジャーリーグで2150安打を打った大打者だが、長嶋茂雄に負けず劣らずの語録が多い。
カルピス:現役時代と第二期監督時代に同社のCMへ出演(現役時代はカルピス、第二期監督時代はアミールS)。
セコム:長年同社のCM(「セコムしてますか?」のフレーズで知られる)に出演。
燃えろ!!プロ野球:『ファミリーコンピュータMagazine』に、CDチームで名球会チームのミスタG(長嶋がモデル)を3連続三振に取るとミスタGが「ファミマガハ 永遠ニ不滅デス」と言う内容のウソ技が掲載された事があった。