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仰木彬

おおぎあきら

かつて西鉄ライオンズで活躍した元プロ野球選手(内野手)。右投右打。引退後は近鉄・オリックスの監督を歴任し、球史に残る名将として知られる。
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概要


1935年4月29日福岡県生まれ。


高校卒業後、19歳の時に西鉄ライオンズに投手として入団。「期待の特大ルーキー」との呼び声が高かったが、フリーバッティングでヒットを連発され、当時の三原脩監督直々に二塁手の転向を命じられる。


高校時代に内野もやっていたため、すぐに内野の守備には慣れ、入団一年目からレギュラーに定着。以降長きに渡り中西太豊田泰光と共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。1967年に現役引退。


現役を退いてからは、近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブのコーチと監督を歴任。選手の個性と自主性を尊重し、数多くの名選手を育てた。トルネード投法野茂英雄振り子打法イチローがトッププレーヤーとして成功したのも、彼のこの姿勢が大きな要因とされる。また、様々な奇策や打順組みは「仰木マジック」と称された。


近鉄監督時代は三原、西本幸雄両監督下でコーチを務めた後、1987年オフに監督に就任。初年度に10.19を演じるなど、近鉄を強豪チームへと押し上げた。

オリックス監督時代は当時無名だった鈴木一朗の素質を見抜いて一軍スタメンに抜擢し大活躍させたり、期待されながらイップスに陥っていた田口壮を外野手として起用し成功させるなど手腕を発揮した。1995年阪神・淡路大震災が発生した時は、『がんばろうKOBE』のスローガンの下、オリックスとして初のリーグ優勝、翌96年には日本一へと導いた。


2005年にかつて監督を務めた両球団の合併チームであるオリックス・バファローズで監督を務めたが、既に肺ガンによって体は蝕まれており、立つ事すら困難な状態だった。同年シーズンをもって監督を退任したが、12月15日に呼吸不全の為70歳で死去。

監督としての勝利数は988勝で、1000勝まで惜しくも12勝足りなかった。


背番号

背番号使用年所属チーム備考
421954年西鉄ライオンズ選手
51954年〜1965年西鉄ライオンズ選手
51966年〜1967年西鉄ライオンズ選手兼任コーチ
301968年〜1969年西鉄ライオンズコーチ
511970年近鉄バファローズ1軍守備走塁コーチ
711971年〜1983年近鉄バファローズ1軍守備走塁コーチ
711984年〜1987年近鉄バファローズ1軍ヘッドコーチ
711988年〜1992年近鉄バファローズ1軍監督
721994年〜2001年オリックス・ブルーウェーブ1軍監督
702005年オリックス・バファローズ1軍監督

エピソード

長きに渡り指導者を務めていた為様々なエピソードがあるが、特にイチロー関連が有名。


鈴木一朗(イチロー)

1軍と2軍を行き来していた若き日の鈴木一朗の登録名を「イチロー」に変更させた張本人。当初イチローは恥ずかしがっていたが、先輩である佐藤和弘の登録名を「パンチ」に変えさせた事で無理矢理納得させた。但し二人同時に登録名を変更したのは、イチロー一人だけが改名すると風当たりが強くなるが、先輩の佐藤も改名すればイチローへの風当たりもなくなると仰木なりに気遣った為である。


イチローは仰木を「ただ一人の師匠」と公言しており、渡米後も仰木に会う為にオリックスのキャンプ地宮古島を訪れる程である。日米通算3000本安打を達成した時の会見でも仰木との思い出を語っている。

逆に仰木もイチローに会う為に渡米しているが、パンチパーマにサングラスというどう見てもその筋の方にしか見えない風貌の為、同僚達から「イチローがジャパニーズマフィアに脅されている。」と心配されたという話もあるが、出所が近鉄時代に仰木の下でプレーしていた金村義明の為、真偽は不明。


仰木がオリックス・バファローズの監督に就任する際、イチローから「51」を付けて欲しいと頼まれたが、「そんな番号は畏れ多くて付けられない」と固辞した。


死の直前の2005年12月に、入院中の病院で担当医に「20日にイチローと食事の約束をしているから、それまでは生きさせて欲しい。」と話していたが、愛弟子との約束日の5日前に逝去した。


佐藤和弘(パンチ佐藤)

パンチ佐藤の登録名の由来は見た目通りのパンチパーマ

佐藤の現役期間は非常に短く、仰木は佐藤に戦力外通告する際に「お前は野球選手としては大成しないが、芸能界なら大成するから今すぐ野球を辞めろ。」とどストレートに宣告。しかし佐藤も仰木を慕っていた為「はい、辞めます。」とあっさり了承して引退し、タレントに転身した。なお佐藤の芸能界転身にあたって、仰木は事前に芸能関係者に根回ししており、佐藤は引退の翌日にやしきたかじんの所属事務所から連絡があった事を後年のインタビューで明かしている。


清原和博

2005年シーズン終了後に読売ジャイアンツを戦力外になった清原をオリックスに招いたのは、監督退任直後の仰木。仰木は清原が西武ライオンズに在籍していた頃から気にかけており、巨人時代末期には何度も仰木から電話があり、清原も仰木の説得に応じてオリックス入団を決意した。仰木からは「お前の最後の花道は俺が作ってやる」とラブコールを送られていた。

清原は「野球界で最も尊敬する人物」と語っている。


死の一ヶ月前に仰木が入院していた病院にイチローが見舞いに来た際には、オリックスの球団広報を通じて「こんなにイチローと話したのは初めて。今度はキヨ(清原)にも会いたい。」と語っていたが、叶う事はなかった。


吉井理人光山英和

吉井は近鉄時代に仰木と確執があったとしばしば報道される事があった。しかしMLBからNPBに復帰した後にオリックスで再び仰木の下でプレーした事もあり、「仰木さんに要らないと言われた時が自分の引き際」と発言している。指導者になってからも「指導者になってから当時の仰木監督が考えている事が分かるようになった。若かったから気付かなかっただけ。」という旨の発言をし、確執について否定している。

同様の発言は近鉄で正捕手を務めた光山英和もしているが、吉井よりもストレートに「現役時代は仰木さんの事が嫌いだった。しかし今は仰木さんならどうするだろうかと考えるようになった。」と述べている。

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