経歴
Mr.ジャイアンツと讃えられた球界一の有名人・長嶋茂雄を父にもつ。
1987年にドラフト一位でヤクルトスワローズに入団するも、1990年に野村克也監督が就任するとID野球に馴染めず活躍は限定的になっていった。1993年に読売ジャイアンツへトレード移籍するが、「長嶋二世」を期待されるプレッシャーから結果を出せず1996年に現役を引退。
その後は個人事務所「ナガシマ企画」を設立し、バラエティータレントとして活動している。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム |
---|---|---|
3 | 1988年〜1992年 | ヤクルトスワローズ |
36 | 1993年〜1996年 | 読売ジャイアンツ |
人物
いろんな意味で規格外の父親に比べると普通の人だが、彼も彼でやっぱりズレた所がある天然系(pixivでの画像も、その辺をイジッたものが多いとかそうでないとか)。
相方ポジションの石原良純共々、「いつも言いたい放題してる、何をしてる人なのか分からないけど面白いおじさん」としてテレビに引っ張りだことなっている。なお、父親の話をした際に映像が滅多にでないのは、妹が代表を務める管理会社からの許可が下りないためらしい。
小さい頃から父親に取り入ろうとする大人たちに付きまとわれており、野球に関しても「上手くなる前に辞めちゃった」と言いながらも周囲に押される形で結局プロ入りしている。周囲に世話をやかれすぎて「助言のフォアグラ状態」となった事や、ジャイアンツ時代にプレッシャーからパニック障害を発症した事などを後日語っていた。
芸能界有数のハワイ好きで、コロナ禍で何が辛いかと聞かれ「ハワイに行けないのが一番辛い」とボヤいたとか。
ヤクルト時代は同年代の池山隆寛と仲が良く、練習中に池山に弄られる姿が珍プレー好プレーでしばしば放映された。
惜しまれた素質
プロ野球選手としての成績は今ひとつだが、彼の素質を評価する人物は多い。
ヤクルト入団時の監督だった関根潤三は、長嶋の立教大学時代六大学野球のプレーを見て「荒削りだが素晴らしいプレーヤーになる」と評価し、ドラフトで指名する事を決めたという。しかしプロの世界で苦しむ彼を見て、「中途半端に育ててしまったのは自分の責任」と後悔の念を述べている。ヤクルトで打撃コーチを務めていた伊勢孝夫は「勝手に打撃フォームを弄って短期間で放り出す評論家がいて、これにより伸び悩んでしまった」と述べている。
ヤクルト時代の同僚で同年代の古田敦也は、自身のYouTubeチャンネルで長嶋がゲスト出演した際、大学野球日本代表メンバーに選出された時に、練習場だった駒澤大学のグラウンドで打撃練習中に柵越えを連発する長嶋を見て「こいつがあの長嶋か」「凄い奴がいる」と思ったと話している。
巨人時代の同僚落合博満は、後年の長嶋との対談で「お前はちゃんと練習していれば親父(茂雄)を超えていたと思う」と発言し、その素質を評価した。
現役時代一緒にプレーした槙原寛己は「一茂の守備は上手かった」と評している。プロ入り当初は仲のいい池山に「いいグローブ使っているのに何で捕れないの?」と馬鹿にされていたが、ヤクルト最終年にアメリカへ野球留学をし、ロサンゼルス・ドジャース傘下で守備力を鍛えられた結果とされている(実際槙原が1993年に完全試合を達成した時サードに入っていたのが一茂であったが、槙原は一切気にすることなくバッターに集中して投げ、サードにもボールが何度か飛んだが一茂は上手くさばいている)。また審判の橘高淳はスローイングが上手い選手として一茂を挙げている。
元横浜・日本ハムの高木豊は、自身のYouTubeチャンネルで「素質は素晴らしかったが、ハングリー精神がなかった」と述べている。
巨人退団が決まった後も4球団(オリックス、近鉄、広島、横浜)が獲得の意思を示し、オリックスの監督をしていた仰木彬からは「代打要員としてどうだろう」、近鉄の監督だった佐々木恭介からも「是非獲ってみたい選手」と評価されていた。しかし巨人退団の遠因が土井正三コーチへの暴言だったこと(巨人退団の主因だっただけでなくダイエーの監督だった王貞治も怒って獲得を見送っている)や、この時パニック障害を発症したこともあり「これ以上迷惑をかけたくない」として引退を決意している。
格闘技
タレント活動を行なう傍ら、1997年に極真会館の門を叩き、黒帯を取得。空手世界選手権王者の数見肇の百人組手の対戦者を務めたり、50歳以上の空手大会で度々入賞を果たしている。また、経験者であることからK-1の解説も行なっていた。
野球時代から見込まれていた才能は空手でも生かされており、数見肇との百人組手では引き分けに持ち込んでいる。また、ボクシング元世界チャンピオンの畑山隆則とスパーをしたことがあり、畑山からダウンを奪われたものの、スパー後に畑山は「パンチが強くてうかつに近づけなかった」「怖かった」と評している。
関連動画
ヤクルト時代の応援歌
それいけ一茂 神宮の空に
希望と夢乗せて 高く飛べ一茂
※後に同じく二世選手である野村克則に流用された。
巨人時代の応援歌
チャンスが来たぞジュニア 父親譲りのナイスガイ
一茂ファイト 熱い血流せ 打て打てホームラン